第1次選考通過【26】|最終選考【4】|受賞作【1】
腐らない遺体が発端だった。
猛暑日が続く中、住宅街の空家で死後三日の高齢男性の遺体が発見された。熱中症による事故死と目されたが、刑事の竜胆は腐らない遺体に引っかかる。しかも空家は施錠され密室状態だった。
毛髪からヒ素が検出されたが致死量に及ばない。被害者の爪に残っていた「土」、前歯に挟まっていた「繊維片」。捜査を進めるにつれ、謎が増殖する。
同居する嫁の佳代子の愛車と同じナンバーの車、同じブラウスを着た女性が、現場の防犯カメラに。だが、佳代子には完璧なアリバイが。徘徊老人の熱中症による事故とみえた事件は、意外な方向へと飛び火し――
ミステリーの小説としての骨組みはよく考えられ、複雑な構成を内に用意して、しっかりと完成していた。刑事事件に使用される薬物や麻薬類の知識、またこれを処理するための法律の知識、あるいは警察組織の内部についても、よく調べられており、充分なリアリティが醸され、説明におとなの安定感がある。
冒頭に現れた腐乱しない死体の理由については、選者も知識があったので、この知られた現象を大きめの謎と心得て後半まで引っ張られると、作品評価にも響くと心配したが、これはあっさりと終えられ、導入のきっかけに使用されただけなので、安心した。またこの腐乱しないで現れたきれいな死体が、作の芯になっている「人の精神の醜い腐敗」と対を成していて、全体を皮肉な対比構造に仕立てたアイデアは、秀逸と感じた。
しかしこの作も、事件の推移を説明してくれる文章としては、解りづらい部類に入る。順次事件を描写し、展開を語る文章に、真剣に心を入れて読んでいても、何故か内容が脳裏に届いてこない。いささか込み入った構成のゆえもあり、順次起こっていく事件が視界に浮かびづらく、捜査陣の苛立ちは伝わっても、文中に入りづらい。後半にいたるまで、事件の内訳や、裏面の構造をイメージするのが楽な小説ではなかった。むしろ苦行に近い印象があった。
この点を、やはり選者個人に起こる文章への相性というもので、読者一般には起こらないことかもと考えてはみるのだが、またそうした経験も実際にあるのだけれども、その時の経緯とはこれは違うように思われたし、自分と反応が違う読者は当然いるであろうけれども、そちらの数の方が多いかと問われると、少々疑問であると思った。
作中に入りづらい理由については、ひとつ推測がある。捜査側の人物たち複数の立ち居振る舞いとか、発言に、最後まで共感が湧かず、思い入れができる人物が探せなかったという事情が、なかなか大きいかと感じた。
捜査一課の男たちの、男らしいと自らは信じる格好づけ、つまり格好良いと自らは信じて繰り出す定番のセリフが、昭和おじさんたちのややもすると失笑を誘う古びたもので、たとえば人の目を射抜く老練課長の眼光だの、気魄、胆力の凄みなどと言われると、その劇画的定番性にああそうですかと言わざるを得ない。脇役自覚の刑事のたびたびの発言、「あったすよ」とか「これっす」、「証拠になるっすよね」などの軽口パターンには、どうにも今日にも通じる洒脱は、感じることができない。
捜査陣の男たちを称揚するらしい使い廻しパターン文体の多出には、暴力漫画に見るようなカルい感性が感じられて、これは書き手の本気の産物か、それとも先に何か裏を用意した伏線かと、いささか戸惑わされる。これだけヒトの悪意を巧みに描き重ねる繊細な筆力とか、人間の醜さ悪どさを誘導する社会構造を指摘する成人感性の作者の作にしてはと考え、やや不思議な感慨を抱く。
深酒やタバコによる暴力傾斜的世界を、男らしい格好良さと心底から信じ、犯罪誘発の可能性はデータ的に低い大麻を、この世の最大の悪徳と確信して言動する、アメリカなどではもう古くなった正義感覚が、今も格好良い行動の前提となる多少珍なる日本人の姿に、この小説の芯になっている昭和の暴力教育の正義、実は愚劣と通底する無思慮を見ると同時に、ここにもまた、明瞭に皮肉な対比構造が浮かぶのを見る。これもまた日本の近現代史が今も地下に畳みつつある、疑問の地層というべきもので、どこまで作者が意図したものかは不明であるが、こうした皮肉を知らず描いてしまうこの作者は、何ごとか天啓めいた貴重な資質を持つ人かもしれない。
この小説が、昭和おじさん自身が書き連ねた文章世界であるなら、こうした幼児性を感涙と共に書き進む情熱も理解できるのであるが、女性作家が、どうした判断からこうした奇妙なことをしているのかと首をひねって読んでいた。徹底した男性突き放しの感性から、声帯模写的な身の寄せ方を演じて、ある種の諦観とか、呆れとともに書いているのか。
子供っぽい格好つけから、連日連夜噴飯的なセリフとともに暴走を繰り返すおじさん世界に、あきれつつも妥協を尽くしたこの文章は、わが男性上位社会における女性の、受け身的立ち位置を示す産物か、それとも安酒ととものこのおじさん流儀、お笑い風味自己陶酔が、捜査の実績を上げもするから、まあ致し方なかろうと評価している風景スケッチか、もしもそうなら、日本型男性社会の馬鹿馬鹿しさは、この作品を隅々まで、あますところなく満たしているわけで、いささか救いのない気分にさせられる。がしかし、それこそがこの小説の執筆動機なのであろう。
ともあれ、そういうおじさんの自己陶酔的躍動を前半は肯定的に徹底描写しているから、思い入れのできる冷静で、魅力的な正義側の男の姿が見当たらず、こちらのそうした宙ぶらりんさが、文章との間に隙間を作ってしまって、間に薄布を一枚通した視界のような、内容の伝わりにくい文章になった、という事実がひとつにはあろう。大人の感性で、共感が可能な人物は、困ったことにはおそらく作者と同様、悪に心を腐らせた一人の女性にであって、こうした構造は、この小説の目指すところが、一般的な推理小説の精神からは外れていることを示している。
この小説をこちらが本格のミステリー小説と予想して前半を読み、犯人の保身の作為や、トリック構造のからくりを読み解き、咀嚼し、裏面を見抜こうと知らず身構えていた意識が、後半にいたって、まったく見当を間違えていたことに気づいて、かなり驚かされた。そしてこの瞬間にいたり、この小説が見違えるほどに輝きはじめたことを感じた。
この小説はそういうものではなく、人の世の醜さ、ここに長く暮らして知らず身につける、心腐らせた者のしたたかな損得勘定、そういうものを表現して読み手に見せつける文芸の姿に、主眼があった。右のミステリー構造は、その手助けに活用したものにすぎない。
後半にいたり、人の思惑の醜さ、暴力行使快感に関する正義感のすり替え、男の求めるエセ行儀心はちゃんと演技して、これに逆らわず、しかし金銭欲得は巧みに吸引していく受け身位置の女の計算、こうしたものが、作後半では腐食土壌に断崖を出現させ、ここに折り重なって累々と露出する醜悪の美、この小説はむしろこうした人の世の愚劣さ、男性社会の腕力崇拝の幼さ、その罪、不手際、これは正義の具現たる警察機構の内部をも含むのだが、これを見下し、活用して生き抜く、ある生物の持つ一種の醜悪美を描かんとした小説であることに、ようやく理解が及んだ。
こういう営為は、ミステリー小説というより、極東アジアの近現代史が産んだ、日本人という特殊な民の美醜を描かんとする、文芸志向人の仕事であるように感じられ、ミステリーの手法がこれをよく助けていたと理解されて、なかなかの成果が見えていたと感じた。
本応募作は、現代の京都市西京区を舞台とした本格ミステリーである。探偵役は桂坂大学の特任助教を務める戸部根澄であり、探偵の助手役は大学で戸部の研究を手伝っている猫俣渚紗である。
阪急桂駅前のマンションに住んでいる松下久実から、「真夜中にスズメの声が聞こえたから、その謎を解決して欲しい」という依頼が戸部のもとへ舞い込んだことを切っ掛けとして、戸部と渚紗は、警察に協力するという形で連続殺傷事件の捜査に関わることになる。
戸部は、動物を対象とした心理学を専門とし、その専門知識や技術によって事件を解決する。
ミステリーとしてのストーリー構成の材料は、非常にうまく用意されていると感じた。本格系のミステリーを好む読者の関心を惹く要素は、実に網羅的に準備されており、順次これに惹かれてページを繰らされるという印象は好ましいもので、こうした構成と計算の能力は充分にある人、という評価を持った。当賞の最終候補作浮上はもう二回目になるので、こうした能力はすでに充分に獲得している書き手という印象を受けた。
深夜に鳴くスズメがいた、その声を聞いたという情報から、事件に消極的な探偵が、何故それを早く言わないのだとばかりに興奮を始め、研究室から飛び出す。動物行動学の知識のないこちらは、夜半に鳴くスズメくらいはいるだろうにと思うのだが、動物の専門家にとっては看過不能、夜中にさえずるスズメの出現は、驚天動地的の不可解事であるらしい。こうした導入には心を惹かれる。
自由奔放に行動しているように見える動物だが、彼らにはサーカディアンリズムという逸脱を許されないルールがあり、行動原則の本能が存在している。夜中にちゅんちゅんと鳴くスズメは、今回のこのあり得ないに近い不可解な一連の事件の理由を、冒頭で象徴的に説明していた。こうした構図もよいもので、好感を持った。
主婦が暮らす古都京都のマンションのベランダに、人間の眼球が置かれている。それまでここにはミニトマト、鶏の唐揚げ、ミートボール、サヤインゲン、ピーマンの肉詰めなどが次々に置かれ続けていた。
続いてここに、人間の親指が二本置かれ、発見される。
さらには、付近の公園で女の子の遺体が発見される。動物が噛みちぎった歯形が、首についている。
眼球や親指があったベランダに、男子児童が降ってくる。重傷になり、救急搬送される。しかしこの児童の態様の説明は、充分なものに思われず、このあたりから、説明の不足が始まっていくように感じられた。
ついに山野辺公園で、ペガサスか、背に翼を持つ、動物学的には存在しない架空の四つ足生物、グリフォンに似ている奇怪な動物が目撃される。
続いて様々な異物が置かれ続ける現場からほど近い別のマンションで、人間の子供の上唇と思われる物体が発見される。
こうした小事件の連続は、ミステリー好きを刺激吸引する要素として充分なので、ただ並べ、通常の説明を付していくだけで、面白いミステリー展開は作れ、完成させ得ていたと思われる。加えて作者の動物心理学会員としての専門知識を動員すれば、一般が驚かされ、説得されるような説明の文章は作れるはずであった。先の「夜鳴きスズメ」がそうであるが、モスキート音とか、サーカディアンリズム、グリフォン、カラスの種類の専門的な説明や、他の鳥の鳴き声を真似るこの鳥の性質についての解説、あるいは犬に暗示をかけ、あるキーワードを用いて人への攻撃を起こさせる術など、いちいちなるほどと思い、専門家らしい蘊蓄には、敬意を払いたい気分が湧く。
