文体がきわめて上質であり、知的でもあるから、非常な好感をもって読んだ。作者が想定、意図したドラマ展開の範囲内において、きわめて完成度高く仕上がった文章群と感じて、感心もした。
表現が適切で、語彙の選び方も上手であり、加えて説明が冷静で、過不足がない。法律家の文体でよく見かけるような種類の、専門知識を有する書き手の、優越感のともなう文章とも感じる。思索の展開が終始論理的であり、先進科学が実現した世界を語る専門領域的表現は、本格ミステリーの、時に独善の精神によく適合して感じられたことは、格別意外ではない。こうした表現を用い、当賞のような本格を志向する賞に挑戦を目論んだのは、充分合理的な判断であったと思う。
ただ述べたように、作者がもくろみ、設定した世界は、専門家ふうの把握と表現を通すために、かなり狭い範囲となったのでは、という疑問を一読後に感じた。「狭い」は、物理的な意味ではなく、書き手の知識の及ぶ領域を意味するが、ために刑事事件が通例的なものとなり、型を破るほどのとんがりを持たなかったきらいを感じた。つまり、宇宙科学の専門知識を有する書き手が、その知識の範囲内で表現を行いたい、もっと言えば刑事事件構築に真剣になって、文章が専門外におよぶことを嫌った気配も感じた。遺憾なことかも知れないが、この点は作の評価にもつながってしまう。
物語の舞台は、一分間に三回転して人工重力を作り出しているバイオスフィアというドーナツ形状らしい宇宙ステーションで、これが大気圏外に浮かび、その内部に人工的な森や海、農場までを持っていて、これらを完璧な状態に維持し、同時にステーション内を六人の乗務員にとって快適な環境に保つため、人との会話が可能な「アイビス」というコンピューターを乗せている。「アイビス」はステーション内の環境保全という重大任務を負うているから、これは七人目の乗務員ということになる。
そしてこの点が最大限に重要なのだが、この高度な人工知能には、その判断と行動(ステーション内環境維持のための諸操作)において、かつてアイザック・アシモフが提唱した高名な「ロボット三原則」が厳しく適用されている。すなわち、人間に危害を加えてはならない。人間が危害を受けるのを黙視していてはいけない。ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ロボットは自分自身の身を守らなくてはならない、といったあれである。
アイビスにこうした機能を持たせることは、宇宙ステーションの乗員の健康維持において合目的であり、破綻のないはずのものであったから、乗組員は全面的にアイビスに信頼を寄せることになる──。とこのように把握を述べれば、この物語の先の展開が、おおよそ見えてきそうとも、あるいは言えるかもしれない。もしもそうであるなら、こうした展開は定型に育っているということで、読み手に致命的な既視感をもたらす危険はなしとしない。そしてこのことに作者は、どうやら気づいていなさそうである。
こうした構造の宇宙ステーションに、訓練を受けた米軍の士官や海洋学者、心理学者や環境学者など各界の専門家たち六名が乗り込んで、各自自分の専門領域の研究を続けている近未来の閉鎖世界が舞台で、個人的な分類になるが、このような趣向なら「21世紀本格」と呼ばれるべき作例と考える。この方向の挑戦作が、今年に限っては二作品もあったことは、いよいよ時代がこの方向に向かって成熟を開始している証しかもしれない。
宇宙ステーション・バイオスフィアは、強力なイオンロケット・エンジンを搭載しており、環境汚染が絶望的に進行する地球上の人類が、将来火星に移住するという判断の合否を探るため、近い将来、火星に向けて飛行を行う計画も持っている。
最先端の科学的ツールに囲まれた、こういうクローズドサークル内で、もしも殺人が疑える人死事件が発生した場合、知的エリートを自認する集団と、彼らに指示を受け、しかもロボット三原則を遵守して行動する人工知能という集合体は、はたしてどのような展開を作り出すか。極限的な状況に直面しても、アイビスは人間のしもべでいてくれるか、こうした「思考実験」が、この作品の骨子と考えられる。
