第15回 選考過程・選評応募総数65

第一次選考通過[22]|最終選考[4]|受賞作[0]|優秀作[1]

優秀作

熊猫松本 忠之

梗概

 中国の四川省成都市にあるパンダセンターで働く矢部楓は、同センターで唯一の日本人飼育員である。
 ある日、楓は自分が担当する獣舎内で、女性獣医の死体を発見する。地元警察は、高所からの転落による事故死と発表した。
 一ヶ月後。北京の中央警察から捜査官が派遣されてくる。事故を再捜査するといい、楓は否応なしに、捜査官のアシスタントに任命されてしまう。
 当初、的外れに見えた再捜査だったが、時間の経過と共に、次々と新事実が発覚する。なんと、女性獣医は事故死ではなく他殺だったのだ。
 犯人は誰か。動機は何か。異国の地で夢を叶えた日本人女性が、北京の捜査官と共に、難事件に挑む。

選評島田荘司

 中国を舞台にした、日本人による本格系のミステリー作品は戦前からあるが、本作は成都のパンダセンターに勤務する日本人のパンダ飼育員が主人公で、この目新しさにまず興味を惹かれた。日本人にも大人気のパンダであるから、いずれ出てきそうであったし、多くの日本人の興味をひくと思われる。公的な組織内における中国人たちのふるまいも、なかなかよく描けているので、その方向でも価値がある。
 パンダは中華人民共和国のシンボルであり、いわば国宝であるから、中央政府の思惑とも直結している。共産党の体質と問題点を描く社会派かとも期待したが、作者にそこまでの問題意識はなく、日本人ヒロイン楓の、女性らしい繊細でほのかな恋心を軸とした恋愛小説の気配が濃厚で、その方向の作例と理解した方がよさそうである。殺人事件とその犯人探し、そして推理のディテールに関しては、前半はかなり頑張っているものの、後半にいたるにつれ、どうしてもつけ足しという印象は濃くなっていく。これはこの作者に、その方向の興味が淡いゆえであることは隠しがたく、とりたててミステリー小説を選んで読んできた読者には、もの足りないという感想になってしまうだろう。
 中国国内にも、共産党幹部の腐敗や、傲慢な特権体質、あるいは横暴を具体的に告発する物語はある。テレビドラマにも、日帝時代の日本軍の横暴や暴力を描くドラマの次に、こうしたものは多い。しかしこういう場合は、北京の中央政府から派遣されてきた共産党幹部は常に正義の人で、彼が地方の腐敗を撲滅し、正してくれるという筋書きになっている。
 この小説も、事件の解決に難儀するセンター内部の人間模様や、地方警察の力不足を、中央政府の精鋭がやってきて正し、鮮やかに謎を解いてくれるという体裁で、こうしたパターンに似ている。作者は留学中に、あるいはこうしたドラマを見たのであろうか。中央からやってきた劉鋭(りゅうえい)の人となりは、中央人にありがちな威張りや威圧を見せることがなく、思いやりがあって外観もよく、性格も優しくて、とりわけ女性にとって魅力的に描かれている。
 パンダセンター内部の人物たちも、ひどく癖のある人物や、威張り屋、目下の者の気持ちを傷つけることに鈍感な人物は見当たらず、読み進んでいく上でのストレスがなく、心地がよい。当作が恋愛小説としての構造体であり、それをよしとするなら、こうした印象は好ましい。
 日本人楓のパンダへの強い憧れや、女性らしい柔らかな感性もうまく描かれていて、劉鋭への彼女の恋心も自然であり、結婚に憧れる女性が抱きがちの悩み、たとえば恋心を隠したいが、同時に示したいという葛藤、あるいは知らず重ねた自身の年齢の高さへの悩み、時間との闘いの気分なども、多くの女性が共感できるものであろう。
 一般的な中国人の人柄のよさ、中国の地方都市の美しい風物や、パンダを取り巻く珍しい環境を背景として見せながら、乙女の恋心を描く恋愛小説として見るなら、気持ちよく読ませるなかなかよくできた物語であるし、充分に良質のものと評価ができる。
 ただし、推理小説として見た場合には話が少々違って、未達成点は明瞭であった。北京から派遣された警察官僚、謎解明の中心軸としての劉鋭が、後半で披露する推理は、いささか無理のある決めつけとか、挙げる証拠類に、説得力が不足して感じられた。
 たとえば、高さ四十メートルの崖から転落死した馬獣医が、足を滑らせての事故死ではあり得ない理由として、遺体がうつぶせになっている点を挙げる。足を滑らせれば、頭部は必ず後ろになり、仰向けに落ちる、発見された獣医の遺体はそうなっていないから、これは事故死ではない、と断ずる。
 これは果たしてそうか。崖に向かって全速で走ってきて、縁の手前で勢いよく足を滑らせればそうなるだろうが、よほど特殊な条件がなくては、人は通常そんな動きはしない。通常の足の滑らせなら、人間は崖の縁で必死に体を反転させ、上に生えた草か、崖縁の岩などにしがみつくのではないか。そして大声で助けを呼ぶが、力尽きれば足から落下する。こうしたケースでは、地面ではずんで仰向けにもなるだろうが、うつぶせにもなると思われる。つまりどちらとも言えず、この程度で決めつけている言動を見れば、劉鋭は実は事故死判定を嫌い、殺人方向に衆目の誘導をもくろむ作為を持つ人物ではないかと疑ってしまう。
 あるいはこういう、首をかしげる言動もある。ある人物を容疑者から除外するため、彼は「高所恐怖症だから」丘には上がらない、という理屈が断定的に持ち出される。これも果たしてそうか。鉄骨造りのテレビ塔の、地上高百メートルの鉄骨の上で争って突き落としたというならそうであろうが、四十メートルの高さの丘の、崖縁から離れた側からなら、そしてこれが殺人なら、突き落とし行為が不可能とは断定できない。どれほどに高い場所でも、下が見えない場所であれば、また殺人などという決死の行為であれば、上がるくらいは可能であろうと思われる。
 これが計画殺人なら、準備として、前もって高所恐怖を演技しておくことも考えられるから、自身が高所恐怖症だとする自称を、簡単に信じることはできない。高所恐怖症を吹聴していたから、丘に上がるのは無理とする判断は、本格ものの推理としては常道をはずれるものだし、虚言を疑う方がむしろ常識的であろう。
 さらにはこういうこともある。真犯人を特定する材料として、健康のため、常時握って握力鍛錬をしていたある人物愛用の「健身球」が、現場付近に落ちていたからと言われると、本格ものではこれは、ある人物に罪を着せる際の常套手段なので、健身球の愛用者は犯人ではないだろうと考えてしまう。ことが殺人なら、落とさないように誰しも気をつけるであろうし、本当に落としたのなら、あとで回収に行けなかった理由が必要だ。しかしこうした危うい主張が、結部まで覆されることなく、ついに犯人特定の唯一の材料として生かされてしまうと、本格ものの読み手としてはいささかの拍子抜け感が否めない。
 ミステリー趣味を醸すため、自由記帳のノートに、馬獣医が「仁徳は暴政に敗れ、天の理は強権に敗れるのか?」という謎めいた書き込みをさせている。がこれは、事件の装飾物的な位置にあまんじるばかりで、暗号的な効能を発揮したり、犯人特定に貢献したりはしない。
 この小説内のいわゆる三役が共産党の幹部であり、この地位の獲得も不当な経緯なら、事件解決後に特権を行使して、犯行に深く加担していたのにも関わらずいっさいの咎めを免れ、探偵役も楓も閑職に左遷された、というような理不尽な結末が用意されるなら(中国社会では普通のことである)、「仁徳は暴政に敗れ、天の理は強権に敗れ」もするが、そうした問題意識に踏み込む思い切りは、作者にはなさそうだ。馬獣医にこの書き込みをさせた時点では、あるいは作者は、こうした後半展開を構想していたのであろうか? しかし中国でなら大問題になるので、このストーリーを、無意識に中国的な分別で遠慮したのだろうか。
 またこの書き手には、本格ミステリーの体質はないのであろうと判定せざるを得ない。得意の恋愛小説を描きながら、応募の先を考え、作を本格寄りのミステリーに引き寄せるため、世間によくある犯人不明殺人と、犯人特定のパターンを頑張って導入した、というあたりに思われる。
 しかし文体が硬く、内部の人間関係の輪郭が解りづらい最終候補作が揃っていた今回にあっては、この作が最も物語としての膨らみと、体温のある人間関係、また読み進む者に読書の楽しさをもたらす小説らしさを持っていたことは述べるべきだろう。
 劉鋭の推理を全面的に修正し、健身球が現場に落とされた事情、回収されなかった必然性を作り、高所恐怖症に加える、丘の上を恐怖するさらなる強い理由を加えるなどすれば、出版に値する原稿はこれであろうと思う。ただしこの作家が、二作目三作目とミステリー創作を続けていけるか否かは不明であるが。
 個人的な趣味として、パンダの愛くるしいしぐさの描写などを、もっと数多く読みたい気もした。

最終選考作品

切り裂きジャック幻想大悟幻双

梗概

 切り裂きジャックの正体を探るミステリー。
 主人公ウィルは夢で過去を知ることのできる超能力者である。しかし彼の能力は欠陥が あり、目覚めると大半を覚えていない。そんな弱点を補うべく、科学者ヒグチの用意した 新たなデバイスを試すため、イギリスに呼ばれた。
  その結果、ウィルは一九世紀ヴィクトリア時代のイギリスと繋がり、レアード・マレイ という人物の肉体を借りて活動することに。そこで遭遇した女性メアリが切り裂きジャッ ク五番目の被害者と知り、彼女を救うべく過去と現代を行き来しながら奮闘する。 二一世紀の科学捜査は持ち込めず制約だらけだが、リッパロロジスト(切り裂きジャッ ク研究家)の見解を参考に、独自の仮説を展開して、切り裂きジャックの正体に迫ろうとする。
 ストリート・アーティストでもあるウィルは、 夜を徘徊する者の心理から切り裂きジャ ックの内面に迫る。事件の背景にこれまであまり語られなかった地元ギャングと売春婦の 関係があるのではと探りながら、その過程でメアリの殺された部屋、 ミラーズ・コート一 三号室が密室だった可能性に気づく。 史実の犯行日時に狙いを定めて地元ギャング、警察と協力して捜査に当たるが、本来の 歴史にはない早い段階で殺人が起き、切り裂きジャックを捕らえることができず、 手立てを失う。
  歴史が改編されようとも本来の史実から切り裂きジャックについて検証した仮説は有効 なはずと、情報を精査したヒグチが導いた仮説を元に再度、切り裂きジャックの正体に迫 ったウィルは、突き止めた犯人との対決に向かう。