しかしいったいどうしたことなのか、これら専門領域の解説文は、必要な積極性を持っているのに、事件の内容を順に述べていく地の文章に、奇妙に実態感がない。血肉の腕力を持っていず、ゆえに説得力というものがほぼ消えている。これを読まされていくのは不思議な体験で、物理的な「事件」が作中に起こっており、その現象の理解自体はむずかしいものではないのに、ページを戻って何度も読み直してしまう。これはいったいどうした理由で起こることなのか、終始考え、たびたび首を捻った。説明がポイントをはずしているということも時にあるが、それが理由ではない。はずす理由が別所にあると見える。これは自分にのみ起こる、個人的な対文章の相性かと疑うのだが、どうもそうではないように思われる。
非常に踏み込んだ言い方をするならば、起こしている思い切った事件に、責任を取るまいとするような、そういう消極性の滲みで、積極消極、混乱した心根が繰り出してくる血の気のない文章が起こす揺らぎ(上三文字ルビ点)、という印象を、次第に得てしまった。
ベランダに人間の眼球が落ちている。床は、コンクリートか、それともリノリウムが貼られているのか、最近の流行から、木目が貼られた仕様になっているのか。
眼球には、白目の部分と黒目の部分、黒目には虹彩があり、白目には血管が浮いている。白目部分の白色は健常か、黄ばんでいるか、球全体を、血液の色は覆っているのか、眼球に大きな損傷はあるのか。
このような仰天の物体が自宅のベランダに存在すれば、主婦ならば即時に目を背けるであろうし、医師のような落ち着いた観察をするはずもないというのは解るが、しかし、述べたふうな情報は、瞬時に視覚に飛び込むものではないか。もしも見なかったとするなら、その説明こそは少なからぬものにならないか。このようなとてつもない衝撃を眼前にして、そうした説明をしないのは、食い足りないではすまず、何らかの特殊事情を考えてしまう。
続く親指や、耳、上唇に関しては、さらに説明が避けられている印象だが、不快な風景としての文章も、いったんは現わしておかないと、文全体が、梗概の文のような、執筆前の作家の脳内メモふうの簡略文に聞こえてしまう。
グリフォンなどは特にそうで、中段でこのような特殊なものが現れることは、大きな驚きをともなうある種のクライマックスとも言える風景のはずで、目撃のシーンにはもっと多くの驚きの描写があって自然であろう。
そして解明の文章には、出現した驚くべき風景の、裏面の事情が丹念に説明されてもよい。犯人は何故このような圧倒的に手の込んだ努力をし、おそらく一般は心得ないであろうこうした特殊な架空生物を、古都の一角に走らせる必要性にかられたのか。ただのシュールリアリズム的風景への芸術家的渇望か。作の全体にミステリーの霧を発生させるための身を粉にした献身か。あるいは呪術的な狂信性が犯人の凶行裏面に介在していた? それともまったく別に、自身の刑事的な罪回避の方策として、この風景の出現が計算されていたのか。こうした具体的な説明がない。
何より、古都の公園にこのような動物が出現した際の風景は、犯罪者の側に充分な美と価値を感じさせたか。千年の都において、とりたててこの公園が選ばれた理由には、もっと文字を費やしたい気分はないのか。ただ異常行為の淡々とした後始末描写が続くだけなので、作者に仕掛けた者への関心が薄く、釈然としない。
また作者は、ある種の催眠術をもちいて、本来人懐こい動物に暗示をかけ、キーワードを聞かせて人間を襲わせたと説明するが、この行為時の具体的な描写がない。シェパードに暗示をかける際の犬の表情は、反応は、また動物に外科的手術を施す際、具体的な細部はどのようであったのか。いつどこで、どのようにしてこれを行ったのか。どう見ても施術者には、経験も分別も、設備も道具も、何もかもが圧倒的に不足しているのだが。
手術に用いる鳥の羽根の種類の多さにも、首をかしげた。これら大量の羽根を、すべて一匹の哺乳動物の背に縫いつけたのであろうか。いったいどういう外観のグリフォンができあがったのか。グリフォンとは、これほどにたくさんの翼を持った生物なのであろうか。
またこの犯人像には、意外な人物を設定せんがあまりの、いささかの無理が感じられる。
催眠術のトリガーの効果は、計算通りのものがあったのか。人間がささやいた場合はうまくいったにしても、鳥に行わせたという設定なので、教科書的な解説説明だけでは、そうした学術的な予測がすんなり成功したという納得感はなかなか生じない。想定外の反応はなかったか。実際は、どういう段取りで鳥から犬にこれを行わせたのか。もう少し具体的な説明を読みたい気分になった。おそらく多くの読者も、同様に感じるのではないか。
ゴーレミアムに住むアリアナは、幼い頃に盗みの濡れ衣を着せられ、現在は修道院に蟄居している。端女として暮らす彼女の右手には、罪人の焼印が押されていた。一方、アリアナの幼馴染である少年ミハイルは、教皇庁の従騎士として鍛錬に励み、家族の仇である革命派の殲滅を目指していた。ある日、アリアナは領主グリフィンの城に呼ばれ、五十年に一度ゴーレミアムに現れるという、聖女の選抜試験に参加することとなる。ミハイルもまた、試験官である司教たちと共に、ゴーレミアムに向かった。
グリフィンの別荘があるハロン島に向かう一行。アリアナは試験を受けるものの、結果は散々だった。再会したアリアナとミハイルは、互いの身の上話をして旧交を温める。アリアナの焼印を見たミハイルは、それが封印の魔法陣ではないかと疑う。
ハロン島に来て二日目、聖女候補のジェシカが殺害される。ジェシカは密室となった自室で、圧死のような状況で殺されていた。さらに島を巡回警備していた、ゴーレムが一体消失していた。師匠の聖騎士カイルと共に、ミハイルはジェシカ殺害事件を調査する。その結果、別荘の地下室で、呪殺の魔法陣と三体の死体が見つかる。これは革命派の仕業と思われた。調査してもジェシカ殺害犯は見つからず、そのまま夜を迎える。
三日目の朝。今度は聖女候補であるリーゼロッテが、密室内で撲殺されていた。今回もゴーレムが一体消失しており、ゴーレムが犯行に使われたと思われる。
さらに午前中、密室となった回廊で、今度は司教レーゼが殺される。カイルは事件を追う最中、聖女選抜試験の意義に疑いを向ける。
そして夕食の時間に、家令タレスが首吊りの状態で発見される。自殺と見られたが、ミハイルは熟考の結果、タレスは自殺ではないと判断。しかしその直後、カイルが真相を解明したと言い、全員を集める。
カイルはジェシカ殺害事件において、犯人がゴーレムを使い、密室殺人を行った方法を推理。さらにそこから、近衛騎士ニコロが犯人であることを喝破する。ニコロは実はジェシカと恋仲であり、ジェシカは妊娠していた。しかしニコロに貴族令嬢との縁談が来て、ジェシカが邪魔になったのだ。自身の出自を嘆きつつ、ニコロは罪を認める。
さらにカイルは、リーゼロッテを殺害した方法についても推理。そして犯人を、修道士イシュマルだと喝破する。静かに罪を認めながらも、動機は黙秘するイシュマル。カイルは殺害動機を、リーゼロッテが聖女かどうか試すためだと推理。さらに教皇庁が、歴代の聖女を殺していたことを突き止める。イシュマルはそのことを認め、ゴーレムの聖女など迷信だと嘲笑う。
そしてカイルは、レーゼを殺したのはタレスと推理。タレスが自殺したのは、自身の罪を悔いてのことだと述べる。このことにアリアナは納得がいかず、自室で推理を働かせ、タレスにレーゼ殺しは無理、という結論に至る。アリアナはミハイルに自身の推理を話し、ミハイルにもまた考えがあるという。
静寂が訪れた別荘内で、神に祈るアリアナ。そこにグリフィンが現れ、自分はアリアナの父だと述べる。アリアナはグリフィンにとっては妾の子で、養子に出されていた。しかしアリアナが聖女であることを知ったグリフィンは、アリアナを教皇庁に奪われないよう、封印の焼印を施したうえ、修道院に蟄居させていたのだ。そこに謎の男が現れ、グリフィンを殺害する。
ミハイルはカイルを探し出し、自身の推理を述べる。アリアナの証言から、レーゼを殺したのが外科医シャクマであること、さらに回廊のドアベルが鳴った回数から、タレスも自殺ではなく、シャクマによって殺されていたことを告げる。するとカイルは「何も知らなかったことにしろ」とミハイルに告げる。
カイルはシャクマと結託した革命派だった。レーゼ殺しの濡れ衣をタレスに着せ、シャクマにタレスを自殺に見せかけて殺させていたのだ。真実を知ったミハイルは、カイルと対決。剣を奪われながらも、ゴーレムの義手を使ってカイルを倒す。
一方、グリフィンを殺害したシャクマに、アリアナも捕まりそうになる。傭兵クニミツがシャクマを捕縛しようとするものの、シャクマは使役下に置いていたゴーレムを呼ぶ。ゴーレムと死闘を繰り広げるクニミツ。アリアナは封印の焼印を、皮膚ごと剥ぎ取ることで聖女の力を取り戻し、ゴーレムを制圧する。
さらに侍女長サリーナは、実はグリフィンの妾であり、アリアナの母であることを告げる。アリアナを遠くへ逃がすため、サリーナは自身の命も使って偽装を施す。
ミハイルやクニミツと共に、東方に逃れたアリアナ。故郷に戻るクニミツと別れ、アリアナとミハイルは新天地へと向かった。
この作品は一転、非常にクリアな視界を感じさせる、明晰夢のごとき描写の文体で、作内部で起こっていることがこちらによく見え、進行が脳裏にイメージしやすかった。
ところがそういうこの小説に限っては、作内部がほかの候補作とはだいぶ様子が違い、ストレートな文体が伝える世界は、身分制が支配する中世ヨーロッパの封建都市で、騎士、司教、修道士、ゴーレム、などが実在する黒魔術的世界、ゴーレミアム領ハロン島という架空の社会で事件は連続する。何故か日本人の武将と見える人物が一人いるが、ドラマを織りなす他の登場人物たちはすべて欧州の白人と思われ、さらに、土くれから創られた怪力のゴーレム人形を、ペットのように操れる超能力の聖女が、五十年に一度この街に出現するらしい。ただし前半はそういう聖女探しの展開で、どの女性が聖女かは不明となっている。
すなわち、読み進むにつれて焦点が合い、クリアになる視界に見える街並みは、細部までよく見えても、それは今日の欧州の街路ではなく、むろん日本の街でもなく、どこにも存在せぬ超現実の箱庭的世界であり、そこに躍動する登場人物は、これもどこにも存在しない、コンピューター・ゲームにおける戦闘員の定型的セリフを吐き散らし、ボット的躍動を見せる、血肉を感じさせない存在だ。しかし、古い石積みのこの世界は、実は今日、誰の目にも即座に了解が取れる、よく知られた世界なのだ。この街は、いったいどうした由来で、本格ミステリー世界に現れたか━━?