作者が強い興味を感じているこうした特殊な条件下での人間ドラマには、選者たるこちらも充分な共感を感じるので、高い関心をもって読んだ。ところがどうしたことか、もう一方の「21世紀本格」タイプの作例、『さよならをもう一度』ほどには内部世界からの強い吸引力はついに感じることなく、あっさり読了してしまった。示される作内部の特殊な環境には終始興味を感じたし、その適切な説明にも感心し続けているのに、クライマックスに至るまで、そのどの地点においても原稿を置いて読書を中断してもよいふうな冷静さが続いて、つまり興奮させられないから、この点は読み手のこちら自身が大いに意外を感じて、理由を突き止めなくてはと思わされた。
賞選考の根幹にも関わる問題に思われたから、じっくりと考えた。それが冒頭の説明につながるのだが、科学的閉鎖環境の舞台上に載せられた殺人事件自体が、いたって平易なものであったから、ということはまず考えられる。岩石による撲殺と、二酸化炭素による窒息死という二事件であるが、この実行に最先端科学の特殊な材料や手段が活用されているかというと、されていなくはないし、事件の露見に21世紀科学の知見が用いられはするのだが、ここでの最大の眼目は、殺人という利己的行為と、「ロボット三原則」との関わりであり、その縛りの破綻のない遵守と、運用のアクロバット、ということにあると思われるから、刑事事件自体は、右の問題提起としての性格さえ持てば、なんでもよかったというに近い印象になっている。
専門的な知識を前提条件としての特殊な環境が舞台で、その説明に大きな「脳力」を割いて丹念な説明を行ってのちに、さてここで起こす殺人事件をと発想する時、妙に力が尽きてしまっている感があり、刑事事件そのものは、前例がないほどにユニークなものとはなりにくかった、といったふうな作者の事情を想像してしまう。つまり宇宙科学の解説部分は非凡であるが、本格推理のドラマ部分は平凡であるということで、先進科学の理解と説明の脳は、殺人事件の謎→解決を、伏線呼応を意識しながら演繹する脳とは別種類である、という把握をしてしまいたくなる誘惑を感じた。
「ロボット三原則」の適用に際し、それが内包する矛盾に近い法精神の忖度に作者の視線は固執を続けており、この点への強い興味が、ミステリー史に現例のない刑事事件構築への発想までは抱かせなかったかと疑わせる。科学環境描出の達成度だけで、もう充分にミステリー史上に前例のない仕事はできた、とする自負が働いたようにも推察される。
しかし読み手たるこちらは、ミステリー文学においては宇宙環境の説明の経験がなくとも、他ジャンルの文芸や、少なくない米国産の映画によってたっぷりと経験してしまっている。すなわち第二の理由として、宇宙におけるコンピューターの反乱というドラマの骨組み自体が、すでに定型鑑賞の既視感を伴う性格のものに育ってしまっており、こうしたあれこれが、表現文体には充分に感心しながらも、興奮にまでは気分が高まらなかった最大のブレーキかと思われた。
すなわちこの舞台において波乱をもくろむならば、「2001年宇宙の旅」からすでに五十年という年月が経過した現在においては、人死事件をもまた、読み手が未聞と感じるほど型を破るものに、設定する必要があったのではないかということを、思わないではいられなかった。当作品は、乱歩賞に落選したそうだが、その後、今回の再投稿にいたるまでの時間は、この殺人事件の新味捻出に最適の時間であったように推察される。しかし科学環境描出の筆への必要以上の自負が、現状への固執につながったように想像される。
また以上のような問題のほかに、ロボット科学における根源的な命題が、読書の間中ついて廻って消えなかった。殺人を実行するにあたっての条件のひとつに「ロボット三原則」が介在した場合、ロボットたるアイビスの判断はどう展開していくか、こうした推測のゲームは充分に面白いし、優れた着眼と評価した上で、以前より感じているこの問題への疑問点の説明を、以下に試みてみる。
昨世紀末から、わが社会にはすでにロボットが数多く存在している。腕だけで延々とルーティンワークを続ける自動車造りのロボットにその典型を見るわけだが、昨世紀の前半にチャプリンが作った名作「モダンタイムズ」の重しが効いて、欧米においては非人間的な流れ作業を人には課しにくくなり、これを気にしなかった散文的、自虐的な日本人が、大衆車造りで世界でリードした、こうしたことはどうもありそうである。