選評島田荘司

 この作品の意図、創作の目的は、今候補作品中にあっては比較的はっきりしていて、背骨の存在は感じられた。骨に沿う読書は、その目指すところに向かっての推進力となるから好ましい。すなわちこの習作は、百年後の現在に至るもまだ謎のヴェールを脱がないロンドンの実事件、「切り裂きジャック」解釈の新説披露ということになる。作者としては、これまでに世に現れた幾百もの説にない、斬新な自説を思いついたので、今回、創作のかたちでそれを世に問うという意図であったと思われる。
 選者も「切り裂きジャック」については以前研究して、考えも持っているので、この新説に対しては興味があり、さらに読書のけん引力を得た。また考え方の一部に関しては、感心に近い感想も得た。同時に、それは賛同できないという意見もいくつも持った。その意味ではこの創作は、相性のよいものであったかもしれないのだが、ストーリー展開に、またしてもハリウッド映画ふうのファンタジーSF発想が導入されていて、本格ミステリーの方向性と、「切り裂きジャック」という実事件解明をもくろむ意図に、この趣向はふさわしいものかどうか、やや疑問を抱いた。
 前人研究者が誰も気づかず、しかし誰もが膝を打つであろう説得力ある新解釈とか、真犯人を思いついたなら、その発表をタイムスリップや、他人の肉体への憑依が行われるファンタジーSFの大皿に載せてしまうと、説得力を減ずるのではないか、これは名探偵「コナン」ふうの軽快ファンタジー方向の趣向であって、作者もさして真剣ではないのだと解されないかなど、多少の心配を思いながら読み進んだ。
 前半中盤、面白く読ませるところもあるのだが、「うがあ」とか「うわマジか」、「うわ、なんか、ありそう」、「バズった」式の劇画調の会話や威張った(カッコよい?)暴力対処に、英語圏において、ホームズと同時代に起こった歴史的な大事件に向き合い、純粋な論理思考で新解釈を模索していく黎明期探偵小説の理知的体質とは、いささか異なった現代若者の軽い気質を感じて、いささかの異質感を抱き続けた。やはりこの作も、劇画とハリウッド・エンターテインメントへの深い馴染み方、そしてその表層の導入という、他候補に見たような作例に共通する様子を感じ続けた。
 はたして後半、作者が自説を披露する段階に及べば、首をかしげる要素は多々現れた。動機が迷惑系動画ふうに世間を騒がせたいというものにすぎず、嫌疑を受けそうな者が自身のアリバイを得るために、切り裂き殺人にまで交換共犯発想を持ち出すにいたると、いささか首を傾げた。
 交換殺人は、強い動機を持つ対象を葬るために画策する手段であって、歴史上例のない、相手を定めぬ殺害と解剖、臓器持ち去りという個人的悪意に、交換者を発想するであろうか。それは憧れた美女への計画レイプ犯罪に、交換者を用意するようなものではないか。もしも決行すれば、共犯者は殺害と切り裂きはしても、内臓には手をつけないといった不自然さが現れそうに想像する。この物語においては、女体の解剖と、臓器持ち去りに性的な代償快感を得る変質者の犯行との推測を、作者も強く否定はしていなかったように思うが。では交換共犯も、たまたまそういう性癖の持ち主であったのか。運よくこういう者に出会えていたのか。そうなら、精神病院の収容棟仲間であったとかの、準備が必要のように思う。
 また現代のネット耽溺民にとっては、迷惑動画配信による騒乱は、世の終わりのごとき大騒動と認識されるであろうが、それはネットに暮らす多数民がこうした狼藉をネットにともなうトラブルとしてパターン認識しているからで、十九世紀に、第一弾目としてのこの事件が、必ず世を揺るがす大騒乱になるという確信が犯人に持てたか否かは微妙である。これほどの歴史事実になったから、今日のネット騒乱を重ねて論じている。
 当初は、歴史上まったく存在しない、とてつもない猟奇発想の個人的事件で、私的発想の極みであったと思われる。解剖と臓器の持ち去りは個人趣味的であり、前人未到で、到底世の反応を計算するような客観的な視界が犯人にあったとは思われない。
 「切り裂きジャック」の連続殺人がチームであったとすれば、それは警察の追跡を逃れやすくするであろうが、これはどのような不思議事件でもそうで、米陸軍の特殊部隊が秘密裏に出動すれば、大抵の事件は成立させ得る。すでに有名な未解決大事件が、大きな存在感を持ってしまったがゆえの後追い発想で、このようにすれば成立が可能になると、後付けふうに組み上げた案のように思われる。
 超能力者を主人公にすえ、タイムスリップしたり、他人の肉体に憑依できたりも似ていて、そのようなことができれば、それはこの歴史的な謎に対する追及、解明も楽になるであろう。どのような謎も、犯人不明も、警官が透明人間になれたなら、一発解決である。そうした胸のすく発想が悪いとは言わないのだが、こうした発想の集合で進行するこの歴史の謎解明の物語が、こうしたけれんに作者自身の重心が行ってしまって、SF冒険活劇の躍動に筆が費やされすぎ、肝心の謎解明の終始が、やや平板になってしまった印象は否めない。
 メアリー・アン・ニコルズの事件だけが密室で、つまり世間から隠す発想で行われており、ほかの娼婦殺人はすべて、遺体をこれみよがしに世に晒そうとしたものである、の理解も似ていて、このとらえ方には多少惹かれはするものの、対象が道端に立っていたから結果的にそうなっただけで、個室にこもれたなら、アンと同じ結果になったと思われる。これも、「切り裂きジャック」事件の細部が歴史に確立してしまったために、後追いで組み立てた辻褄合わせで、新着眼、新発見とは思われない。
 しかし、何ごとか世間の度肝を抜く大事件を起こしてやろうと画策する者がもし当時のロンドンにいたなら、それは連続殺人事件が最も世人の心胆を寒からしめるだろう、そう発想し、まだ電気による街灯も懐中電灯もない都市、真っ暗な路地裏に非力な女が一人で立っていたのであるから、街娼を対象にすれば実行は容易であるとした着眼は、これは作者が指摘する通りである。が、これもまた前人が揃って見落としていた重大事実、というまでのものではない。
 切り裂きジャックの謎は、あるいは歴史上唯一無二のユニークな要素は、性器に近い下腹部が切り開かれ、内臓が摘出され、あろうことか、一部が持ち去られるなどしていたことであろう。こういう事例は、長い人類の歴史の上でも、類似例がない。先のような発想で事件を起こすというだけなら、娼婦を殺すなり、衝撃性の演出が必要なら、せいぜい頭部を切断するなりして終わりにしたように思われる。何故内臓なのか。
 切り裂きジャック事件の新解釈、真解明をもくろむとしたなら、なによりこの点に関して、新解釈を示すべきではと思われる。解剖部位が性器に近いから、性的な行為とみなされたが、同時にその場所には消化管の終末部もある。ある娼婦の大腸は、切断されて、その端がすわり込んだ遺体の肩にかけられていた。そのことから、真の目的は実は大腸にあったのではと選者は以前に発想し、小説化した。こうした前例にない着眼を、当作例にも期待したが、これは果たされなかった。

最終選考作品

三角形殺人事件青木 泉

梗概

 俺、乾勇一は元は麻薬取締官だった。ルソン共和国に出張した時、事件に巻き込まれ馘 首されてしまった。俺は殺人の罪を被せられルソンから帰れずにいた。やむを得ず、自警 団に身を置き、そこで、銃や刃物の使い方を習得してしまう。そんな日々をすごしている と、異常な体験をしてしまい、精神に病を得て幻覚の黒いもやを見る様になってしまった。
 黒いもやは俺をワトソン君と呼んだ。ルソンで謎の男、ミスターKと出会い、Kの組織 の始める葬儀屋を手伝う条件で日本にやっと帰れた。表向きは服部葬儀社の看板を上げて いるが、本当の仕事はマンションの孤独死、自殺者を行方不明に変えるというものだった。
 ある日、組織からサンセットマンションの死体処理を依頼されて行ってみると、そこに は顔を消されるように白い油絵具で塗られ、頭、腕、脚、胴体を切断しブルーシートの上 に黒いテープでつくられた三角形の中に並べる猟奇殺人に出くわした。しかも、そのマン ションの部屋は密室だった。何者かが組織の指令を偽り俺を罠にハメたものだった。
 それは組織の知るところとなり、組織は俺に八月十五日までに事件を解決するように命じた。もし、それが出来なければ俺をルソンに送還し殺すというのだ。
 俺は事件を捜査し、 十二年前の函館の誘拐殺人事件に行きついた。誘拐された小学生は 倉庫の中でバラバラにされ箱の中に入れられ、担任の教師津村により発見された。
 誘拐事件の関係者は子供の父親紀田、犯人ですでに逮捕され刑期を終え出所した古島、 事件の主犯でブラジルに逃げた葉山だった。 津村はY市で絵画教室を開いていた。その絵 画教室には中堅ゼネコンの社長土川と医者で病院の会長外村、 運送屋で働く水上がいた。
 俺は絵画教室に受講生として潜り込むが、 一緒に主犯格の葉山を探していた、 紀田がバ ラされてビニールシートの上に三角形に並べられて見つかった。しかも、その現場の養魚池は誰も入った形跡がない、開かれた密室になっていた。
 俺はそこで黒いもやを吐きだし、もやとともに三角形殺人犯を追う、 紀田の死体を調べ ると、マンションで殺された男と同じように鳩尾に鉛筆で開けた程の穴があり、黄色い油絵具の様な物が付着していた。
 俺は麻取時代の元部下の西嶋慶子に分析を依頼した。それは南米のモウドクフキヤガエ ルから採取される、バトラコトキシンという毒物であると判明する。また、腹部の穴はボ ウガンの矢が刺さったものだった。俺は西嶋と黒いもやの協力を得て犯人を探すが、そう している内に土川も殺され三角形の枠に入れられてしまった。しかも、土川の死体は消失していたのだ。
 一方、画家である津村は次元展の大賞を狙うが、それには他を圧倒するモチーフが必要 だった。函館で殺された子供が風車をランドセルに差していた。津村は三角形の惨殺死体を風車の羽に見たてて絵を描き次元展の大賞を受賞する。 俺は大賞の絵を美術館で見ると 津村のアトリエを捜索した。 そこでの物証でトリックを見破り、殺されたはずの土川が犯 人の葉山だと知る。 俺は八月十五日に函館の子供がバラされ発見された倉庫に乗り込み、土川と対決し総てのトリックを暴いて土川を倒す。 その折りに、 土川が与えたミスターK の情報を元にKの組織の実態を解明し、Kの組織と対決し自由を得る。俺は新しい人生のスタートをきることが出来た。