構築をすっかり終えてから現れたこの仮想現実的な集落は、これより大掛かりで奇想天外なマジックを見せるための周到な装置かもしれぬと、読み手としては大いに期待した。
小説世界が開始されても、内部事情の説明が淡々と続いて、長く事件が起こらない印象がある。衝撃的な事件、すなわち作を引っ張る謎を早めに提出せんとする配慮が感じられないこの冒頭の冗長に、思えばこの小説の性質が早々と提示されていたのだが、やがて密室内に現れた殺人事件の態様に、かなり驚かされて、大きな期待が呼び戻された。
厳重にロックされた密室の内部に、象に踏まれて圧死させられたような聖女候補者の死体が出現する。室内であるから、周辺に象も恐竜もいず、上方には天井が存在するから、重量物が落下してくる可能性はない。また周囲のフロアにそのような大型の物体が転がってはいない。街に大勢いる巨大なゴーレムなら、このような所業は可能ではあろうものの、密室内にゴーレムはいない。このような条件下、犯人は聖女候補者を、いったいいかなる方法によって圧死という特殊な殺し方ができたのか。
これがこの「本格ミステリー小説」のメインの謎であり、この小説が、これよりすでに出現している物体や、人物を含む材料を用い、現実的な推理思考を行なってこの謎の解明に挑戦するという趣向なら、そして合理的な解答が先に用意されているものなら、今年の受賞作はこれで決定したと考えた。ストレートな文体によって、舞台装置も、推理のための材料も明瞭に示されていたからだ。
この殺害死体の出現は、謎として充分な不可解性を持ち、問いとしておよそ未聞のものであり、申し分のない大型の感覚がある。
かつて新本格が世に登場したおり、選者の記憶に誤りがないならであるが、同様の密室の中に、かなりの高所から転落死したとしか思えぬ死体がある、という謎を提示した作品があった。しかし今日この作が名品として世に遺っていないふうなので、こちらの記憶違いであったか、それとも作に不手際があったかしたのであろう。この作の存在は伝聞であり、当時もそれなりに多忙であったから、詳細は判然としないことになった。
しかし二〇二五年登場のハロン島のこの謎も、期待通りの趣向なら、世に遺る可能性は充分にあると期待した。
ところが、その後の展開を読み進んでみれば、ゴーレムは最大三メートル六十センチという高身長を持っているのだが、所有者のかける魔法ひとつで、身長は三十センチ程度にまで縮み、カバンに隠して持ち去ることができ、必要ならば消滅させてしまうことも可能だという説明を読んで、期待は瞬時に消失した。
それならば密室は存在しないも同然になるし、人間一人を圧殺できる巨大な重量も、思うまま望みの場所に出現させ得るし、また重量ゼロに消滅させることも可能という話になる。人一人を圧死させたのちは縮小してカバンに隠し、持ち去れるうえに、そのカバンを調べられそうになれば、中のゴーレムを消してしまえる。これでは「本格ミステリー」としての醍醐味を導く条件は大半霧消する。どれほどに不可解きわまる殺人事件も、便利なゴーレムを活用すれば、魔法の念力ひとつで起こせてしまい、小説の種類が違ってしまう。
巨大なゴーレムを操るには、「セム」と呼ばれる、神の名前が書かれた羊皮紙を、彼の口に入れることでコントロールが可能になるとあるのだが、この羊皮紙がコピーされるとか、奪い合われるなどという趣向もない。あくまでゴーレムの操りは、特権的能力者、聖女にしか起こし得ない。
「本格のミステリー」という文芸は、近代、「科学」という新思想が欧州に現れ、これが封建主義を後退させ、「民主主義」というイデオロギーを産み落とし、これを反映した形態の新文学としてアメリカで誕生している。そういう経緯だから、当作に見えるようなゴーレムという民話系のフィクションは、「非科学」として小説になじまず、それでも出現させ、操れる人間を介在させたいなら、ある条件を経れば、どのような人間にも平等に、その怪力を行使させ得る、とするべきなのであろう。この小説には、そうした配慮の形跡はないから、その方向のドラマはない。
こうした思索を経れば、この小説は、作者の脳裏で細部までしっかりと構築完了されたファンタジー世界を、コンピューターによってヴィジュアル化したキャラクターを波瀾万丈に動かすことで見せるアニメ映画であり、ファンは受け身で鑑賞するのみ、という一方通行のストーリーと理解することができる。自負する知性でもって、読み手が能動的に参加するという、双方向型の発想は許されていない。
なるほどそう解析し、了解するならば、このファンタジーはそれなりに楽しく、血湧き肉躍る活劇として楽しめるし、理不尽な目にあうヒロインの立場に同情したり、思い入れて悲しんだり悔しがったりができる。腕に覚えの騎士たちの胸のすく剣術に、興奮もできるのではあるまいか。ただし、おそらくはアニメ鑑賞の頻度が高い人ほどに、そのヴィジュアルを脳裏に完成させやすいのではあるまいか。すなわち、アニメやPCゲーム体験というサポートが必要と、作者は嫌うかもしれないが、言い得るかもしれない。
今や確立したこの世界への作者のひたりかた、馴染み方の深度から、各登場人物のセリフも的確であり達者で、時に感動的な美しい言い廻しもごく自然に湧いで出るふうで、苦労している形跡がない。したがって読み手がもしも同種の背景を持っていたなら、今稿に強く共感し、エキサイトすることも可能に違いない。
キャラクターの中に、日本の武将と思しき戦闘員が一人混じっていることは述べたが、最後のシーンで彼は、主人公たちに別れを告げ、ただ一人、極東の祖国に向かって帰っていく。彼が事実日本由来の武将なら、彼の孤独を考え、ゴーレミアムの地に渡ってくるまでに果たしてどれほどの艱難辛苦を体験したか、これをひそかに夢想して、同じほどのヴォリュームがありそうな、もうひとつの物語を脳裏に描くことも自由であろう。
すなわち作者のこの世界への馴染み方は、住人かとも思えるほどで、発展可能な様々な地平を絶えず見ており、当ファンタジー内部にも、新展開を生み出す因子を随所に、豊富に存在させている。こうした物語を脳裏にたやすく見ることができるこの作者は、稀な才の持ち主だから、今後これをどう活用するかはじっくり考えられてよい。アニメやゲームの世界に進出するのが自然ではあろうが、福ミス選者としては、これを本格の双方向ミステリーに活用する手立ても、考えてみてもらいたい気分がしている。
探偵事務所の見習い、城川襄はトラブルに巻き込まれて逃げる途中、季節外れの別荘に逃げ込む。翌朝、若い女を拾う。城川が撥ねたらしい男の死体を見つけた二人は、男の乗ってきた車で逃走する。その車のトランクに見知らぬ女の死体があり、二人は殺人クライアントと通話する。クライアント女に第二の殺人を命じられる。
二人は事件屋の記者と知り合う。トランクに入れられていた女は、秘密書類を盗み出し、そのために二つの対立する暴力団から追われていたらしい。
その文書は某国の政権選挙にまつわるものだった。候補者の出自をめぐって、外国情報機関や日本国内の暴力団と結託して、文書の行方を追っているのだった。
城川たちは、第二の殺人の標的として指示された女を誘拐して匿う。聞いてみると、この女が小説家の麻丘まりあであるとわかる。麻丘まりあは覆面作家で、ほとんど実像は知られていない。
まりあは『サイコパスと旅をする』という小説を連載中だった。
二人は安藤とともに『サイコパスと旅をする』を連載している出版社を尋ねる。同作に反応した読者に元刑事がいて、その老人はこの話にはモデルがあるのではないかと言っている。二人は元刑事を訪ねて、三十年ほど前の事件が小説と似ているのを知る。今度は暴力団顧問弁護士の妻が拉致される。
連載中の『サイコパスと旅をする』が突然別人の手記を載せだすが、麻丘まりあが書いたものではない。その手記こそ、諜報員や暴力団が争奪している秘密文書だった。
城川たちは、クライアント女になりすましが見破られ、対決するが、仲間が拉致され、作家もさらわれてしまう――。
文章自体の上質さ、端正さや表現の的確さ、テンポを維持していくための文末の変化の付け方のセンスなどは、この書き手に最も上手を感じた。醸される文学性に関しても、この作が最上位の印象だった。「わが虜囚の記」という挿入小説の文章は特に格調が高く、伝えている内容に価値も重さもあり、こちらを吸引してのちは、推進力を持ってぐいぐい引っ張るエネルギーの強さも感じた。
この文章の作中時間が敗戦にいたり、日本兵捕虜たちが戦時法廷の被告席に導かれる描写にいたると、こうした歴史をすっかり忘却している今日の日本人のありようも思い起こされ、思いが深くなる。日本兵への、中学生徒に対するような上から叱責の屈辱が、今日の日本人の性格を直接的に決定しているのにである。またこうして犯罪者の烙印を押された日本人が、平成の今、今稿内部でまたぞろ刑事犯罪を犯し、罰を受けようとすることの意味も、深く考えたくなる。
しかし、敗戦時に受けた叱責を忘れず自重を、などと言うつもりはさらさらない。南方侵略というなら、検察席や判事席の白人たちこそは、被告席の黄色人の千倍も重罪を犯していた。彼らの傲慢はとてつもないもので、幕末の黒船来航時、地球上で植民地になっていない国は、島嶼を除けばだが、エチオピア、タイ、日本の三国だけであった。それも、エチオピアには強烈な致死性の風土病があって入れなかったこと、タイは英仏が睨み合い、戦争を躊躇しあったからにすぎない。
また植民地運営時に白人たちの見せた暴虐は、当作品に現れるサイコパスや殺人者など可愛いもので、日常的にレイプを行ない、動物に対するように日々先住民を殺して楽しんだ。被告席に引き出された黄色い罪人は、こうした白い肌の極悪人から、罪のない南方人を開放したにすぎない。白人たちの犯罪体質を知りたければ、アメリカ人が自国で黒人奴隷に対して為した鬼畜の所業を思い起こせば充分だ。この差別は百年前から、この戦争時にもまだ続いていた。彼ら白人に、日本人を裁く資格などないのは明らかだった。
いずれにしてもこうした思いも湧き、できればこの挿入手記の章にずっと留まっていたいと思いながら読んでいた。おそらく書き手は、こういった内容の表現に少なからぬ自負を持ち、つまりは文学の世界によく馴染んだ人なのであろう。