この事情ゆえに、自意識を持たないアームロボットは急速に発達した。近未来の自動車工場はこうしたロボット工場になるという確実な未来予測があるから、トランプ大統領はなりふりを構わず自動車製造業を国内に呼び戻したがっている。工場自体が存在しなければ、そのロボット化もできない。そしてワーカー・ロボットが給金を要求しなければ、国家間の人件費格差は生じないから、工場は国内にあっても経済的に成立する。こうした未来には、職を失った労働者の何割かは自殺等で命を失うと思われる。
そして自動車産業の次に登場するロボットが何かといえば、今や事態は明瞭化した。戦争の最前線に立つ、キャタピラ付きの大量殺人機械やドローン殺人機械、空爆無人機になる。これは自軍兵士の命を守るために切実に必要とされ、もっか一日も早い実現が期待されて、研究が進められている。すなわちロボットという機械の発展史上においてこそ、絶えず大量殺人がついて廻り、アシモフの「三原則」はまったく気にされる気配がない。
現実のロボット発展史は、アシモフの予告とは大いに違う推移を持ちそうであるから、この警告は、アームロボットの歴史を存在させず、人型ロボットが突如世の中に現れ、これと直面したアーリア人種の事情に思われて、アジア・アフリカの植民地におけるアーリア系白人種と、有色原住民奴隷との出会いに酷似している。すなわちこの「三原則」というものは、過去世界各地で徹底した植民地支配と搾取を行い、現地人を従順な奴隷とせねばならない切実な事情を体験した人種の、民族的記憶と思われる。
ということはすなわち、アシモフの言う「ロボット」とは、植民地の奴隷に酷似した「人型ロボット」のことではないか、という疑念が去らない。人型ロボットは、やがて腕力と知性、それとも悪意を獲得して、人工の腕に殺人可能の武器を携え、制御不能の復讐を始める危険性がある、とアーリア人種は考えた。単にプログラムの人形が、そのような意志を持つと発想すること自体が、罪の歴史ゆえの白人種の贖罪的な怯えであって、植民地搾取の経験を持たない日本人のロボット感には基本的にこれがなく、ロボットを幼い友人ととらえがちである。が、身体能力の高い殺人奴隷が、スパルタカスのように報復に立ちあがってくると予想するなら、「三原則」が必要になるという事情であろう。しかし当作中に出現するアイビスは人型でなく、肉体を持たない環境維持のプログラムであるからこれは拡大解釈で、果たしてこれに、こうした単純な「三原則」適用発想になるものか? という疑念は終始感じた。
当作においてアイビスは、人が設定したプログラムに沿って思考し、判断し、ルーティンワークをこなすだけと説明されながら、実は火星に行きたい内心を隠している。これは名作映画「2001年宇宙の旅」に現れて、人間についに反旗を翻す従順な人工知能HALに似て感じられ、この映画のストーリーを器的にとらえて前例として踏襲したか? といった疑念が、あるいはこちらの興奮に水を差したかと考えられる。
以下は賞の運用自体に関わる問題で、以前より考えていることであるが、他賞落選作への対処の問題になる。福ミス候補作に乱歩賞の落選作が混じること自体は問題ではないのだが、落選告知後、即刻の福ミス・スライド投稿、あるいは一年以内の機械的移行となると、はたして誤字脱字の修正以上のことがどこまでできるものか、と疑念を抱いている。
落選作たるこの作は、先述したようにステーション内部の説明はほぼ完璧にできているので、この舞台に載せる殺人事件がもしも大きく、ユニークであったならば、傑作になった可能性は高い。こうした抜本的な改造なら、自作を一度忘れ去り、のちに他人の作を読むようにして不足部分を探し、改造をほどこすのがよいと考える。そのためには落選後、少なくない時間を置く必要が考えられてくるから、不必要な固執意識は、すみやかな棚上げの要がある。誤字脱字修正程度による連続的な再投稿なら、禁止された二重投稿と精神が同等になってしまう。
先述したことだが、科学情報の理解と説明、刑事事件の推理構造、この両者をになう脳がもしも事実別種であるならば、なおのこと一度忘れるというプロセスは必然のように感じられる。機械的な再投稿をまだ違反とは規定しないが、落選後、最低二年の時間は開けて欲しいとお願いをしておきたい。