選評島田荘司

 よい小説と不充分な小説との差異を語るなら、数々の項目やテーマが考えられるが、最も重要なものとして、物語内部の人間関係が温かみや膨らみを持ち、これに接する読み手としてのこちらが、実社会での出遭いに似たリアリティを感じて引き込まれ、文中に没入できるからよい小説と感じる、ということがある。これは人間が描けているという言い方でも間違いではないが、ロボットの集団でも起こり得る。集団が交わす会話や、醸す気配の濃厚さが重要で、舞台劇やオペラをイメージしてもらえたらよいが、いい役者が一人いても駄目で、集団の醸す有機性が重要だ。
 これがあれば主役的登場人物の思いとか、目的に向かう行動に共感ができ、興味を持ったり、成就を願ったり、喜びや悲しみや、感動に共感してともに感動することができる。作中に存在する社会と、読み手との共振が強くなれば、文字による伝達という中間の幕の存在を忘れ、無味乾燥であるはずの漢字カナの文字群が消滅して、脳の内部に広がる世界のリアルさにのみ心が移る、そして現れた感情のうねりをこの上ない好ましさに感じる。これこそが読書の至上の喜びであり、醍醐味であり、すべての小説は、ヒトに読ませるものである限り、これが目指されなくてはならない。文学という一種把握の用語は、こうした現象をこそ指しているのであって、漢字カナ交じりの文字群の技術的優劣などではない。
 こうした文学運営の目的は、純文学であろうとノンフィクションであろうと、本格のミステリーであろうと同じことである。漢字やひらがななどの記号の堅い外殻が、熱に解けるようにして液体化し、気体化し、脳の神経物質を通じて読み手の魂に流れ込んで揺さぶるという現象は、お偉方がいかにあれこれ思惑を言おうとも、現実に起っていることであり、芸術の最も高価値の部分といえる。
 日本のミステリー文芸史において、最近の新本格の一部にも見られたが、長編小説書きの準備として用意する、箇条書き的なあらすじに似た情報の提示と人物の羅列、熱のない進行の語りには、鍋のシチューのように良く溶け合った独自的な印象が現れず、延々と箇条書きを読んでいくような退屈感、手あかのついたパターン描写でできあがった無個性の小説が続いた時期がある。
 例えば物語中である人物が、とある家庭に上がらせてもらって夫婦や子供と会話をするような時、暖かい言葉や、優しい配慮の言説が飛び交うはずであるが、そこには主婦のさまざまな計算が大いにまじり、夫選びが的確で、幸せになっている自分を知らしめたい、第三者にも伝言してもらいたい思いとか、世間並みの夫婦と評価はされたいが、そこいらの妻たちには負けたくない競争心とか、夫や子供を自慢したいという思い、勝ちたいという気分が背後にひそむ。しかしこういうものを心に沈めて行う表面上の行儀、魅力のある明るさ、優しさの演技が計算されてもいる。家庭訪問の場面では、こういう女性らしい思惑の交錯を、女性の読み手なら必ず予感するし、家庭運営が長くなってくれば、男にも解る。しかし総体として、こういう生々しい内にこそ、人同士の温もりが存在しているわけで、人々は日々そういう内部に浸って生活し、不快を感じてはいない。女性のこうした思惑の露出や隠ぺいはある種のスポーツにも似て、彼女の力量であり、楽しみでもある。
 成熟した読者はこういうものを知らず読み取っている。そして無意識のうちに、こういう女性のしたたかさを覚悟してもいる。こういう描写は、必ずしも書き手の力量ばかりを必要とするわけではないが、読書の醍醐味の一部であり、これらの表現が存在すれば、文体はある膨らみや、体温を必ず得ていく。「本格ミステリー」にこうした文章のふくらみや暖かさは不要であり、書けば価値が減ずると強弁された時代もあったが、説明の要もない誤りと筆者は考えている。小説形態を持つ以上、こういうものは否も応もなく現れてしまうし、排除すれば、その小説の評価は一時の流行であって、長い生命を持たない。もしも持ったとすれば、それは別所に別種の価値が存在したためである。たとえば綾辻行人氏の創作のように、である。
 以上、原則論としての私見を述べたのは、今回の選考読書に、内部に入るのが極めてむずかしいと感じる候補作が多くあったからで、福ミス初回からの経験を思い返してみても、あるいは長い選考委員経験の年月を思い返してみても、今回のようなことは珍しい。アメリカ映画や漫画の表層部分の影響ではないかと感じ、ひそかに不安を覚えた。
 述べたような、小説らしいふくらみの人間集団を内部に持っていたのは『熊猫』のみで、ほかの三作は、異様なまでにこちらの侵入を拒絶するような、従来的でない皮膚と脂肪部分を持っていた。これは文体が硬質だからではない。内部の人間関係が痩せて、ふくらみや体温に乏しいからで、この『三角形殺人事件』もまた、登場人物の多くが、うまく表現すれば充分魅力のある人物となり、興味を惹かれる行動となりそうであるのに、観念的な借り物情報でしか説明されず、動かされるから関心が深くならず、従来的な言い方をすれば、作者の生活実績が、こうしたハリウッド的タフガイの人生観や信念に、届いていないからに感じられた。
 例えばルソン共和国で無数の人間の生命を奪い、虚無の淵に沈みがちなもと麻薬取締官、現在は葬儀屋という、ハリウッド映画なら面白く作りそうな乾いたユーモアふうの設定で、魅力あるアイデアであるのに、どうにもこちらの期待する細部が現れない。主人公の若者の、よい意味でない若さが、ルソンで無数の命を無慈悲に奪い、非情で暗い、まっとうな生活をあきらめた特殊な人物の様子に見せない。
 今こういう物語は流行であるのか、コミックモーニング誌に、中東の工作員組織で殺人マシンに育て上げられたタフガイが、日本に帰国して漫画家のアシスタントをしている話が連載中であるが、この人物は卑屈なほどに愛想笑いをして礼儀正しく、内向して、必要最小限しかしゃべらない。こういう様子の方が、彼の過去を信じることができる。女子高生を前にしても、妙な手馴れ方や期待を示したりしない。
 しかし当作の主人公の、函館で前科者の家にあがり込んで酒を酌み交わすところとか、反社会集団の事務所に麻取りの名刺を持って訪問するところなどは、社会派エンターテインメント小説ふうになかなか面白く読ませる。あるいは菊川という得体のしれない冷血立腹美女の立ち居振る舞いなどは、なかなかリアルに描かれるのだが、それ以外の人間たちの挙動には、惜しいところで血肉が不足して感じられる。菊川以外の女性との関わりや、会話には、これは他候補作も同様だが、冷徹な殺害者としての過去を持つ割に、学園青春物の男子生徒のように言動がデレっと柔らかくなってしまう。
 この作者もまた、ハリウッド映画や劇画の影響で、硬質なタフガイをパターン情報としてとらえ、要素に導入したように思われる。書き手の意識がまだずっと手前にあるふうなので、次作からは内部の反社会性をもう少し緩やかにし、年齢層ももう少し押し下げて、背伸びなく構想するのがよいのではと感じた。劇画ならけれん的視覚要素からこういう意識は露見しにくいし、今のままでも、多くの類似作を書けば、手馴れてくるだろうとは思うのだが。
 何より気になったのは、何回か三角形に配置、遺棄されるバラバラ死体が、数学的なパズル発想により、脳自慢の論理推論を挑発する「謎」として配置されたのではなく、サイコパスの猟奇趣味によってなされる単にショッキングな愚行であるところが、またしても映画的で、表層的なものを感じさせる。(ただ驚かせればよいというもの)映像や漫画であれば衝撃的な絵が、観客に有無を言わせないであろうが、活字のみの「本格ミステリー」であれば、もう少し理屈は欲しい。そう見せて、実は背後に高度に論理的な事情がないものかとつい期待をしてしまい、読後にいささかの不平は残る。
 当作を作者が「ミステリー」と分類するゆえんは、主人公の未使用の脳の領域から繰り返し出現する病ゆえの黒い影で、これは確かにミステリー現象であるものの、このままの説明であれば本格の体質発露ではないように思えるし、何よりこれも、映像的なけれん発想ではある。活字による本格ミステリーであるなら、もう少し立体的に組み立て、準備した周到な背後事情は欲しい。
 黒い影が、人間の部位を用いて描かれる三角形という犯罪に、具体的に関わっていた、あるいは行為していた、というようなどんでん返しが結部に出現すればこれは驚いたであろうし、影が病ゆえなら、そのくらいの悪意は持ちそうに思われる。またこれは病なのであるから、影をリアルに見るというほどの異常があれば、それ以外の病変現象、片頭痛とか不眠、夢遊病、記憶障害などの病変は出ないものかと不思議に思った。
 しかしこの書き手は、結末を劇的に演出する才能はある。結末部のどのパーツもうまく行っている。本格ミステリーの書き手ではなく、ハードボイルドの書き手としての構成力、ある思い入れた結末を出現させるための満を持した準備の才がある。これは評価に値する。
 この結部のためにも、主人公の中盤での大人としての枯れた言動、思惑を背後に隠しての巧みな女性たちの扱い、あるいは主人公の魅力ある男性的言動や物腰、各要素の細部の上手なつじつま合わせ、などなどが巧みに行われていれば、一人坂をのぼりはじめる津山のラストシーンは、さぞ感傷的、感動的であったろうと考えて、いささか残念な気分になった。