それゆえであるのかどうかは不明だが、ミステリー小説の習作としての今稿は、事件の進行、つまりは登場人物たちが冒険の旅をしていく軌跡が、ひたすら二次元的で、地図の上を視界狭く這うようだが、全体を俯瞰する作者の目が長く感じられなかった。俯瞰の目とは、構想を初期段階から見通し、作中の空間をとらまえて、驚きの装置にしてしまわんとする「神の目」発想がどうやら存在しない。あるいは降臨手前である。都度都度、地図の上を這う虫の視線に同化を続け、つまりは出たとこ勝負の驚き以上の思惑の大きさは、終わりまで感じられることがなかった。
事件の進行がのっぺり二次元的でも、それが圧倒的にリアルでこちらを唖然とさせ、考え込ませる陰たる提示、それが文学の空気、それとも資格なのであろうけれども、つまり「わが虜囚の記」に見るような。そうなら、私(小説)の実体験に勝てる人工性や、頭で考えた描写など存在しないというものだが、ものが本格のミステリーなら、近代自然主義発生の沸騰石たる進化論科学の精神をもって、そう勘づかせずに世界を支配する人工性の妙味を操らなくてはならない。後半にいたって世界を転覆させるような驚きと気づき、そして感動を読み手にぶつけて、時として人生の捉え方に覚醒の学びを与えんとするような体験を、個人的には目指している。
おそらくはそうした事情からなのか、あるいは違うのかもしれない、いまだに結論は出せないのだが、物語の根底には台湾の中国政府系の共産親派と、独立指向派の争いがあり、先の「わが虜囚の記」なる手記は、どちらかの手に渡れば、おのおのの争いを有利に進める武器足り得るという判断がからむという、国際政治の壮大な構図も重ねていて、このあたりの骨太感は作者の文芸趣味の反映で好ましいものであるが、探偵事務所の見習いが、軽井沢で娘を拾うなどしながらの逃避行の経緯が、どうしたことなのか惹かれるものがなく、作中に入れなかった。
サイコパスの言動と加虐趣味、他人の性行為までを支配せんとするサディズムの描写など、興味を引く要素は随所に用意されているし、われわれが事件に巻き込まれれば、出遭うのはこの水準の凡事になるであろうから、こうした章の筆を批判はできないのだが、何故強く惹かれないのか、もしかするとこれらの表現が、本格ミステリー体質の発露ではないからなのかもしれない、などと考えた。
登場人物に魅力がないわけではないし、サイコパスの感性、行動は大いに興味深いし、複数の女性たちの奇妙な折り重なり感に、何ごとか策謀の匂いもあって若干の関心も湧くのだが、どうしたわけか、この手の作られた煩雑さには強い惹かれ方が起こらない。読み進めるのが次第に難儀に感じるほどに、この章からは一種の拒絶感が来る。
後段にいたり、折り重なるように現れ、行動する多数の女性たちのうちの、美冬と沙織が入れ替わっていた、より正確には、作意を持ったある人物により、ストーリーを伝えてくる中心人物に向かって、入れ替えて紹介されていたという本格ミステリー系のトリックが明かされるのだが、これがなるほどと膝を打って驚き、以降の視界をすっきりと明瞭にするような、鮮やかな発見とはならなかった。女性の読者なら、あるいは彼女らの言動や振る舞いの微妙さにリアリティを感じながら、作中に没頭してストーリーを追っているから、あるいはこれが、大きな好ましい、全体をすっきりと理解させる驚きになっていたのかもしれない。
しかし選者の場合、内部から絶えず感じられる軽い拒否感と闘いながら読んでいたので、そう聞いても、何やら煩雑を感じただけで、大きなカタルシスとはならなかった。後半にいたって作者が、本格ミステリーの仕掛けも付与せねばと、あたふた付け足したような印象も持った。
個人的把握になるのだが、これも作を俯瞰する「神の目」の不在とも関係するように思った。作者が地図の上を這う虫の視界に同化を続けているので、世界を根こそぎ覆すような構造的、抜本的な力技を仕掛けることができなかった、そうした把握が湧いてしまった。
この暴露への反応は、直接的にこの作への評価の点数になるであろうから、こちらの感想を押し付けることはしたくないし、この作が前方に文学的な美点も多々持っていたことは述べた通りなので、評価を批判一方に傾けることはしたくない。しかしこの終盤を体験しても、候補作中で、この作が他を圧するほどの上出来であったとは、少々評価しがたかった。
第1次選考通過【25】|最終選考【4】|受賞作【1】
商業ビルの階段に、右腕を切断された死体がある――と通報が入った。かつて医師を目指した刑事の紀平は、先輩刑事の倉城と共に現場へ急行する。死体を探して階段を上がる途中、紀平は何者かに突き飛ばされ、転落して意識を失った。
紀平が目を覚ますと、倉城の右腕が切断されていた。瀕死状態の倉城は、犯人の逃走先を告げ、紀平に追うよう命じた。ところが、逃走先は行き止まりで、犯人は密室から忽然と消失していた。
商業ビルの立体駐車場の階段に、右腕を切断された死体があるという通報が入り、機動捜査隊の刑事二人が急行するが、それらしい死体はなく、駈けつけた刑事自身が右腕を切断された死体となる。こうした残酷で皮肉な展開の妙は、冒頭の掴みとしては力があり、引き込まれた。この皮肉とショックのトリッキーな絵づらは偶然か、それとも犯人が意図したものか。もしそうなら、その理由は何か。この趣向は、かつて乱歩の言った「奇妙な味」の小説の範疇にも入りそうだ。
しかしこうした不可解な殺人事件の構図は、奇をてらって冒頭に置かれた見世物ではなく、全編を貫く核であることが次第に知れる。片腕にされ、やがて病院で命を落とす真面目で有能な刑事の見え方は、次第に予想を越える奥行きを見せはじめ、奥行きは目を見張るほどに延びていって、雄大な一点透視図法の絵画に似てくる。冒頭に現れた不可解な加虐こそは、遠い過去から時空を越えてきた怨みの構図であった。
右腕のない骸の存在こそは、この奇怪な事件の太い軸であり、この不可解な犯罪の構図を支える屋台骨であった。まずはよく計算され、設計されたこの構造体の緻密に大いに感心したし、選者が昔述べた、「冒頭に魅力的なショックを置くことは、作が読まれることに有効である」を、この書き手はよく示したと思って、好感を持った。
先輩刑事の死因は、右腕を切断されたことによる出血性のショックだったが、捜査の過程で、主人公の若い刑事の高校時代の同級生で医師の日沖が、「臨床整形外科」という専門誌に、腕の「壊死性筋膜炎(えしせいきんまくえん)」と、その腕の切断治療に関する論文を書いて載せていたことが判明し、刑事は類似性に色めき立つが、この論文は、事件より遥か以前に書かれたものと判明し、しかも病名も異なるので、無関係かと思って落胆する。
しかしこの小事件は重要な補助線であり、雄大なパースペクティヴの側面図ともいうべき副産物で、一貫して組み上がった装置に奉仕する緻密であって、のちにこの病こそが、一点透視図法の消点であったことが判明する。こうした辻褄の合い方は、この構造的本格もの読書のハイライトとなる。
こうした構造設計は、トリックを中心軸とした本格の設計とは一見異なるように見えるのだが、こうした俯瞰の視線と全体把握、底面細部におりての緻密な辻褄合わせの細工は、明らかに本格スピリットの産物であり、醍醐味で、わき目もふらずにこの構造体の解体に精を出す登場人物たちの熱量は、逆説的に優れた本格構造体を編み上げていく姿で、絶えずエネルギーを発散させ、読み手たるこちらの視線を惹きつけ続ける。畳み込むステディなロックのリズムに乗って進行するオペラのようなスピーディな展開は、ここ十年くらいの本格の現場で、なかなか体験した記憶がないほどに筋のよい純粋さで、大いに共感させられた。
しかし初段においては、首をかしげる表現も多々あった。細かいことだが、生真面目な先輩刑事に対し、斜にかまえて格好をつけるふうの若い刑事がいろいろと揚げ足を取り、こんなタレコミ、どうせガセですよと強引に決めつけ、サボりたがるのだが、その理由を、腕を切断された死体なんて、もう少しありそうな話を作るべきで、あり得ない、などと不平を言う。しかしこちらは、このユニークな着想にリアルを感じて読みはじめているので、どうしてそういう気分になるのかと首をかしげた。
通常の作り話なら、女性の首つり死体がビルにあるとか、酔っ払いふうの男の背に包丁が突き立った死体がある、などを言いそうで、片腕がない死体とはずいぶんとユニークで、確認に行きたい気分にさせられる。刑事という職業人が、どうしてこんなにも抵抗し、現場の確認を渋るのか、通常の業務遂行の態度でさっとすませれば早いのに、これほど嫌がること自体に、何ごとか裏の事情があるのかと疑われてくる。
サーティワンのアイスクリーム店うんぬんも、子供時代によく連れていってもらった店というのに、ここまで間違えて憶えるだろうかと感じる。どうも問答の齟齬の作り方が無理をしていて、滑っているような印象も持つ。
とある人物の電話のかけ方に関しての質問にも、普通に受話器を耳に当てて話していただけですよ、と言い、じゃ逆に訊きますけど、普通じゃない電話のかけ方ってありますか、という反論の体も、反射の無意識で行われているようだが、いくらか抵抗感がある。普通に話していた、というのは自分が言った言葉であるから、自分が選んで口にした言葉に反論するかたちになっている。誰かにひと言、「そう普通の話し方でしたね」と同意させておけば、会話も自然になりそうだが。
反射といえば、「舐めるんじゃねぇ」のヤクザ言語がやたらに飛び出してくるが、思考する文学の性質にはこれはあまり相応しくない無思考で、数の多さが少々気になる。
しかし事態が進行するにつれ、彼がまだ未熟で、問題が多い捜査官ということが知れてきて、そうならこのような後先を考えない、場の思いつきの乱暴言動も必要なことかと次第に了解する。
この物語は、二筋の若い怒りが、長い長い時間を貫いて突進し、結部でついに切ない衝突を見せるという全力疾走の物語であり、興奮的読書の過程で徐々にこうした構造が見えてくるという性格のものであるから、このような若い乱暴も、物語を動かすエネルギーとして必要かと納得もさせられる。そして骨組みと全体の計算は、なかなかにうまくできた一級の作と感心させられた。
