「本格ミステリー」に要求される人工的な要素、物語執筆の前段階で仕込まれるべき設計図発想、俯瞰による知的操作が、最も感じられた小説がこれで、この手柄で前二作よりも頭がひとつ抜けている印象を得た。
この小説の創作意図は明瞭で、序盤中盤は混乱させるが、最後の最後で合流させ、込み入り、もつれた全体構造を一挙に解体説明する、そういう意図で二つの世界を平行して存在させた俯瞰発想の妙にある。こうした設計図発想は貴重で、この設計図を完成した時点で、この小説は半分以上出来上がっていたといえる。ただしこれを文章化する段階で、幾分かの不手際はあったように見受けた。
峡谷に架かる吊り橋一本でかろうじて人里と結ばれた、雪深い山峡に建つ古風な館、天城邸。その内部に怪しげな住人たちが暮らしており、祖先は子孫である彼らに、時代錯誤的な家屋敷相続上のルールを強制していた。女好きの前代の家長が、関係者の女性たちに無節操な触手を伸ばすもので、血脈が判然としないような煩雑さを呈してしまっている。定番の趣向だが、こうした人物配置は読書の前提でも名前等すぐには頭に入らないので、冒頭に図示するのが親切であろう。
しかもこの家長にはある病的体質があって、これが血脈の混沌に、より深刻の度合いを加えてしまっている。そういう問題ある家長が没したから、彼の正妻の親友が産み、今は離れた街で医師になっている長男が祖母に呼び戻され、家長を継ぐように要請される。正妻の子ではないが、この家のしきたりでは、そういう点は問題視されない。ところが父親は、彼に家を継がせることには何故か猛烈に反対していた。これが謎その一である。
まか不思議な人物相関の図に長男が分け入ると、これを待っていたように、彼を相続人として推していた祖母が殺され、帰還者の彼にも家から出て行けという誰からとも知れぬ脅迫メッセージが届くという、まことに定型の物語は開始される。
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古色蒼然としたこの定型性に、またかと思わされはするものの、作者としてはこれは意図的に行っていることで、この小説の新しさは、そうした定型的物語の外郭部に別個の物語を置いて、両者を交互に平行して語ったところにある。その意味で、これはコード型本格のファンたちが渇望して久しい、館ものの二十一世紀改造形の登場であるのかもしれず、もしもそうであるのなら、「屍人荘」に継いで、多くのマニアによる喝采が待つのかもしれない。
横溝=ヴァンダイン・タイプの母屋の展開と交互に現れてくるこの外郭部のストーリーは、一見したところ本筋とはまるで無関係で、登場人物も誰一人共通せず、延々と交わりそうもなくて、作者が何故こうした構造をとったかにしばし戸惑わされる仕掛けになっている。
まずこの構成部分に、いささかの異議を感じた。ふたつの物語、外部のものの方は舞台に関する説明が少なく、屋敷内に意図的に似せられもするので、屋敷のどこか知られていない場所での描写かと思わされるのだが、これが楽しい戸惑いとは感じにくく、ひたすらの読みづらさに感じられてしまう。こうした紛らわしさをあえて演出する必然性は、この設計図の思想にはないと思う。作者にはおそらく、館型創作に殉じたいとする思いがあったと推察される。しかしこの作がこの作家の五作目であり、書き手の大ファンとなっている読者なら、情熱をもって作中に入り込んでくれるだろうが、処女作の読者の多くはそう親切ではない。読書のブレーキになりそうなものは、排除しておきたいと感じる。
別世界の物語だとようやく説明が為されても、腑に落ちる快感がうまく現れない。この種のものを多く読んできた人間にも、いずれ先でこの二世界は交わるのであろうという予測が生じたり、こういう構造にした事情が薄々了解されてはくるものの、わずらわしい気分がわくわく感に勝り、これがなかなか消えずに後半まで引きずられてしまう。これではこの仕掛けにした意味が乏しくないか。
製本される場合には、活字を変えるなどの手当も考えられはするが、この部分はやはり根本から改善を施した方が、作が傑作に近づくと感じた。二世界の違和感は、接近させてその紛らわしさで読み手をいらつかせるよりも、まったく色彩の異なる別世界を交互に展開させることで、脱横溝型の新鮮さや失見当識を演出する方が、読み手の推進力になるように想像する。
母屋の横溝的世界は、よほど偏狭なコード型の偏愛者以外、少々時代遅れと感じるのが自然と思うから、その意味でもかたわらに置いたサイド・ストーリーをもっと独自的に光らせ、それ自体の存在感を強くして、新時代の本格なりのアピールを為した方が得策のように感じた。しかしこれは、この作者には議論であろう。現状でいけないということではない。
その他の点では感心する要素も多かった。なんと言っても作者の医学の知識の深さには感心した。ストーリー全体に散らばって、このともすれば手垢のついて感じられる物語を、クリスマスツリーの銀紙の星のように光らせている謎の群れは、奇病に対するを含む、この作者の該博な医療業界の知識が作り出している。この要素は、この骨董品的世界にあきらかに新しい光を与えた。横溝流儀のおどろおどろしさが生き延びるヒントも示している。
さらにもうひとつ言うと、終盤でのある行為によって、医師の長男が事件の重大な真相に気づくという脱常識の発想も、まことに新しいというほかなく、極限的抑圧の中に群像が蠢く横溝型に、思いがけない方向に開く出口を示唆した。今後もおそらく、こうした方向の館型は現れるであろう。館型は、どうやらまだ死んではいないらしい。
この物語の背骨をなして全体を込み入らせたミステリー構造も、外郭部に存在し続けたサイド・ストーリーの理由も、全体を覆い続けたそうしたミステリーの霧を結部で一挙に吹き払ったものも、世のさまざまに珍しい病いに対する作者の、深い知識であった。この点は評価に値する。ただあまりに専門的なので、着地の部分で決めの言葉を聞いても、読み手はきょとんとしてしまって、霧は一挙には晴れないかもしれないが。
『約束の小説』とタイトルに堂々と予告を明示し、いよいよ最終部、結部の結部において、見事に約束を実現してみせた構成には、背後でにんまりとガーツポーズを作る作者の表情が見えるようである。つまりこの小説こそが、『約束の小説』そのものであった。
ただもうひと言だけよけいを言うと、それ以外の要素は平均的なものであったかもしれない。ひとつの遺体を、三十メートルばかり離れた別の建物に一挙に移す物理トリックを真剣に前面に出されたら、なかなか高い評価はできなかった。
僻地で群像を構成する怪しい人物たちの描写も、元アスリートのお手伝いはなかなかコメディアン的魅力があって全体を引っ張るが、それ以外の人たちを説明する文体は、この作家に独自のものがあったにしても少ないと感じた。故に進行を担う文体は、時に平板である。
またお手伝い女性の軽口も、だんだんに言いすぎて滑ってきたようにも感じられたし、はてこの人は、この先永遠に嫁にも行かず、家の備品のようにここに一生いる気かと疑うような、不思議な発言もあった。廓に見るような封建時代の感性と思われる。由伊の女心の訴えも、ずいぶん類型的で、いささか言わずもがななので、女性読者への説得性はこれで充分なのかと気になった。
これらすべてが、これも設計図発想に起因する作者の意図の産物なのか否かは不明であるが、まるでレゴのブロックによるように全体を定型に構成し、これでかえって設計図の良質が目立ったし、結末部の驚きと感心は増したと思う。突出した医学知識を組み合わせ、これほど徹底して複雑な骨組みを組んだ能力には大いに感心したが、これもまた医学レゴという新型のブロックであったろうか。