最終選考作品

『普通の不可能犯罪』として太田 洋喜

梗概

  非公開諜報機関《C》の暗殺・破壊工作専門の市貝に急遽振られた任務は、専門外であるが簡単なもののはずだった。しかし、任務先の壬生邸で待ち受けていたのは、二○○メートル以上先から水平に狙撃された遺体だった。遺体の周りは壁で囲まれており、遺体から水平を取れる距離は一○メートルに満たない。
 壬生邸には解体工事中の旧館の前に『プール』と呼ばれる直径二○メートル、深さ一四メートルの円柱形の穴とそこに鎮座する直径一○メートル、重量六三九トンの球体『スフィア』がある。スフィアには翼と呼ばれる橋があり、橋まで水があると、さながら落水したエンジェルエッグに見えた。狙撃された遺体は、このスフィアの玄関にあったのだ。
 壬生邸には国家の信頼を著しく損なう器物がある――。NBC(核・生物・化学)兵器と言われる半ば伝説と化していた『器物』の実在を外国諜報機関が調査していると判明したため、警察庁警備局の非公開諜報部門――通称桜田門が捜査に乗り出した。市貝の本来の任務はその支援だったが、先述の事件発生のため、カメラマンとして潜入しているのを利用し、ヒューミント(人を介した情報収集)を強引に依頼される。ヒューミントの経験はなく、依頼を受ける義理はない。しかし、市貝には、
 ――俺はこのままでいいのか
という、漠然とした悩みがあり、依頼にはこの問いの答えを見つけられる予感があった。
 ヒューミントは一見順調に進んだように見えたが、集めた情報は桜田門が収集していた情報に劣っており、桜田門と県警刑事部との情報共有の場では、狙撃事件と『器物』、どちらの捜査にも貢献できない。しかも、捜査を進めた結果、事件の謎は、
『被害者はどこからどうやって狙撃されたか』
だけにとどまらず、
『被害者はスフィアに入ってから狙撃されるまで約四時間、数行の文章を書いた以外、何もしていない』
さらにその文章の内容が、
 真夏の夜に雪が舞う
 降雪は瞬く間に増え、すぐに視界は白に染まる
 私は待った
 待って、待ち続けた
 周りは真っ白で、もはや降雪の有無すら分からない
 しばらくして地面が震えた
 地震ではない
 嵐だ
 嵐は雪を散らした
 視界が元の景色に戻った
 そして、彼奴は現れた
 裏切り者
 お前の思い通りには、させない
と意味が不明。事件はより混迷を極めた。
 打ちひしがれた市貝は過去へ逃避する。
 だが、逃避は市貝を冷静にさせた。悩みの正体が判明する。
 《C》は一九五○年代の日本版CIA構想の中で誕生し、その頓挫と日本を反共の防波堤としたい本家CIAの思惑により、憲法・法律を無視した治安活動を行う決して日の目を見ることがない秘密組織となった。
 対して二○一三年末に発足したNSC(国家安全保障会議)の五大臣会合にて、NSS(国家安全保障局。NSC事務局)直下に設立された《N》は、《C》の問題点を正した『正しい』諜報機関だった。NSCに対する反発も含め、《C》や内閣情報調査室は《N》を有名無実化させようとしたが、《N》は勢力を伸ばしつつある。
 市貝も《N》は正しいと思っていた。しかし、自分に居場所をくれた《C》に愛着があった。故に《N》の存在を意識的に忘れたのだ。それが悩みの正体だった。
 同時に《N》が事件に関わっている可能性に考え至る。相手が諜報機関ならばやりようはある。ヒューミントではなく、自分にしかできない捜査を始め、《N》関与の根拠を発見するが、二回目の情報共有の場でも真相は遠かった。
 捜査できる時間は限られている。深夜、市貝は単身プールに向かう。遺体発見前とその後に見たプールは何かが違った。ところが、捜査途中、襲撃される。襲撃者は使用人として壬生邸に潜入していた《N》の工作員で、狙撃犯だった。市貝は何とか《N》の工作員を取り押さえることに成功するが、狙撃事件の謎は明かされぬまま、『器物』の隠し場所も分からない。
 それでも判明したことはあった。
 異常だったのは遺体発見前のプール。そして、《C》と《N》は本来対立すべきではない。市貝は《N》の工作員と不戦協定を結び、前者を熟慮の結果、真相に至る。県警、桜田門に協力を呼びかけ、早朝、最後の捜査でプールの近くに空洞を発見する。そこには大量の白い粉末と『器物』に関係あるとされる戦車もどきがあった。
 これで事件は解決する。
 しかし、《C》、《N》、桜田門が関わっている以上、事件は闇に葬られる。事件をできる限り『普通の事件』として解決するため、市貝は真相を《C》で独占せずに桜田門、県警刑事部、《N》と共有すると決めた。
 桜田門、県警、狙撃犯である《N》の工作員。彼らの前で市貝は推理を話し始める。

選評島田荘司

 今回は、選考の読書を非常にむずかしく感じた。『熊猫』以外の候補作が、本格ミステリーの発想とは別方向の情熱でもって描かれているように感じ、作中の出来ごとが明瞭な輪郭線を持たないので、内部に入っていくことが大変にむずかしかった。
 「福ミス」は、本格寄りのミステリーの傑作を求める賞なのだが、そうなら何が謎であり、以降の文章が何を求めて進行するか、が前段で明快にアピールされることが望ましい。これがはっきりしていれば、続く物語の内に謎解きの材料を探し、意欲を持って文章を読んで、能動的な読書ができる。材料を提供するための人間関係や、彼らの会話群もまた魅力が増す。こうした「謎と解決」という骨組みをはずれ、ただ人間関係の日常を読ませる段が続いたとしても、今はそういう時と了解して、待機の読書が楽しめる。あるいは無関係と見せてのこれもまた、何ごとかの仕掛けかも知れないと考えれば、それが邪推に終わっても楽しい。
 しかしこの作に関しては、そうした優先順位の意識も、謎解きに向かう能動の意欲も、文中に見出しにくかった。射殺死体が現れたのちも、依然何が解明すべき謎であるかがはっきりしない。段取りよく、明瞭な状況説明が示されないからで、かなりの枚数を経てから死体の態様が不自然であることが述べられ、これが解明対象の謎なのかと見当がついてくる。弾丸はライフリングによって回転が生じ、安定した姿勢で飛ぶのだが、実際は射出してすぐの時点と、遠距離を飛んだのち、発射の衝撃や回転数の低下によって、重い後部がぶれはじめる。こういう時に着弾すれば、標的にきれいな貫通孔は生じない。しかるに死体の貫通孔は綺麗だったので、想定されているような近い距離からの射撃ではないことが述べられる。死者は、射出から、二百メートル以上、四百メートル以内の距離にいて被弾しなくてはならない。
 こうした高度な専門知識が披露され、どうやらこれがそれかと認識はできるのだが、では以降の筆致が、ぶれずにこの謎に向かって収斂していくかというと、その気配は希薄で、また別の不明が現れる。死者が実際にはどこにいて、どのような状態であったのかが解りづらい。殺人の謎は、謎の態様を読者の脳裏に明瞭にイメージさせ、しかるのちに謎を示さなくてはならない。状況が不明瞭なら、確かに読み手は謎の解明がしにくいが、それはフェアな隠蔽ではなくなるから、解決の歓びも薄くなり、作も傑作には向かわない。
 その他の周辺事情や、思い出話などに平等な熱量でもって筆が費やされていき、それはかまわないのだが、それらの説明の位置が適切でなく、問題を語る文体は、次第に外郭を不明瞭にしていく。視線は目標物から離さず、説明は必ずフェアプレーが目指されなくてはならない。そうすれば文体の焦点が合い、印象がはっきりしてくるのだが、そうなっていないのは、やはり作者の意識として、語りの目標物が絶えずずれていくからで、だから物語の全体が、霧に沈むようにぼんやりとしていく。おそらく自信の謎ひとつがない、というゆえに思われる。
 被害者は、プールの底に沈む「スフィア」なる球状の居住空間にいたらしいのだが、この球が何を目的とした設備であるかの明瞭な説明も、「スフィア」の外郭を貫通したはずの銃弾孔についても、詳しい説明が現れない。遺体は銃から二百メートルから四百メートルの位置にいて被弾したのであるから、犯人も「スフィア」内にいたはずはない。そうなら銃弾は「スフィア」の外郭体を貫通したはずであるし、被害者が死体になってのちに運び込まれたのなら、それを語る死体現象が見られるはずである。またそうなら、「スフィア」の外郭は標的が望めるように透明であるのか、このあたりの説明が、堂々としていない。
 冒頭に詩に似た文字群が掲げられているのだが、この一群が、詩らしい美的な言い廻しを持っていず、空間や風景の描写を拒絶するような文体なので、何故これが冒頭に置かれるのかの意図が不明だ。むろん事件予告の意味合いはあるのだけれども、充分な効果が上がっているようには感じられず、小粋な格好よさもない。やはりこれも、物語全体の曖昧模糊性を助長するものに感じられる。
 以降に続く小説は、起伏のないフラットな説明が、高度な専門情報を含みながら延々と続いていき、作者がこうした専門知識に自信を持つらしいことは伝わるのだが、主の位置にある物語の、どこを重要だと作者は感じているのかを掴むのに苦労する。あるいはどこに面白さや喜びを感じて書き進み、読み手にも提供しようと考えているのかが不明なので、その平板さ、無味乾燥感に、次第に忍耐に似た気分が生じてしまう。
 賞選考であるからと、義務感からずるずると読んでいくのだが、どの部分を記憶して先に備えればよいのかが不明で、なかなか気分が楽しくならない。この忍耐気分は、エンターテインメント小説の読書として許されてよいものなのかが思索の対象になる。どこが試験に出るかわからないから、我慢して読まなくてはならないという、高校時代の教科書読みに似てくる。いずれ救いの局面が現れるはずと期待をするのだが、結局最後まで現れずに終わってしまった。
 表現のフラット性は、たとえば進行につれて「ノーメン」という言葉が現れるが、この言葉の由来や理由が待っても語られない。主人公は「カメラマン」を名乗って組織に侵入するが、何故カメラマンを名乗るのがよいのかが解らない。カメラマンなら、これまでの仕事の発表内容や、作品掲載の媒体を尋ねられたりしないものかと心配するが、それはどうやら起きない。
 施設にはプールがあり、この水の底に「スフィア」なる巨大な球体が沈んでいるのだが、これが何故作られたのか、材質は何か、何が面白くて中に人が入るのか、何故水上でなく、沈むのがよいのか、呼び名の由来も語られないので、現場の風景が判然とせず、強い興味が湧かない。こうしたふうに、こちらの感情や期待に無配慮に淡々とした説明が続いていくから、これを平坦に感じてしまう。
 「スフィア」から生えた翼なるものが語られ、図も示されるのだが、これがどうにも翼に見えない。のみならず、何故翼と呼ぶのかも解らない。「生物の生々しさを失った翼の残骸を思わせた」という表現があるが、どうしてそう思うのか珍紛漢紛である。
 この「スフィア」なる物体の中にいる人間を射殺するために、沈んでいる「スフィア」を浮上させる必要があり、これが先の貫通痕以上の重大なキー、いよいよメイン級の謎らしいと見当がついてくるのだが、そうした気づきもまた、説明がきっぱりとせず、潔くないので、それでいいものか否か、判然としない。
 しかし球体に窓もないと書かれているので、これでどのようにして中の人間を撃てるのか、壁が半透明ということか。外郭が弾丸を貫通させ得るような物質で、中でくつろぎ得るのか。窓がなくて読書もできるのか、照明具はあるのか、電源はどうしているのか、酸素は、何故水底がよいのか、すべては謎である。
 結局作者がこの作をミステリーとみなす理由は、全編を覆ってたち込めるこの種の曖昧模糊性を根拠にしているように思われて、どうにも釈然としなかった。
 本格のミステリーは建築物、とよく称されるが、内部の事件の進行と、周囲の人間模様は描かれるのものの、建物の梁や柱など、構造体が明瞭でないので、全体が何やら巨大な軟体動物のように思えてくる。
 これでは確かにタイトルがつけにくいであろう。この作の、どこか困ったような、風変わりなタイトルはこうした事情のゆえか。主人公は、米CIAに下部組織として期待される日本国内のテロリスト養成スクールで鍛えられたらしいのだが、これは安倍元首相の暗殺事件の記憶も生々しい今、旬なテーマとも考えられるし、この養成時代の追憶譚はなかなか読ませるのだが、事件はこのスクールを終えて、工作員となってのちのプロ仕事なので、確かに過去のこの様子をタイトルにはできないであろう。
 工作員としての仕事ぶりや、使用する武器の情報は高度だし、冷徹な目的遂行意識はそれらしいのだが、女の子が出てくると、この手のものの常なのか様子がメロメロになり、この段差にはかなりの違和感がある。仕事で出会った者とは人間関係が生じず、二度と会うことはないと冷徹なルールを唱える割には、学園恋愛もののようなういういしい言動態度になる。
 しかしこの作を読んでいて最も危機感を感じたのは、『熊猫』以外、みんなこの軟体動物的な霧の構造体傾向を感じるので、今後はこういう肌合いの挑戦作が増えるのではと強い不安を感じたことだ。つまり当世流のこれは特徴なのかと疑いを感じた。
 というのも過去、「新本格」台頭の時代に、不毛な大騒ぎを体験させられて、悪い記憶を引きずるからで、今回のこの様子も、大学受験制度の、日本に特有の歪みに起因しないかという思いが湧いたからだった。
 新本格台頭の時代、参加者たちの作風に非常に限られた傾向が見られたが、これは受験体制のペイパーテスト至上の体質が、文学をも単純化、図式化してしまい、そうしないと「問い」と「解」をうまく作れないという出題者側の事情に起因して見えた。
 ムーヴメントの進行につれ、本格の至上の形態は「館もの」ひとつであり、この内部における「密室殺人」であり、名探偵という「記号人間」の機械的なパターン言動でありと、きわめて単純な構造が目指され、みなが無言の行進のように、黙々とこの要求を守った。
 「本格ミステリー」はその何倍、何十倍もの広がりを持つとこちらが主張すれば、受験勝者たちは仰天し、受験勉強というこの世の最高価値の神聖事を否定されたゆえの発狂が起こり、世の正義のため、島田と刺し違えて死ぬと簡単に公言した。
 今回の原稿には、細部に点在する知識には高度なものがあるのだが、全体の構図を説明する文体や、物語進行を述べる意欲は冷えて感じられる。ゆえに内部で何が起こり、何を求めて主人公が行動しているのかがこちらによく伝わってこない。しかし、受験勝者ならこうした特殊な本読みになじんでおり、フツーの読書に感じられるのではないかと思い、新本格の再来かと危惧を感じることになった。
 受験熟達者たちにとって、受験のための材料収集読書はこうしたもので、楽しければ低級にも感じられるであろう。楽しむ発想など最初からなく、活字読みとは生きるか死ぬかの生存競争であり、情報網羅提示のためのぎくしゃく文にこそ情熱をもって侵入できる者が勝者となる。ここから多くの情報をピックし、記憶しなくては豊かな後半生は拓けない、と彼らは教師たちに叩きこまれ、全霊から信じていた。
 新本格作風は、こうした時代の歪みが作った現象と感じられ、ゆえに文章に温かみや包容力を持たせることの必要性が、彼らには心から解らなかったろう。また低級化強制にも思えことだろう。文章世界とは本来砂漠であり、脅迫に満ちた暗闇であった。幼稚園時代から、そういう文章読みに馴染んだ者たちにとって、全体の構造とか、進行などはどうでもよい、読書とは、そんな興味は押し殺し、退屈を超越し、細部に散った情報に優先度の順位をつけながら、上から順に記憶する出題文であった。
 これだと大学を出て研究者の道に入ったり、作家になったりすれば、複雑な社会事象は一からのとらえ直しになるだろうし、独自の論構築はむずかしかろうと思ったものだった。暗記したデータなど、役には立つ局面はほとんどないし、都度本を見ればすむことだ。こういう競争を生き抜いた新人が「本格ミステリー」を書けば、血の通わぬ教科書文にも似たこのような文章作が生まれないかと疑ってしまったのだが、こうした作例が氾濫する未来予測が、杞憂に終わることを願っている。