本応募作は、「ホテルまりい」を舞台とした連続殺人事件を、探偵・風見汐理が解決するという内容のミステリー小説である。この探偵の特徴として、普段は自宅で飼育している動物たちを依頼主が指定する現場へ連れていき、容疑者と想定される人物たちに動物の世話をさせ、その動物の行動や状態などを観察することを通して謎解きをするということが挙げられる。風見汐理は、心理学研究者たちが親睦を深めるための研究会「まりい会」での探偵業を行う。容疑者は、ホテルのオーナー1名とまりい会の参加者10名の合計11名である。今回の事件では、音無和恵、岩床硅、岩床砂紀の3名が順番に、犯人によって殺害される。事件発生から約1週間後に、風見汐理は犯人が所属する研究室を訪れ、その場で推理を披露する。
なお、本応募作の作者は博士(心理学)の学位を取得しており、心理学や神経科学の専門知識を有している。また、本小説に登場する主な動物を含めて多種多様な動物(サル類、齧歯類、鳥類、爬虫類、魚類、昆虫)の飼育経験や実験経験を有している。今回の応募作は、それらの知識や経験に基づいて執筆したものである。
昔懐かしい、新本格テイストのゲーム型犯人当て小説で、終始館(やかた)内という狭い舞台で、怪しげな住人たちの定型描写は進行する。登場人物たちも、平成初期のあの時代の好みを引きずって学生的、あるいは学内研究者のふうである。
ゲームの舞台は「まりい会」なる心理学研究者たちの親睦の集い。彼らは管理と料理担当がたった1人の老人という、くたびれているらしい民宿、「ホテルまりい」に集合する。すると何故かそこに、まだ何も事件が起こっていないのに、風見汐理なる女性が、「探偵記号」として早々と参加してくる。記号であるから、事件発生後にやってくる警察官も、何らの感情的違和感も、不平も湧かすことなく、管轄外の他署の上司のように彼女を遇し、指揮下に入る。このあたりを、リアリティ云々で異議を言うのは筋が違っている。これはそういう世界を語る読み物なのであるから。
こうして幕は上がり、ゲームとしてのドラマは、ゴシックロリータ・ファッションもいるゆえ、アニメ・テイストで進行を開始するが、纏綿の語りは、推理の問題篇ととらえるべきが約束事であろうから、住人各人の動きや、声優によるふうな定型的な台詞も、読者は監視カメラの視線で観察記憶し、逐一ウラを探る意識で吟味して、犯行の態様、動機の存在、犯人の特定、などの推理に役立てることが期待される。
この作にはそれに加えた新しい趣向がひとつあり、探偵役汐理は、さまざまな小動物をそれぞれケージに入れて持参してきており、1匹1匹を怪しげな各人に押し付けて部屋に置かせる。口をとがらせて世話は嫌だと不平を言ったり、動物嫌いで、涙を流して嫌がる者もものかは、やや高圧的に世話を命じ、強引に各部屋に配置していく。
101の安達円の部屋にはジャンガリアン・ハムスターのマーボー、102の岩床硅の部屋にはニホンザルのルイボス、103の岩床砂紀の部屋にはフトアゴヒゲトカゲのトゲコ、105の安達保寛の部屋にはオカメインコのハレ、201の生島厚子の部屋にジャンガリアン・ハムスターのバンバンジー、202の音無清美の部屋にはモルモットの仲間のテグーのチンピー、アルビノラットのゲッペイは205、リスザル、ジャスミンは八代一之の206、リスザル、テンは八代間平の207、チャボのツユは208、という調子。
これに加え、登場人物の特に女性には、さまざまに好みの香りがあり、これを体につけるから、匂いが部屋に漂うことになる。さらには姓が同じ人物が複数いる。かなり複雑な条件が設定されている。
まだ殺人事件も起きていない段階で外来することや、各住人、自室にそれぞれ異なった動物を引き受けるようにという汐理の命令は、自分は探偵なる高身分を保証されているという自負のゆえらしい。ここは、殺人が起きてから呼ばれて登場し、その時の彼女は、研究のための諸動物を運ぶ途中であった、とでもする方が自然であり、説得力も出そうだ。
住人たちのうちにはアレルギーの者もいるかもしれない。アナフィラキシーを起こせば命にも関わる。事実のちにそういう展開になった。殺人事件が起きてからなら、部屋に動物を置かれるのも捜査上のやむを得ない処置かと理解し、糞尿をされても民の不信任案は出にくい。現状では断固嫌がる者も出そうであるから、そういう場合にも動物を押し付ける如何なる権限も、汐理の側にはない。断固拒否の者がいたら、汐理は引き下がるほかはないであろうから、この設定は少々無理筋に見える。汐理にとっては動物たちは愛くるしい至上の存在だろうが、趣味のない者には災難である。
とはいうものの、推理ゲームの趣向としては、この条件付けには興味を抱き、作の深化に期待した。フトアゴヒゲトカゲ、チャボ、オカメインコ、アルビノラット、ニホンザル、ジャンガリアンハムスター、リスザル、などは、独自の性格を持ち、餌の好み、匂いへの好み、行動の特徴、刺激への反応の偏差、などなどがあるであろう。殺人や、殺人犯の変わった振る舞いを目撃したら、ある特定の動物は、特定の反応を見せるのかもしれない。一般的でない動物が選ばれているらしいので、そうした特殊な動物の態度は、犯人推理の強力な材料になり得るかもしれない。そうなら、非常にユニークな推理が現れることを、期待できるかもしれない。動物を起点とした解析が、まだ読んだことのない新本格小説を創るかもしれない。
しかし、始めた読書は予想外の印象で、候補4作のうちで、最も内部に入りにくい様子だった。読んだ文章がこちらの脳に届いてこず、何度読み返しても、記憶に残りにくい段落もあった。
何故そうなるのかを考えるに、まるでAIが書いた小説のように、徹底したパターン文体の連続で、こちらが掴まる起伏というものが見当たらず、印象が滑ってしまうということがあった。たとえゲームとしての説明文でも、内部は未体験の世界のはずで、どのような舞台か、人間関係か、風景か、という興味は必ず起こるはずである。しかしこれが、既視感のある様子の連続ということがあった。
「ホテルまりい」の管理人の老人など、食事ができるたび、「食事ができたよー、早く食べないと冷えちゃうぞー」と毎度同じセリフを叫ぶ。客に食事を知らせる際、このセリフひとつしかインプットされていないAI給仕のようである。
一番の意外点は、汐理の持ち込んだ特殊な動物たちに、特別の性癖、特徴がない。部屋の壁にかかる絵画と同じで、格別何もしない。ゆえに動物たちの目線で犯人を追い、対象を絞っていくという飼い主探偵の行動が現れない。これでは何故これほどの無理を押して、各部屋に動物を配したのかが不明になったように、こちらは感じた。「ユニーク動物たち登場ミステリー」に対するこちらの第一の期待は、これでしぼんだ。
中段から結部にいたり、動物の一部は重大な働きをするのだが、意外なことにこれは、連れてきた飼い主たる探偵の利益のためでなく、犯人の利益のために殺人を為し、凶器隠蔽に協力する。むろん犯人としては、自らの眼前にやってきた動物を見て、その場でこうした動物を用いる犯行方法を思いついたという建前だが、あらかじめ犯人の趣向を知っていて、探偵が協力動物を連れ込んでやったようにも見えてしまい、少々複雑な気分になった。
凶器の隠蔽もそうで、汐理が動物を持ち込まなければ、犯人はどのような方法で恨みの募った人間を殺したか、あるいは凶器を隠蔽したか━━? かなり困ったことが予想され、探偵が来なければ、案外この殺人事件は起こっていなかったかもしれないと思い至れば、このゲーム型小説の倒錯した構造を考えてしまった。
さらには中盤、名探偵が見当違いの推理をして、被害者を身動きのできない状態にしてしまい、動物の犯行をやりやすくする。これなどは動物以上の探偵の大協力と言うべきで、見ようによっては法的責任も発生しかねない。自分は犯人と思ったのだと主張しても、そのようなものは巧みな狂言とも見做せる。3人目の被害者が自由に動けていれば、彼女は脱出なり、必死のアクションで明らかに防御ができた。憎い探偵さえいなければ、彼女の命は助かっていた。
殺人の段取りはよく考えられていて感心した。だがそれ以上に興味深かったのが犯人のライヴァル、名探偵の守備一貫した脳の壊れ方で、この脳の病性は、実のところこの物語を開始から終焉まで支えており、救済者たる名探偵を、一種恐怖の対象にしてしまった。アレルギーを持つ人物に小動物を押し付けた冷酷な行為といい、行儀のよい言動の合間に、平然と繰り出す狂気のごとき高圧的なセリフは、彼女はいったいいかなる屈折した心境や性格の持ち主かと考え込ませる。
音無清美が、私はどうしても動物が苦手で、無理ですと涙をぼろぼろ流しはじめて抵抗すると、女探偵は今から部屋に行って一緒に餌をやりますから、これでどうですかと問う。そんなことしても清美には関係なかろうと思い、この神経のず太さには少々驚く。
音無和恵が、オカメインコのハレちゃんを連れてきていいかと問うと、「もちろんいいわよ、待っているから連れてきなさい」と命じるところなどは兵庫県知事のごとくで、男社会ではなかなか許されない高圧姿勢である。
あるいは、嫌がっている相手に無理に押し付けた動物なのに、相手の部屋にいるバンバンジーに向かい、「こんなところだけど、きっと住めば都だから頑張ってね」などと言う。
歌い続ける自慢のハレを褒め讃えてくれる保寛であるのに、もうそれで黙れと思えば、初対面に近い彼の口を、いきなりむんずと両手で塞いでしまう。やりたい放題という印象である。
八代一之の場合、預けたリスザルが元気ないと見て、きちんとお世話はされましたか、と怒りに燃えて叱りつける。餌はちゃんとやったのに、そんなに言うなら預けるなと、彼は言いたかったであろう。
あるいはトカゲの顔色が悪いと解りませんか、顔色悪いでしょ、昨日より、などと岩床砂紀に問う。しかし哺乳類ではないのだから、トカゲの顔色は変化しないであろう。これは要するに、動きに元気がなくなっているのを、顔色が悪いように感じてしまう飼い主の特殊な主観というものではあるまいか。
ルイボスの糞から凶器のかけらが出て、誰がこんな酷いことを、ルイちゃんの内蔵を傷つける恐れもあったのにと探偵はイカるが、それは自分ではないのか? そう思うなら、犯人がいる可能性のある場所に、動物を置いてはいけない。これは殺人事件なのだから、こういうことも当然起こるであろう。殺されなかっただけよかった。どうも探偵の怒りは、都度見当がはずれているように見える。
こうしてみると、相手をあれこれ叱るための材料作りに、動物を分配配置したように見えてしまい、その動物はというと、犯人を助けただけで、推理にはなんら役に立っていない。もっとも犯人に、犯行に使われたために、使った人物を犯人と特定できたわけだから、役には立ったのであるが。そういうことなら、最初から犯人の見当がついていて、この人物にこの動物を当てがえば、必ず動物を活用して人殺しをする、と計算して連れ込んだようにも見える。とすれば動物虐待癖の名探偵であり、殺人幇助の共犯者である。
とは言うものの、あれこれを大いに考えさせる、絡め手構造の、愉快な犯人当て小説ではあった。
原子力発電所で働く高遠(たかとう)の一人息子ケンジが消息不明となった。仕事を切り上げ自宅に戻った高遠のもとに「子供は預かっている。1億円用意しろ」と合成された声の脅迫電話がかかってくる。
警察へ通報すると、やってきたのがOSSの而今(じこん)という男だった。
数十年以上に渡って企てる者もない「誘拐」などといった特殊犯罪には、今や発生した時だけ人員を集めて対応するようになっていたのだった。
「OSS、アウトソーシング・スタッフの略です。早い話が、外注請負の契約社員です」そう言い放つ而今の指揮で捜査が開始される。その後、犯人からの連絡は途絶えたが、夜になって高遠家を訪れるものがあった。武尊(ほたか)と名乗るフリーランスの記者である。誘拐事件がもうマスコミにバレたのかと、捜査陣に緊張が走るが、武尊が追っているのは、高遠が関係しているらしい「ヘビーハンド&ハンマーズ」という世間からは隠匿されたプロジェクトであった。これと誘拐事件は何らかの関連があるのではないか、と而今が疑う中、40時間近くたって、ようやく犯人からの第二報が入る。「身代金1億円は撤回します。200万円で手を打ちます」それはまさかの減額であった。ふざけた内容に、誘拐自体のイタズラの可能性が取りざたされるが、続く犯人からの連絡で、200万円を持って新幹線に乗れとの指示がでる。
高遠と而今らを乗せた新幹線は、東京を出て博多方面に向かう。新幹線内に犯人から連絡が入った。その内容は、高遠は岐阜羽島で降りて、指定された電話機の下を検めろというものであった。しかし、指示された場所にあったのは「ケイサツミタイナヒトガイルゾトリヒキハ チュウシ」と書かれたメッセージだった。
落胆する高遠だったが、而今は、犯人からの次の連絡を確信していた。そしてその読みの通り、翌日、再び犯人から連絡が入る。
「高遠さん、読書は好きですか。本は読みますか」それに続く犯人の指示は、駅の伝言板を見よ、というものだった。そこに書かれていたのは、誘拐を扱った本のタイトルと、ページと行数―――、それ以降、犯人は、高遠の行く先々に、本の中で描かれたシーンをメッセージとして残しながら、捜査陣を翻弄するのだった。最後に指定された場所は「2001年宇宙の旅」が上映されている映画館。「スターチャイルドが降臨するとき、さまよう子どもの未来が暗示されるであろう」犯人からのメッセージはそうであったが、結局、誰も現れず、そしてそのまま、犯人からの連絡は途絶えた。
その週末、花火大会を見に来たカップルが、乗り捨てられた廃車の中から腐臭が漂うのに気づき、警察に連絡した。駆け付けた警官によって、男児の遺体が発見される。それは、誘拐され消息を絶ったままのケンジであった。ケンジは廃車の荷物運搬用のコンテナの中で死んでいた。コンテナに窓はなく、外から特殊な鍵で施錠されていた。
ほどなくして、豊田(とよだ)という男が容疑者として捕まるが、誘拐への関与は頑として否定するのだった。コンテナに掛けられた錠は、豊田の持っている鍵でしか開かない。しかし豊田は誘拐も殺人も身に覚えがないと言い張る。豊田でない人物が犯人だとすると、いったいどうやって鍵のかかったコンテナに出入りできたのか。事態は混とんとしてくる。
殺人事件となったため、而今は誘拐の捜査から外される。ここからは本職の捜査一課の領分だった。
而今は武尊に会うことにした。武尊が追っていた「ヘビーハンド&ハンマーズ」の内容が誘拐事件と絡み合っているような気がしてしょうがなかったからだ。而今は、捜査一課の資料に目を通していた。それをお土産にして、武尊の握っている情報を得るつもりだった。
はじめは渋っていた武尊だったが、やがて捜一の情報と引き換えに、「ヘビーハンド&ハンマーズ」について語り出す。驚いたことに、それは、タイムマシンに関する国家プロジェクトであった。
今回の誘拐殺人にタイムマシンが関係しているのか?事態はますます混とんとしてくるのだった。
少年の誘拐事件と、身代金を携えて犯人の指示を追う父親の、エネルギッシュな展開は、大変面白く読んだ。またこの事件が、実は犯罪とは無縁の人物の行動が産んだ偶然の事故であり、これが纏綿した事情で、通常の少年誘拐事件を遥かに超える大袈裟な外観を見せるようになって、犯罪史上まれな、複雑な大事件となっていく推移も、面白く読んだ。
偽の誘拐事件が現れる段取りもよく考えられていたし、身代金の受け渡しも、なかなか巧妙な趣向といえた。この巧妙が、犯人の保身ではなく、誘拐事件発生を事実と見せる意味合いも持っていて、この凝った重層感も、作を「考える小説」の域に高めた。
ただし、犠牲者を走らせる趣向は、過去に複数の前例があるようには思い、やや艶が消える感じはあった。が、たたみ込んでくるリズム感には貴重な力感が現れているので、そうした問題もさして気にはならず、受賞の領域にあるかと期待して、好感を持って読み進めた。良い結末が用意されていれば、当作は充分世に出る資格があると期待を持った。
この誘拐事件を追うため、OSSなる警視庁のアウトソーシング組織の登場も耳新しく、とぼけていて、作者の力量の余裕を感じた。OSSの捜査員が自宅にやってくる展開、またこの捜査員而今(じこん)の飄々とした人間性も、世に多い同種の小説の人工的緊迫感を低く見るような自負心、斜に構えた老成感を醸してなかなかそそられるものがあり、このような人物が、この先どのような捜査を見せるのかにも、興味が湧いた。
しかし事件が進行するにつれ、首をかしげる点も、ちらほら現れた。先述の、身代金取得のためのアクションに既視感があることに加え、毒物の扱いにも疑問を抱いた。犯罪小説において、青酸カリが毒殺によく用いられるが、この薬物は、実のところ自殺以外には使いにくいことで知られる。強い刺激味があるためで、ただ水やジュースに混ぜるだけでは、被害者はたやすくは飲んでくれない。咽頭の反射で吐き出してしまう。人間の体には、こういう防御機能が本能的に備わっていて、したがって本稿に書かれるような展開で、書かれているようにすんなりことが運ぶかは、若干疑問ではある。
したがってこれはカレーやタイフードなど、強い刺激味を持つエスニックな料理に入れて、多く使用される。日本食なら、何に入れてもかなりの違和感を持たれそうだ。しかしこうしたことも、出版の際には修正がきくかと思い、大きな傷とは考えないようにした。
しかしエピローグを読むにいたって、不思議な拍子抜け感に直面し、気分が茫洋となった。残念の以前に、前半の好ましい興奮が、いったいいかなるメカニズムによって消滅し、この肩すかし的な結末にいたったのかと、騙し舟の舳先をつまんだような不思議な心持ちがして、しばらく悩んだ。このエピローグに現れる感慨は、誘拐事件の顛末を描く小説のものではなく、全然別の物語の総括である。
新幹線や電車を用いた興奮的な前段のエネルギーが、すべて他所に瞬間移動して、いっさいが夢であり、実は何も起こってはいなかったのだとでも言いたげな無為無力の地平に帰したこの脱力の光景は、それ自体が巧妙なマジックのようで、前半のあの力感に満ちた読書は、いったいどこに行ってしまったのかと不思議に思った。小説世界をはみ出した、この読み手に向けた一大読本マジックのタネは、いったい何処にあったのか。なかなか記憶に残るユニークな選考読書になった。
この物語は、ふた筋の軸、それとも骨を持っている。ひとつは、誘拐と見える犯罪が現れて、これを追って登場人物が疾走するリアルな本格ミステリーの流れ。もうひとつは、タイムマシンSFの理論の幻想性に乗った進行。この二筋の一方は明瞭、一方は曖昧、そうした心境の文体のまま、この両者を混合して用いたことが、この作が摩訶不思議で、曖昧模糊とした印象になった理由であろうと思った。
興味深いことには、OSSの捜査官而今は、タイムマシンの存在も、これを実現する理論も信じてはおらず、ライターがタイムマシンの講釈を始めた途端、「もうけっこうです、あなたが真面目に話してくれる気がないことはよくわかりました」などと言う。これが、この作の論理軸にSFを混同する気はない、終始理詰めの本格で行くという宣言かと期待したのだが、実のところ作者の意識自身が、タイムマシンのもっともらしい理屈に深く説得されてしまっていて、この小説の核心的な部分にそうしたSFの理屈を導入し、これに依存してしまった。つまりは質の異なるふたつの軸を混用してしまったことが、この作にただよう不思議な曖昧さの原因になったように感じられた。
たとえばエピローグに現れる感傷は、10万年の過去に核廃棄物を転送して厄介払いしてしまうという、日本国政府の倫理観欠如への嘆きが根底にあるように感じられ、誘拐事件の顛末への思いが残っているこちらには、いささかの肩すかしであり、物語の長いトンネルを出てみれば、外は内部以上に濃い霧の中であった、ふうな戸惑いがくる。
タイトルには思うところがあり、ひとつはレイチェル・カールソンの「沈黙の春」かと予想した。またその昔のシャドウズの傑作「春がいっぱい」かとも思った。確かにこの作も、SF小説の手法を応用した、カールソン式の人間の倫理観欠如への警告ではあった。当作「春がいっぱい」は、こうした不道徳行為の上に立脚した人間の繁栄の歪んだ謳歌とも見える。カールソンのものは、滅びの予兆であったが。しかしもしもそうであるなら、今回の作者の目論見は、充分には成功していないと感じざるを得ない。
本格ミステリーの軸では、細部まで充分な説明の筆が届いているのに、SFの軸では、まことに説明が徹底せず、あちこちで状況の設定、描写、あるいは解説の文章が曖昧で、舞台がどこであるのか、何が起こっているのかが判然としない。核のゴミは、実際に十万年の過去に成功裏に届いたのか。それとも失敗したのか。