第14回 選考過程・選評応募総数76

第一次選考通過[27]| 最終選考[4]| 受賞作[1]

受賞作

ヘパイストスの侍女白木健嗣

梗概

 あかつき自動車の自動運転車「WAVE」が試験中に事故を起こし,ドライバーの男が死亡した。そして,あかつき自動車にはサイバー攻撃で自動運転車を事故させたという脅迫文が届く。
 サイバー犯罪対策課の斎藤は,一課の女刑事である前之園とともに,人工知能マリス(Managed Automatic Research & Inference System)を使った世界初の捜査に乗り出した。一方あかつき自動車では社員が自殺し……。

選評島田荘司

 自動車業界を舞台にした企業ミステリーは、これまでにも数多く読んで来たし、そのヴァリエーションも頭に残ってしまっているかのような印象を持っていたのだが、この作品の、格別IT方向の理解と知識には感心したし、それらによって作に厚みが作られていて、とても面白く読み、賞選考の読書であることを読了まで忘れることができた。賞選考の仕事に携わって長いから、それこそが無常の報酬であると知っている。目的から目をそらすことなく、熱を持って意志が持続する文章の力も大きい。
 企業内の人間模様、門倉のような絵に描いたようなパワハラ上司の愚劣や、一ノ瀬のような類型的プロセスによる落ちこぼれ、旧態依然の男性社会の内部で、やるせない憤りに身を揉む前之園のような女性刑事の配置まで、登場人物の構図はいささか古典的であり、手垢がついている。このあたりの凡庸さは、作者が手を抜いたものかもしれないが、それさえも読み終わるまでさして気にならず、全体として新鮮にさえ感じられたのは、この書き手の自動車産業における先進技能の知識とか、用語の新しさ、運用の確かさなどとの対比がもたらした効能であるやもしれず、最新科学の能力に感動するためには、人間関係にはさほどの新しさがない方がむしろ気が散らず、よいのかもしれないと気づきもした。
 自動運転を可能とする科学技術世界の細部が、すべて今日の達成の現実描写であるなら、これ自体に情報としての価値があるし、加えて未来予知としての「マリス」に見るようなスーパーコンピューターの近未来の姿、これに女性としての人格を持たせたことや、そこに現れた女性的発言の知的な魅力には、大きな可能性と時代の意志を感じて興味を惹かれた。
 「心」の局在という言葉を聞くようになって久しいし、医学のフィールドに心臓や脳の詳細な解剖所見が増すにおよんで、多くの知識人や敬虔な宗教家が人間だけにあると予想した「心」の容器が見当たらなかったことの驚き等を思い出し、個人的には興味深かった。しかし脳を持たない植物が、生存のための数々の戦略を考案し、生き延びて来たことも思えば、膨大な部品によって肥大した巨大精密機械が、人間との会話の中で、次第にメカニズムに「心」を生じさせることはリアルな幻想と感じる。そうした哲学的な命題にまで言及する当作品は、エンターテインメントとしての優れた達成とも言えるし、しかつめらしい大芸術や、宗教が諭す倫理的考察よりも、エンターテインメントの軽快さをもってしなくては、そのような方面への言及は、でき得ないことかもとも考えさせられる。
 全体として、このような大きな感心を抱かせた当作品であるが、大きな問題点もまた感じた。それはまずはこの物語の中心核をなす殺人計画の顛末であるが、この作においては憎むべき男が無事に死んでくれたが、それはこの場合たまたま粗忽なドライヴァーが、大幅速度違反して操る大型トラックが、後方を接近追尾してくれていた幸運によるもので、もしもこういう状況がなければ、自動運転の試作車には急制動がかかるだけだから、馬鹿上司は、後席で前のめりになってどこかで額を打ち、大きなタンコブを作るくらいで無事会社に戻って来かねない。そうなった際のこのゴリラの言動は、筆舌に尽くしがたい大暴れとなって、計画者は一ノ瀬以上に凋落し、会社をはじき出され、門倉を十回殺しても飽き足らない怨念になりかねない。
 やはり客観的に見て、この殺人計画はあまりに不充分なもので、ターゲットが死なない確率の方が遥かに高いように思う。後方に車が皆無のケースも考え得るし、いてもそれが計四輪とか、単独運転手の小型ファミリーカーである可能性もある。さらにはそれが充分な車間距離を取り、制限速度を遵守していれば追突しないかもしれないし、しても衝撃は軽微である可能性がある。これは大型トラックも同様で、これが法定速度を守って、車間距離を通常以上に開けていれば、門倉はムチ打ちくらいですんでいる。世の害悪を確実に取り除こうとするならば、もう少し計画を進め、細部を深めて、彼の死をより確実なものにすべく手当した方がよいのではと考えさせられた。
 作者は途中からこのことに気づき、個人的報復からこの馬鹿者を消すのではなく、計画は会社への報復なのである、と話を変えたように読めてしまうのが、個人的にはいささか食い足りない印象になった。大筋としてはその言い分も分かるが、弱い計画への単なる言い訳で、一定の地位に昇った計画者が、それほどにあかつき自動車に怨念を抱く人物とは読めない。先の落ちこぼれ、一ノ瀬がたびたび口にしたように、あれこれあっても自分は自動車という科学を愛していたし、会社には相応の感謝の念も抱いている、むしろ恩に報いたい、というあたりの台詞が、この善良な人物には適当のように思われて、先の説明がもしも作者の軌道修正であるなら、ますますピントがはずれて行く手当のような感想を抱いた。
 しかしこの傷は、ストーリーの背骨に属するものであるから、ゲラで簡単に修正できるものでもない。計画は不出来のものであったが、たまたま大きな幸運に助けられた物語として読む意外にはない。そうならむしろ、計画者は門倉を殺すつもりはなく、つまりこれは殺害計画ではなく、たんこぶ程度の罰になるように計画し、自身は罪を免れ得るように完璧に手当て、段取りを構築して待ったのだが、たまたま後方に大幅速度違反の大型トラックが追尾していたため、意外にも門倉は死んでしまった、といったあたりに話を変える方がよいかもしれない。
 さらにもうひとつ気になったのは着地部分で、スーパーコンピューター「マリス」が、古今和歌集の詠み人知らずの歌を、たまたまライヴァル的関係となった若い女性刑事、前之園に読ませる趣向は、大層気が利いていて気に入ったし、感動もした。ところがこの部分の作者の、マリスの思惑への洞察が自分と大きく異なったので、非常に意外であった。この歌をマリスは、男性刑事の斉藤でなく、女性である前之園に突きつけた。そういう状況なら、自分にはマリスの気持ちこそがよく解り、作が示すところの無難ではあるが、思索が足りない理系オトコの間抜けな解釈に、そういう考え方もあるのかと、ある種愕然とした。
 これは生身の体を持ち、機械である私を見下して今は優越感にひたっているあなただけれど、今のように肌の張った時期はごく短い、じきに目の下に袋ができ、顎の下に脂肪がぶらさがって笑顔が消え、強がり男性たちによる内心の羨望や嫉妬視線もなくなり、あなたの方は笑顔も消えて、一日中ぷりぷり怒っている中年女の毎日になるわよ。でも私は、その時もこのままの外観で変化してはいない、と主張しているのであって、前之園が、この女性的な意図に気づかないはずはない。
 鳥のさえずる春は年ごとに新しくなるが、自分の方は古くなっていく、という歌を聞いて、即刻自分の美容を考えない女がこの世にいるとは思われない。マリスの思惑を瞬時に見抜いて、前之園はコンチクショウと一度は思ったはずで、しかし時間をかけて気分を乗り越え、作にあるような、冷静なおとなの結論に到達したということなのであろうと推測する。あらかじめ空中にあった物語は完全なのだが、創作の女神の意図に作者が気づかないということはよくある。