タイムマシンによる過去旅行においては、過去の状況に手を加えてはいけない、それによって現在が変わる危険があるからと、当作の作者も述べるのだが、何トンもの極限的に危険なゴミを送りつけるようなとんでもないことをしておいて、現在を含めたその後の社会に影響が出ないはずもない。ゴミ転送による歴史への影響は無事なかったと結論されたのか。10万年の過去といえば、ホモ・エレクトスはもう存在していた。われわれの進化や変容の歴史に影響はなかったのか。核のゴミが10万年の過去に届いた瞬間、送り手たる現在の人類の、健康や能力や外貌が一部分でも瞬時に変容する、などという悲劇は起こらなかったか。場合によっては、現世人類の外貌が瞬時に怪物化する、などということだってない話ではないであろう。このあたりの言及がいっさい存在しないことには、やはり食い足りなさと同時に、小説の構造的欠損を言いたい思いがくる。
「聖なる書簡」と称される、古代からの配達証明のメッセージが、大分の三神社に存在すると語られるのだが、これにはいったい如何なる内容が記されているのか、猛烈な興味が湧くのだが、これもいっさい語られず、やはり猛烈なもどかしさがくる。
疑問は山のように湧く。この核のゴミが、作中に見える「グレイト・シャット・ダウン」なる歴史的事件に関与したのか。もしもそうなら、それはいったい如何なるメカニズムによってそうなったのか。
地球温暖化の進行によって、地球上は人類の住める場所ではなくなり、膨大な電力を用いて、天候はすべからく人為的に作り出すものとなり、天気予報は天気実報と呼ばれるようになる。これらの説明も興味深いが、このあたりの詳細も、もう少し内容を聞きたくなる。そしてこの環境変化には、核のゴミの過去への転送や、「グレイト・シャット・ダウン」は関係しているのか。
さらには西暦2021年を境に、神奈川県青葉区の公園に核のゴミが頻繁に出現するようになり、このゴミの放つ放射能は、人体に極めて有害なレヴェルであったが、1年後には一挙に無害化するという性質を持っていた。こうしたことが、「聖なる書簡」には書かれているという。ということはこの書簡は、超古代からの伝承物ではなく、比較的近年に書かれた書簡か。
さらには小説中の現在が、「アフター・グレイト・シャット・ダウン」1989年であると説明され、神奈川県に核のゴミが現れた西暦2021年という過去が、今日、すなわちAGSD1989より、何年の昔にあたるのかは不明であると述べられる。すると作中の現在が、近年のことか否かも解らなくなる。この少年誘拐の物語は、はるかな未来世界の出来事なのか。しかしそれにしては、現れる道具類や交通機関が、現在のものとあまり変化していない。
こうなると、こちらは混乱の極致に立たされてしまい、内部の正確な理解がむずかしくなる。今がいつで、事件の舞台がどこなのか、国民の日常を支える科学はどこまで進歩しているのか。安定した文体による、明瞭で徹底した解説が欲しくなる。そうでなければ、内部で起こっていることの理解が読み手に不能になる。作者自身も解っていないのか。あるいは混乱したまま語っているのか。あまりに煩雑だから、この複雑な時勢の説明を、中途半端のままで放り出してしまったのか、そうしたことも解らなくなる。
文中に現れる、明らかに二子玉川と思われる駅の名が、二子新地となっていることも、東京市の呼称も、現在が実はAGSDであることの伏線のように読め、そうならいずれあるであろう描写や解説への期待が湧くのだが、いかに待ってもこれがいっこうに現れない。「猿の惑星」的な、驚天動地の結末に物語を向かわせる様子もなく、作者自身が目論見の複雑さや厄介さに恐れをなして、中途で放り出したように読めてしまう。
GSDのため、多くの書籍が燃やされ、時代は100年の昔にタイムスリップしたかのようだ━━、などさまざまな興味深い小説因子が語られ、作者の長い読書歴と、これによって蓄積した雑学が、多くの興味深いイメージを探り当てていることが窺えるが、どうも使いきれていない印象がくる。頭でっかちのモンスターのような、不安定な外観の小説になってしまった。
曖昧のまま停滞している知識なら切り捨て、語りのモーションを一貫させることは、小説作りにおいて基本である、などと余計を言わざるを得なくなる。結末に近づくにつれ、地中に埋まりかけている前方の本格ミステリーは、もう完結しているのだから、これをきちんと着地させないままに放り出して、未消化のSF語りを続けることに、はたして意味があったのかと感じてしまう。
SF発想にも充分な関心を割き、何ごとか重い主張を目論むなら、SF側にも充分な筆を費やす必要がある。SF世界の構築の方も、完璧に終えてから文章化にかかり、安定完成したこれを、適量ミステリー世界に混ぜ込む匙加減も大事になる。でないと全体が曖昧模糊としてしまい、不思議なエピローグに現れるような、せっかくミステリー部分では一級作のような印象が表れているのに、この達成を無にしてしまうような見当の違う感慨が現れて、読み手を戸惑わせてしまう。
2019年10月19日、東京都八王子市にある気象大学校で大学祭が開催された。
その夜、生駒(いこま)三郎(さぶろう)4年生22歳が観測予報実習室から転落死する。彼は担当教官から厳しく指導されており、精神的に追い詰められていた。
生駒は昼間、現場の実習室で、来場者に雨量計などの観測施設の説明をしていた。その元気な様子から、自殺するような素振りはみられず、遺書も発見されなかった。実習室は内側から施錠されていた。直前に鍵が交換されており、新しい鍵は管理者が所持していたため、第三者が持ち出すことはできなかった。
所轄八王子警察署の捜査は、事故とも自殺とも判断できないまま終了した。
2023年7月19日、山梨県甲府市にある甲斐(かい)地方気象台女子控室の畳部屋で、榎(えのき)田(だ)佳(か)苗(なえ)26歳の撲殺死体が発見される。榎田はひとり宿直中で、庁舎の建物は内側から鍵が掛けられていた。気象台庁舎全体が〈密室〉となっていたのだ。佳苗は生駒三郎の同級生で、彼の転落死当時、現場におり、実習室に駆けつけた一人だった。
同じく生駒の事件に立ち会った結城(ゆうき)瞳(ひとみ)統括予報官44歳は、山梨県警による捜査が始まるなか、若手の里村(さとむら)貴志(たかし)24歳とともに事実関係を確認し、会議室に職員を集め、同僚たちの協力を得ながら事件解明に挑む。
気象台職員からの証言などをもとに情報を共有し、庁舎のすべての鍵が施錠された謎を解いて行く。
いくつかの事実が判明するなか、やがて榎田の過去の言動、気象台宿直システム、LINEの未読・既読時間、タバコの吸い殻、防犯カメラの位置と未作動時刻、外灯の点灯・消灯時刻などから、実際の犯行時刻が7月18日午後7時1分から7時26分であると推定し、気象台に侵入した男が榎田の恋人で、魚住(うおずみ)亮(りょう)介(すけ)管理官の長男、造園業者の猛(たける)であることを突き止める。
魚住亮介が遺体発見直後、侵入口の窓を施錠したことで密室が形成されていた。
甲府警察署によって身柄を確保された魚住猛は、取り調べで「女子控室畳部屋の二重のドアが施錠されていたため、室内に入ることができなかった」と証言する。
魚住猛は気象台庁舎の外に出て、梯子を使って畳部屋上部に取りつけられたペアガラスから室内を覗き、榎田の死を知ったという。その時点で榎田は死亡していた。
第二の密室の謎が出現した。しかも〈前夜に施錠されていた二重ドアが、なぜ翌朝に開錠されていたのか〉という、新たな謎が浮かび上がってきたのだ。
真相究明に取り組むなか、気象大学校での転落事故が事件の背景にあるのではないかと結城は考える。結城、風見(かざみ)明菜(あきな)気象台長、榎田佳苗ほか、いまの気象台職員の数名が当時気象大学校を訪れていた。榎田は生駒事件が他殺であると考えていたようだった。
結城瞳は、あらためて生駒の転落事件を洗い直す。内側から鍵がかけられていたため、他殺の可能性は薄いと考えられていた。
大学祭に魚住猛が姿を見せていた事実が判明し、生駒に厳しい指導をしていた教職員の刑部修一に疑惑の目を向けるが、決定打はみつからない。
そんななか、結城瞳は気象大学校にしか存在しない、特殊な特徴を持つアメダス自動観測施設に着目する。大学校の雨量計などは学生の習熟に利用されるため、観測された気象データは外部に出ることはない。このことを犯人が利用したのではないか。
そして事件当日、甲斐地方気象台に届いた気象庁マスコットの着ぐるみに入っていた紙吹雪から着想し、二重ドアの密室トリックの仕掛けに気づく。
事件発生から4日後、結城瞳は風見明菜台長こそが犯人だと指摘する。気象大の密室は風見が仕掛けたもので、全国で唯一の気象大アメダスの雨量計を使ったトリックだと気づく。
次に、女子控室畳部屋のトリックを解明する。畳部屋は二重の扉が中空パッキンでできており、掃除機で空気を吸ったことで、陰圧となり密室が形成されたのだ。
生駒三郎の死は自殺だった。彼の遺書には大勢の無関係の教職員まで巻き込んでしまうような内容が記されており、傍らの職員名簿には12名の職員に×印が打たれていた。無関係な職員の1人は、風見台長が心を寄せる人物だった。そのため風見は遺書を持ち去り、現場を密室にしたのだ。
榎田が生駒の死を殺人事件だと疑った末に、告発しようとしていることを知り、彼女を殺害したのだった。
さらに生駒三郎を自殺に駆り立てた原因が、榎田佳苗であったことが判明する。
このミステリー小説もまた、ちょっと不思議な読書ではあった。細部まで非常によく考えられていて、伏線との辻褄がよく合っており、丁寧によくできていた。ある意味労作で、世に出てもいいできかとも思う。
しかし不思議なことに、作中から強い吸引力の手が伸びてきて、有無を言わさずこちらを引き込んでくれるあの力を感じることが、最後までなかった。ミステリーは謎を内包する小説だが、何故謎を中心に置くかと言えば、この読み手を引き込む強い手を生じさせたいがためにほかならない。
無論冒険小説も、恋愛小説も、私小説であっても、この強い手を持つことは多い。しかし持たないこともある。読み手にはそれぞれ事情があるし、力を力と感じないこともある。力がなくとも、読むだけの理由が読み手に生じることもある。本格系ミステリーの場合、作中の謎が、どのような読み手にも、強い力の手となる確率が高い、ということであろう。
この作の場合、若い男の転落死の理由、自殺か他殺かの判定、次に若い女性の撲殺死体の犯人探し、そしてこれが密室にあったのだが、その密室がいかにして作られたかの謎、こういう謎が、中盤以降に丹念に検証されていく過程が、最大の読み物となっている。ということはもともと仕込みの部分がよく考えられ、細部までが丹念に作り込まれていたから、丹念な検証作業の対象になり得たということで、この長い長い謎のほぐし作業に、うまく思い入れ、興奮できるか否かが、この作品を評価できるかできないかの肝になるであろう。
今回選者の読書の場合は、選考がいささかのハンディになったということは、思わざるを得ない。この部分に興奮するためには、この謎に強い興味を感じ、猛烈に作中に没入し、一心不乱の熱心さで活字を追う必要がある。この作がたとえば受賞作とか、話題作という触れ込みとともに眼前に現れれば、対象をこの1作のみとするであろうし、こうした熱も生じやすかったろう。しかし選考の読書では、4作を立て続けに読んできているから、こうした熱は生じにくく、作の中から引き込んでくる強い力が欲しくなる。
そして今回、この吸引されるべき章の印象があまりに淡々として、こちらを巻き込む力がいささか不足していたという印象だった。だから読書は作の浅いあたりを漂うように進んで、ルーティンの作業となりがちであった。終わりまであと数ぺージとなっても、いかようにでも中断して他の作業ができるような気配があって、ミステリーの読書にこれは少々まずかろうと感じた。無論述べたように、この作が目の前に現れた1冊の対象であり、しかも受賞作の帯でも纏っていればまた違ったろうし、ミステリー体験の少ない読者であれば、大きく違ったかもしれない。
作中で、恋愛のときめきが語られる場所があり、ここにおいては突如色が変わったように吸引力が発生したから、やはりここは、以下に述べるような理由であろうかと考えた。
中心軸に置かれた謎に、突出した魅力がない。つまりミステリー世界ではごくごく平凡な出来事にすぎず、ゆえにこれを追求していく会話や、推理の論理にも、突出してこちらの目を引く未体験の興奮や、魅力が現れない。謎というものは、部分的にでも未体験を感じさせるものを含むから謎と呼ぶ気分になる。連日連夜目にするようなありふれたものを、謎とは呼ばない。日本人は、密室、孤島、建物、この誰もが百回も体験した手馴れパターンを謎と呼ぶ約束事になっている。この際これは、書き手なら誤りと考えてもらう方が良い。そう考え直すことから、傑作へ向かう道が拓ける。
解くべき対象がよくよく見馴れたものであれば、解きほぐす推理にも、目を見張る未聞の切れ味は現れにくい。ただし、現れないとは言っていない。月並みな謎でも、解く際の段取りやその内部、推理の理屈のうちにも、読んだことのない新味は現れ得る。したがってこうしたやり方でも、充分に傑作は作り得る。恋愛小説や官能小説では、軸の部分は毎度同じ趣向で、そこに至るプロセスで、読み手は感動する。
この作の場合、こういうものも、現れてはいなかった。ただ丹念で真面目で、実に優等生的な筆法であって、この態度は好ましかった。こうしたことに強い好感を感じる向きは多いであろうし、選者もまた好意を感じた。しかし選者の場合は、これ以上に高得点を与えるべき着想のありようを知っている。他の候補作の中にもそうしたものが見出し得なければ、この作が最上位に浮上する可能性はあった。
もう1点、この作は日本人による事件で、日本人が好む真面目さと丹念さで、箱根のカラクリ箱のように綺麗に仕上げられているから、狙う評価も日本型の感性に訴えるものになるであろう。そう考える時、自分を犯人と指摘する推理弁論に対する犯人のあまりに高潔な態度は、まるで英国紳士のような冷静さとかたちのつけ方で、若干何が起こったかと不思議な気分を抱いた。語られないこの理由が別所にあるのかとも感じた。
量刑相場から死刑をもらうことはないにしても、犯人の今後の人生の大半は消失し、社会に戻れても病がちの老人になってからだ。犯行の理由から推しても、被害者は必ず死ぬべき者であったと、我田引水のストーリーを熱弁しそうにも思える。結部に見えるこの潔い分別の持ち主が、こうした残虐で身勝手な殺人をはたして起こし得たのかと、若干の違和感も抱いた。犯行動機は、こうした謎解きをさせまいとしての殺しであったわけであるから。
会話文が状況やキャラクターを説明するために書かれており、描写がやや古く感じました。自分が作り出した世界を、どうすれば読者に楽しんでもらえるのか、という視点でもう一度文章・構成を見直していただけたら、と思いました。登場人物が高揚していても、読者が高揚するとは限りません。また謎が小さく、事件が起こるまでが遅く、真犯人の動機にも現実味が不足しているように感じました。
志摩スペイン村の描写については楽しめました。文章については、句読点の位置は潔いのですが、擬態語、擬音語が多用されており古く感じます。会話文も20年前のそれのように思えます。真相については、意外な犯人、というだけでなく、その犯人が判明することで読者の感情が動くようにしなければなりませんが、未達成に終わっていると思いました。
一人称の地の文ですべてを説明してしまっているように思いました。冒頭の内面描写とラストの内面描写、どちらもプロットに基づいて心情を吐露しており、こちらの胸を打つようになっていませんでした。文章も同じことを繰り返し書かれており、推敲が足りていないと感じます。The Beatles を題材にした小説は多くありますが、その点でも他の作品に比べて理解が深いとは思えませんでした。
物語の展開が遅く、読者を引っ張る力が弱いように感じました。ストーリーにどう関係してくるのかがわからないエピソードが多く、展開があってからも、殺人が犯人の思う通りにうまくいきすぎているように感じます。プロット通りに動かない人物を、もう少し追いかけてみてはいかがでしょうか。
表現力のある文章で、オカルトミステリーの雰囲気をうまく演出できていると思います。しかし、さまざまな謎が続々と出現し、何がメインの謎なのか、物語の縦軸がわかりにくく感じました。被害者の妄想を持った人たちが集まって暮らしていること、さらにその人たちの証言を元に推理するという設定が荒唐無稽すぎると感じます。ウミコの正体や刺殺の真相は驚きがあったので、現在進行形の連続殺人事件として書いたほうが面白くなったと思います。不必要な設定を足し過ぎて読みにくくなっているので、要素をそぎ落とすことをおすすめします。
登場人物が生き生きと魅力的に描かれており、軽やかな筆致と小気味良い会話で、リーダビリティの高い作品です。しかし舞台設定やキャラクター造形が古く、ミステリとしての謎も弱いと感じました。メインの叙述トリックや性転換等に既視感があり、きれいにまとまってはいるのですが、新しさを感じられない点が残念でした。また、ポップで爽やかなストーリーに対して、タイトルが暗すぎる印象です。
テンポが良く読みやすい文章に好感を持ちました。しかし仮説の手がかりが弱く、推理の納得度が低いと感じます。また、後半の事件の謎が魅力的でないうえ、登場人物が順に喋っているだけで動きがなく、冗長で退屈に感じました。舞台設定や事件そのものは現実的なので、警察庁調査員制度というファンタジー設定が必要だったのかという点も疑問が残ります。
大阪という舞台をうまく使った作品で土地の魅力や台詞の味もありました。ただ、誤字や、段落のすべてが一文になっているところも多く、全体の推敲をもう少し丁寧にして、読者に読んでもらうという意識付けをしてください。
殺人事件のたびに手首が持ち去られるという謎がとても魅力的に感じました。事件の検証も丁寧で、後からひっくり返される部分があるのもおもしろいです。ただ、真相は犯人によるモノローグではなく、別の方法で明かしてもらいたかったです。
人物の入れ替わりや、あてにならない記憶など、興味を引く部分は多かったです。一方で、警察の捜査の仕方に疑問が残ります。小説はフィクションではありますが、それを読者に信じさせるために、しっかりと現実的な部分は残してほしいです。また、スポーツをこんなに強調する理由が、いまいちわかりませんでした。
なぜ登場人物たちがこんな口調と言動なのかなと思いました。翻訳物の空気感が出したかったのかもと思いましたが、それはいったい、いつの時代の翻訳ものでしょうか。雰囲気づくりがうまくいかないと、単に古臭く感じられてしまうので、気をつけてください。
クライミングについての描写には、強く引き込まれました。そのようなよいところがある一方で、物語の進め方が基本的に時系列で、単調に感じました。彼女がわざわざこんなことをした理由も弱く感じましたし、真相がすべて、本人による手紙で明かされるのは、おもしろさが減ってしまいます。
警察小説を書きたい気持ちは十分に伝わりますが、この作品の中で要素を詰めすぎています。一つの犯罪の構造に、警視庁全体の各課が関わり、実際の犯人像を含め、複雑にさせてしまうことで、物語の醍醐味を失ってしまいます。一つの部署や組織をじっくり、書き込むことに挑んでください。
福山を舞台にした作品で、警察庁広域重要指定事件支援係の主人公の書かれ方は非常に好感をもちました。また、文章も読みやすく、事件モノを描くのにふさわしいものでした。ただ、派遣捜査官を必要とする事件とするならばもう少し、事件の特異性が必要でその部分でもうひと頑張りがあればと思います。
登場人物が、どうやって生活をしているのか、年齢・家族など細かい説明がなく寓話的になりすぎてしまった印象です。ユーモア小説にする場合でも、もう少し丁寧な描写は必要になります。また警察の描写にもリアリティが必要です。現場への臨場人数、捜査本部がどうやって出来るのかなどももう少し丁寧に描いてほしいと思いました。
「日常の謎」として、実際この世界で起こっていてもおかしくないような事件が描かれていて、とても楽しく読みました。トリックや犯行の動機もしっかりしていますが、ミステリの逆張りとされる部分が、作品の中で目立ってしまっているようで、勿体無さも感じました。