最終選考作品

シシノケたちの電脳集落夏藤涼太

梗概

 人生において友人も学校も無駄だと判断した賢治は、ネットを用いて独学に励む「能動的不登校」の17歳。賢治は勉強の気晴らしに、ライブ配信サイトで顔を隠した少女「きっど」の配信を視聴する。きっどは純粋すぎる性格とかわいい声から、ネットで人気を集めている女子高生だ。
   きっどは「呪われてしまったかもしれない」と視聴者に悩みを相談する。石川県の山間集落Wに住む祖母が入院したため、きっど一家は同集落にある大伯母の家に泊まっていた。だがきっどとその弟は、祖母への差し入れ用の山菜(ノビル)を採ろうと入山を禁じられた山に登ってしまい、謎の廃神社や、大量の死体が積まれた地下空洞、そして「シシノケ」と呼ばれる芋虫のような怨霊に遭遇する。
   きっどはシシノケからなんとか逃れたものの、その後、怪現象が続発。さらに入院していた祖母も死亡する。大伯母に相談すると、それらは「シシノケの祟り」であり、誰にも話してはならないと言われた。
   だがきっどは恐怖から教えを破ってシシノケについてネットで話してしまい、その結果、肺が破れるという「祟り」が起こってしまう。
   賢治はネットを用いた捜査と推理で、きっどの身に起きた怪現象を科学的に解明する。さらにシシノケとは「獣除け」のことで、山間集落において、貴重な畑を荒らす天敵である野獣を除ける神であり、その正体は「ヒルコ」だとあばく。ヒルコは日本神話において日本国土を象徴する最初の神だったが、手足のない障害児だったために神の座を排斥された。これは大陸から移動してきた渡来人(稲作農耕民)によって同化・排斥された先住日本人(狩猟採集民)の信仰する神。集落Wは先住日本人の末裔によって拓かれた村で、被差別民の集落だった。すなわちシシノケは集落Wにおける先祖神=守護神であり、けっして祟りをなすような怨霊ではなかったのだ。
   きっどには「呪われた」という思い込みとストレスで、「気胸」という肺に穴が空く疾病が起こっていた。だが賢治がシシノケの正体をあばいて無意識下の不安を取り除いたことで、快方に向かう。
 賢治は配信の視聴者から「電脳探偵」と褒められる。それは初めて覚えた充足感であり、ずっと求めていたものだった。無駄だと言い訳をしていただけで、本当は周りから排斥されることを恐れて賢治は不登校になった。だがネットには社会から排斥された者達が多くいる……自分の居場所はネットにあると確信する賢治。
   だが全てが解決したかに見えた矢先、きっどの弟が突如行方不明に。さらにきっどが「特定」され、個人情報やその「醜い顔面」が開示されてしまう。
  視聴者はきっどを罵り、一部は顔を隠したブスに踊らされていたファンをバカにした。賢治はネット住民同士が排斥し合う光景にショックを受けたが、そこから着想を得て、排斥された者同士が寄り集まった集落でも同様の排斥現象が起きたのではないかと推理。シシノケの本当の正体は「被差別民に差別されていた不具者」だと気づく。シシノケは「獣除け」ではなく「四肢無怪」であり、集落Wでは、ヒルコへの人身御供という名目で不具者を大量に間引いていたのだ。きっどが山中で遭遇した大量の死体こそ間引きの痕跡だった。
   さらに賢治は、今までの怪現象は全て集落の秘密を守ろうとする大伯母の犯行であり、きっどに「祟り」が起こるよう、精神的に追い込んでいた配信視聴者の1人だと特定。大伯母は口止めのために、ノビルに似たスイセンを用いて祖母を毒殺し、きっどの弟を誘拐したのだった。だが賢治は「特定」によって開示されていたきっどの個人情報を利用して、遠隔で弟を救出することに成功する。
   ネットもなく、自由な移動もできなかった時代に集落から排斥された大伯母は、集落の暗部を担うことで唯一の存在価値を見出し、自身のレーゾンデートルを保っていた。山中にあった大量の死体には大昔に間引かれた不具者だけでなく、大叔母が殺してきた遺体も含まれていた。しかし大伯母は、自身が殺してきた者達の祟りによって突然死を遂げてしまう。
   今まで賢治は、大叔母によってシシノケという怨霊の知識を植え付けられていたために、きっどの無意識がシシノケという想像上の怪異を見てしまったのだと解釈していた。だが事件の全貌が明らかになった結果、きっどがシシノケの名前や姿を知ったのはシシノケに出遭った後だと判明。つまり、きっどは「シシノケを知らないのに伝承通りのシシノケに遭遇した」ということになる。知らないのだから、錯覚や思い込みでは説明できない。
   賢治は「形態形成場理論」や「恐怖の条件付け」などの最新の研究結果を引用し、「実在しないはずの怪異に祟られる可能性がある」という独自の研究を発表する。それは科学主義者の現代人にとって、もっとも恐ろしいロジックだった。幽霊の正体は枯れ尾花ではないと、科学的に証明されてしまったのだから。

選評島田荘司

 NETのライヴ配信サイトで自身の音楽や、メッセージを発している「きっど」と名乗る、いつもお面をつけた女性の霊的な恐怖体験談を聞いて、おなじく彼女の純粋そうな言動と音楽に惹かれて集まっているNET民たちと話し合って、キッドをまじえてNET上で集まり、この体験が意味するところについて、考察しようという相談になる。彼女の体験が現実か、幻想なのか、から端を発したが、会話を重ねるうちに、メンバーの考察が、日本社会における衆目から隠されている知られざる暗部、地方に残る特殊な慣習や、これがあるらしい地域についての学習、さらにはそこで行われる、外貌が一般日本人と異なる人たちへの強烈な差別慣習について知るようになる。
 オフラインの集まりは、これらの暴力によって人里を追われ、人目をはるかに離れた草深い山中の、交通手段も電気も水道も、スーパーマーケットも、病院も、学校もない劣悪な環境で人知れず生涯を送った、外貌が一般と違う集団の歴史についての、「学習会」の様相を帯びはじめた。彼らへの差別は、傲慢ゆえの見下しではなく、怪物とか幽霊に対すると同等の強い恐怖心に根ざしていて、これは弱い大衆たちにとっては、彼らなりの素朴な信仰や、自己卑下の謙虚さとも通底し、したがって反省や、改善の対象となることはなかった。そのような発想は、対等な人間関係からしか生じない。極限的に無力な大衆からは、それは発想のらち外にあった。
 日本には古代からこうした、生涯ただの一度も都はむろん、集落の人前に出ることもない特殊な外貌の人間の暮らしがあり、彼らは日本人であって日本人でなく、それどころか生物的に別種の、動物のような暮らしを国の暗部で続ける以外、許されなかったのではないかという、日本社会の重大な事実や、罪に気づいていく。
 こうした「学習会もの」とでも呼べそうな文芸ジャンルが、この国には昔からあって、自分も中学、高校時代からいくつか読んだ記憶があり、懐かしい感覚が呼び起されて、なかなか楽しく読んだ。しかし当候補作品は、時代の経過によって会の内容が一新されているところが興味深かった。そしてこの「一新」の内部に、この小説の背骨となる重大なテーマをうまく絡ませているところに、この小説の優れた点があり、感心した。
 自分がかつてなじんだ記憶があるこの種の小説群は、メンバー誰かの広い家か、学校か、公民館のような公共施設に定期的に集まり、大テーブルにつき、探求の要が生じたテーマについて語り合う。しかし若い各自が持つ情報には限りがあるから、メンバーおのおが専門家に取材したり、専門書を読んだりして、後日成果を持ち寄ろうということになる。そして持ち寄った情報を、会合のたびにテーブルに乗せ、みなで協議し、結論を求めて知恵を絞る。メンバーは男の子たちだが、中に一人女の子がいて、彼女は必ず外貌が可愛い設定になっていた。ゆえにメンバーはみな彼女に好意を抱いており、これが会が続く理由にもなっており、一方読者の方もまた、読書を続ける魅力となっていた。
 孤独な読書による勉学でなく、気のあった仲間大勢が会話しながらの学習の方が楽しいし、読者の側としても、その方が頭に入りやすい。つまり面白くてためになる読み物、という主張がこの文芸ジャンルにはあった。
 この作の採っている方法も質的にはこれと同じで、前段のいささか起伏の乏しい展開は、こうしたジャンルの流れを引くがゆえと、読み手には理解してもらうのがいいだろう。だが二十一世紀の今日においては、会の仕組みやメンバーの様相がまったく異なっていて、メンバーがみなPCを所有しているから、場所を確保して実際に顔を合わせなくとも、オンラインでの手軽なミーティングが可能になる。親の苦情などを気にせず、深夜でもかまわず集まれるし、加えて検索という強力な武器があるから、実際に足を使って専門家に会ったり、図書館に行って参考書を読んだり、教師の話を聞いたりの必要はない。グーグル検索で瞬時にその何倍もの情報が手に入り、メンバー全員がこれを共用できる。必要なら海外に取材に飛ぶこともできる。かつてよりもこのジャンルが書きやすくなった。
 そして例によってみなが強い好意を抱いているメンバー内の紅一点、「きっど」が、この便利で近代的な方法によって生じたある要素、メンバーが実際に互いの顔を見ることがないという利便性の効能で、ある重大な秘密を隠していた。彼女がいつもつけているお面の下の顔が、実は一般と異なっていて、すなわち世間的な美的基準に照らせば醜女であったことが判明し、会合の様相は一変する。団結心も探究心も瞬時に消滅し、不可解な、ゆえない怒りが発動し、炸裂する。ここには学習会ものの暗黙の了解としての、メンバーの定番構造に違反している、という珍妙な倫理上の不満も関わっているように、個人的には読めた。会には「きっどファンの集い」という側面もあったわけだから、これは理の当然でもあったのかもしれない。
 しかしこの事件によって事態が先鋭化し、問題考察がかえって確信を探り当てる結果になる。日本のNET社会にこれは特有の、強い匿名志向、これを盾にした異形の外貌人に対する苛烈な攻撃の用語群、これらがあまりに流暢で完成的であり、しかも見下し態度は、信仰心にも似た確信が宿り、道徳的な点検心がかけらも現れることがない。ゆえに差別と軽蔑は安全なエンターテインメントとして確立し、嘲笑態度はひ弱な者ゆえの虚勢で著しく、そして罪の意識がかけらもないことに、私自身、長く疑問を感じてきた。この種の他者侮蔑と嘲笑は、病んだユーモアとして磨かれ続け、対象者を傷つける武器としての鋭利さを、果てしなく増していく。
 これが中高校に蔓延する虐め慣習の多発や、無反省態度につながっているし、女生徒グループならばこれが多少は遠慮されるかというと、そういう気配はなく、むしろ女生徒の方に差別や虐めが多いというような報告も言われて、そうならここには、彼女たちなりの道徳心の行使も加わっていると思われて、わが社会のこの異様には、何らかの民族的病の因子が潜んでいるのでは、と長く疑ってきた。
 いわく、ブス、キモイ、顔グロすぎ、この顔であのぶりっ子はキモイ、キモイオタクどものアイドル、モテないってこわっ! などなど、同病者には心からの楽しさと笑いを誘う、定型の病的用法の群れ。
 作者はそのように宣言してはいないし、当作がこれを指摘、糾弾するための創作だとは認識されていず、誇る気配もないが、作者は日本民族の根深い病理に対して、当物語によって貴重な回答の視線を持ち込んで来たように思われて、個人的にはこの点に最も気持ちを動かされた。また作に降臨した価値を目撃する心地がした。
 奇形児ヒルコは古事記にその姿が見える。この逸話の風景にどのような警句を読むかは読者の自由であるし、古事記はキリスト教の旧約、新約の書とは違って聖書ではないし、読者を信者とも考えていない。そこに倫理的な教唆などはないと受け取るのが一般的だが、古代から日本列島の民のうちに、多くの奇形児が生まれてきたことは間違いがない。それが極めて繊細なわが民の、強い恐怖心の対象となってきたことも、想像にかたくない。無力な大衆は、自らを正当化する宗教的なストーリーも作ったろう。
 今日とは違って美容整形もない時代だから、こうした異形の子は、無力な大衆から力の限りの差別と攻撃を受け、人里の一般的人間関係から追い払われたのではないか。そして獣も通わぬ草深い僻地の、山奥のどこかで、ひっそりと生き延びる以外に道がなかったのではないか。動物に貶められた彼らが、生存のため、集合して援助し合うこともあったろうし、里の一般人からの理不尽な攻撃を避けるため、自らを魔物に装うことも、あったと思われる。
 日本には古くから山の民の移動経路が確立し、生存のための情報が体系化していた。縄文型狩猟採取の生存形態を採った彼らは、一歩も人里におりずに日本列島を縦断する道を持っており、それらはごく幅狭い踏み分け道だが、沿道のどこに雨風をしのいで眠れる場所があり、どの季節、どこに、どのような食可能な木の実が落ち、口に入れられる草や花があり、どの川に鮭や鱒が上がってきて、どこの野に補足しやすい小型動物がいる、といった情報がことこまかに伝えられていたと言われる。
 しかし列島でただ一か所地上におりなくてはならない場所があって、それが琵琶湖だった。山の民はここで里におり、大道芸や、売春を行ったとされる。こうした民に、被差別の一族が合流することも、時にはあったかもしれない。
 北陸には、生まれた娘が盲目であれば、子供のうちからごぜの集団に渡してしまい、三味線や歌の芸を仕込んでもらい、彼女らは生涯音曲を生業にして、遊興の座敷で歌う旅に生きることになる。以降もう二度と、別れた娘に会わなかった親も多い。これは「姥捨て」ならぬ「子捨て」で、そういう習慣も、ごく普通に日本にはあった。
 貧しい時代、口に入れるものに苦労した家庭には、盲目の娘をごぜの集団に手渡してしまう判断はごく一般的で、決して特殊ではなかった。盲目に産まれた女には、それ以外に生きる生活手段がないと、往事の無力な大衆には信じられていた。
 同じ北陸地域には、認知症が進んだ老いた親を、食い扶持を減らすため、山奥の洞窟に捨て置いて死を待たせる、いわゆる「姥捨て」の習慣も、ごく最近まで残っていた。奇形の子への激しい差別ゆえに、わが子を山に捨てた親たちも、これら慣習と共通する、わが民ゆえの、当時としてはやむにやまれぬ生存の発想と考えられる。
 韓国の仏教徒の信仰習慣には、奇形の者は前世で重罪を犯した罪としてあのような姿に生まれついているのだから、差別に罪を感じる必要はないという信念を、これは実際に聞いた経験がある。こういう人たちには、異形の者への差別や罵りには反省が宿ることは期待できない。隣国日本人大衆のうちにも、自らの無力感や自己卑下、謙遜意識ゆえに、確立された許されるべき慣習として、時には道徳そのものとして、差別が容認されていたことは、歴史のあちらこちらからうかがえる。
 わがNETのにちゃんねる、ごちゃんねるにごく普通に見る、心楽しい、血も凍る人格否定嘲笑の安定感は、こうしたわが慣習群の残滓、あるいはそのものであるに相違なく、エンターテインメントに載せてこれを伝えたこの小説の功績は、評価すべきと感じる。どこまで日本人を向上させんと意識したかは不明だが、期せずしてわが民の恥ずべき病巣を探り当てて見せたことには、強い興味と価値を感じる。
 以上、おそらくこの作者の意図とは違う読み方をしたと思うが、作者の意識の深層から、別の価値を引き出した。虐め蔓延と、NET支配の時代ゆえに、広く読者に読まれてよいと感じた。

最終選考作品

花束の解読蒼木窓也

梗概

 ある年の冬。 大学生の織水ひかるは、友人の古崎智也に暗号解読を手伝ってほしいと頼んだ。それは六年前に亡くなった彼女の祖父、光一郎がつくったもので、彼は熱烈な暗号マニアだった。
 ひかるの従弟、剛志の親が経営する旅館 (朧明館)に赴いた古崎は、ひかるたちと暗号解読に取り組む。すこしずつではあるが、解説は進んでゆく。
 そんな中、剛志の父親 (斗寸)が密室の書斎内で殺されているのが発見される。 致命傷は首の切り傷だったが、腹部にも刺し傷があった。事件を捜査する刈田警部は密室の謎に頭を絞るが、決定的な仮説を立てることはできない。
 一方、 ひかるは自分の犯した罪の重さに深く憂えていた。 斗寸を短刀で刺したのは、彼女だった。
 元旦の朝、朧明館で再び遺体が発見される。 剛志の母親 (鈴菜)が、 物置部屋で斃れていたのだ。彼女の背中には包丁が突き刺さっており、指先には「ツヨシ」という血文字が残されていた。しかし犯行時刻、 剛志にはアリバイがあった。
 捜査を進めてゆく中で、 刈田は六年前に朧明館で起こった自殺事件について知る。そのとき服毒死を遂げたのは斗寸の兄の寧人だったが、その死には疑わしい点があった。さらに彼の父親の光一郎は、その事件の九日後に転落死を遂げていた。
 その後、何人かのアリバイを崩すことに成功した刈田だったが、犯人を絞り切ることができず、捜査に行き詰まり、友人の逆井警部に助けを求める。
 一方で暗号解読は一歩ずつ進んでゆき、最後の暗号を解いた先には、光一郎からの手紙と贈り物が待っていた。それは彼が生前大切に使っていた、万年筆だった。
 その夜、ひかるは祖父からの手紙にもうひとつ暗号が隠されていることに気づく。それを解いた先には新たな手紙があり、そこには光一郎の秘密が告白されていた。彼は息子を誤って毒殺してしまい、そのために自らの命を絶ったのであった。手紙を読み、当時の祖父と現在の自分を重ねたひかるは、自分の罪を知ってほしいという思いに駆られ、その役目を唯一まかせることのできる古崎に、殺人事件の捜査を依頼する。
 殺人事件について調べはじめた古崎は、その過程で逆井警部と知り合う。なぜか捜査情報を教えてくれる警部を不思議に思いつつ、彼は自分なりの結論に辿りつく。
 古崎はひかるにその結論を伝える。二人を殺害したのは、彼女であるという推論だった。 ひかるはそれを認める。しかしその後、彼女が斗寸の首の傷について知らなかったことから、ひかるが犯人ではないということに気づいた古崎は、逆井に連絡をとる。やって来た警部は、 自分の推理を披露した。
 斗寸の首を切って死に至らしめたのは鈴菜で、彼女はその後、ひかるに罪を被せるため、 他殺に見せかけて自殺したのだった。

選評島田荘司

 フィールドに、もしも「暗号ミステリー」というジャンルが確立、継続しているのであれば、この分野の優秀な習作となるであろうと、なかなか感心しながら読んだ。作中に順次現れる暗号はよく考えられており、解読説明の際の説得力も一定量あるから完成度も高いと言えそうで、国内の有名賞に投じられても、他候補が低調であれば、受賞してもおかしくない。
 ただし面白かったかと問われると、われを忘れるほどの瞬間はなかったというのが正直なところで、熱のない文章のゆえもあるが、作中時間は淡々と進行し、約束事としての冷静さで複数の暗号が現れ、当然のように殺害死体も出現し、予定通りに捜査員たちが現場に外来して、必要にして充分なだけ気のきいた会話を残していく。驚きが少ないミステリー小説だが、必要なだけの高級なパーツが揃えられた、行儀のよい提出態度で、教師によって暗号ミステリー作品の提出が要求されての模範答案のごとき体裁を感じた。
 かつて新本格がスタートした当時、殺人事件は怪しげな住人たちが集合する館の中でばかり起こり、森や草原は殺人現場たるの資格を失ったように見えた時代があったが、あの時代の館のように、死体のかたわらには必ず暗号が必要と要求される小説群があるならば、暗号が登場しなければ作例とならないから、当作のように暗号は淡々と現れ、解かれるのであろう。それはハーレクイン小説における、胸板の厚い、若くハンサムなお金持ちのようなもので、登場しなくては作例とならないから、出現に驚きの必要はない。誰よりも書き手が驚いていない。暗号の登場を待機している暗号マニアへ向けた創作ならば、これで問題はない。
 しかしこちらは、暗号に特化した期待感を持たずに作群に接したので、暗号の出現に興奮を感じなかったのみならず、先行定型への問答無用の依存、これに自信満々の様子、さらに言えば、この自信のやってくる場所のずれ方に、違和感を抱いたということに思われる。館も暗号も、本来は事件の性質が要求するから現れるのであって、そういう小説ジャンルが存在するから現れるのではない。犯罪行為ののちに現れるべきミステリーには無限の選択肢があり、たまたま暗号になったり、舞台装置たる建物の謎になったりする、ということが本来である。しかし日本には、好みの謎のパターンから逆行して事件を決めたがる書き手、読み手が多い。そうしたことを考えてしまうと、展開ヘの肯定的な同感と追随がむずかしかった。またそうなら、館パターンの謎の方が、暗号パターンの謎よりも日本ではジャンル確立感が強く、存在感があって、著名作例が多いということも、あるいは感想に関係したかもしれない。
 英国のあの美しい家々の壁に踊る人形の絵が現れた風景とか、冒険を求めて体がうずく男たちの前に黄金虫の暗号が現れた際には、非常に好ましい興奮と、ミステリー以前に、文学作品らしい未知の冒険招聘へのわくわく感があった。それは暗号という奇異なものが発散する知的興味を選択した文学者の計算の的中があったわけだが、それゆえに、続く暗号への推理、解読の理屈や、現れたメッセージへの興奮にも、諾々と共感し、没入ができた。むろん当時の読者にとって暗号との出会いが未体験であった、つまり暗号がその当時目新しい謎であったゆえもある。パターンからの要請ではなく、わくわく感の要請によって暗号が現れていた。
 新人のうちは、どうしても先行パターンの模倣や迎合によって物語を作りやすい。格別日本人にこの傾向が強いのは、これを行儀と誤解するからで、ミステリー小説の場合、他の文学よりもこれが許容される割合が高いから、日本人に好まれた可能性がある。しかしこれは道徳の感性であって、突き詰めれば政治発想だから、先行例への迎合が創作論として正しいとは言いたくない。ポー、ドイル自身には、こういった発想はかけらもなかった。館こそが至上のミステリー舞台であると妄信した書き手が、同じ判断を持つ読み手に向けて、「館もの殺人パズル」を提供してブームを創った平成初期、「館本格」作品群は、世界にも例がない、全員二十代という書き手によって支えられていて、受験教科の問題集にも似た定型性が必然で、疑いの提出など許されるべきでない、という切実な生存競争の名残りが存在した。
 今また暗号の書き手に、同様に真剣な暗号作成という答案作成態度が見られた。暗号や殺人の出現に、これはそういう入試なのだからと、驚きや知的興奮に言葉を費やす必要を感じない様子ありありの作例が、若い書き手によって提出されて、苦い記憶が喚起される。館ものがブームのおり、機械的に館ばかりを描く判断は慎重に、とでも言おうものなら、受験科目の英語の存在に苦情を言われたごとき、許されざる非常識、刺し違えて殺すぞ! の激高を返された体験を思い出して、警察官以外の一般人物にとって死体や暗号は、ミステリーとの新鮮な衝突であることを語るのが小説のリアルというものでは、の意見提出に、再び躊躇を感じる気分が甦った。暗号に日常的に接している特殊な人たちなので驚かないということなら、そういう説明がなくてはならない。
 海外に出ることが多くなり、わが受験英語の厳しさが、高学歴日本人から英会話能力を奪っている事実を知るに及んで、あの受験戦争の厳しさはいったい何であったのか、事実学問であったのか、をたびたび考えるようになった。何か別の基準と意図を持ち、学問の体裁を寸借した特殊な人選であったのか、ではどのような人間が選び出されたか。日本人総体にあの試練は何をもたらしたか、真に国益に貢献したか、ついでに創作の現場はどのような被害を受けたかを、真剣に考えざるを得なくなった。
 日本型行儀強制の罪深さ、周囲に合わせるばかりの没個性育成と、匿名攻撃の嘲笑力ばかりが生き生きと磨かれた底意地の悪さ、倫理観の消滅、日本型ミステリーに独自の強固な定型信奉、機械にも似た無感動作風の露見と、その改善のむずかしさ、一方海外の才の見せる発想の柔軟さに、危機感を抱くようになっているこの頃である。
 当作中の登場人物の紹介法も割合型破りで、紹介直後に現れる発言の主に関する説明が少ないから、性別が解らない。台詞にも女性用法を避ける気配があるから、また殺人課の刑事であるから、会話を聞いたのちも男性かと思っていたら、女性だったりする。
 こうした様子は個性であり、格別問題というほどのものではないが、暗号はどれほど難解であっても歓迎だが、その周辺はすべて、疑問少なくすっきりしていて欲しい気分は感じた。
 日本のミステリー史は、黎明期は乱歩流の煽情性に無判断に盲従し、文芸畑から軽蔑されると、今度は社会派一辺倒に染まって本格派や名探偵を憤りとともに退け、続いて受験学生の新本格が登場の時代になれば、館もの以外を不純作例なりと怒りの説教を言い出し、二十一世紀本格と言えば、既製品PCゲームとの接近が繰り返される。まことに発想が限られ、定型的流行への忠誠行儀の保身、あるいは生存のための多数派捜索ばかりに神経が行き、小説書きはその次というふうの日本型判断が飽くことなく現れて、アジアの若者の先進発想に遅れはじめている。
 さらに一点付け加えれば、暗号というものの意味合いの時代的変化から、ジャンル成立願望への疑問を感じた。現在、暗号はITフィールドの各分野を支え、絶対に解けてはならない暗号が数多く出現している。スーパーコンピューターの時代に入り、別候補作『ヘパイストスの侍女』に見るような、文字列総当たりの模索も、ごく短時間で可能になった。逆に言えば、スーパーコンピューターをもってしても解けない暗号は作り得る時代になったということで、もはや暗号は、優れた感性の人間が、単独で、天才的ひらめきを頼りに挑むような対象ではなくなり、その種のスリルは色あせた。ミステリーに暗号趣味が遺るのはかまわないし、好ましいが、ポー、ドイルの時代の斬新性、先進性を失ったことも事実であろう。作品化するなら、IT時代の今日に合わせる何らかの手当も必要かと感じさせた。
 いずれにしてもそういう種々の問題点に気づかせてくれる、個人的には有意義な作例であった。

最終選考作品

夢魔の迷宮南野海

梗概

 都内高校生の霧華は目覚めると棺の中にいた。見知らぬ館にはぜんぶで八つの棺が置かれ、自分以外の棺には、クラスメイトの玻璃の他見知らぬ人間がいた。やはり女子高生の国友、ニート女の黒川、鳶職の男、榊原、男子高校生の幽目宮。ひとつは空の棺で、最後の棺には胸に杭を打ち込まれた、まるで吸血鬼のような死体が横たわっていた。
 話を聞くと全員なぜここにいるかわからない。どうやら誘拐されてきたらしい。それも 極めて困難な状況で。さらにここは無人島に唯一建てられた館で、このメンバー以外ここ には誰もいないらしいことがわかる。つまり犯人はこの中にいるのか? 霧華たちは二階のラウンジにまとまって寝ることにした。それに賛同しなかった黒川と玻璃を除いて。
 だがこれは夢だった。 霧華は学校に行くと、玻璃もまったく同じ夢を見ていたことを知 る。こんな偶然あるだろうか? そう思いつつ、教室に行くと、そこには棺に入った杭で胸を打ち抜かれた吸血鬼のような男の死体があった。困惑する霧華たちの前に、夢の中の住人のはずの幽目宮が現れる。彼に引き合わされた警視庁の氷川警部補は説明する。これは他人の夢に入り殺したあと、現実の世界でも同じような殺人をする「夢魔」の犯行であると。幽目宮は無意識に夢魔の世界に入り込む探偵、 霧華たちはそれに巻き込まれて夢の中に入ってしまったというのだ。
 ふたたび夢の世界。不審な音や悲鳴をラウンジの奥にある倉庫から聞いた霧華たちは、 倉庫に入ろうとするが内鍵がかかっていた。なんとか扉を打ち破って中に入ると、そこに は透明なガラスの壺に入れられた玻璃の刺殺死体が入っていた。だが、どう考えても壺の口は、玻璃の身体よりも小さい。その口から玻璃が中に入るはずがないのだ。
 内鍵に加え、ドアの外には複数の人間がいたという二重密室。それ以上に不可能なガラ スの壺の中に死体を入れ込むという手口に霧華たちは困惑する。ひとり喜んでいるのは探 偵気取りの幽目宮だけだった。
 朝になるとメンバーは、いやがる黒川を残し、館の外を調べる。この館以外はなにもない孤島で、入り江には船も止まっていなかった。
 館に戻ると、黒川が自室内でバラバラになって殺されていた。しかも、ドアを開けたとき、手足がふわっと浮き、首は転がった。 霧華は気を失う。
 夢から目が覚めると、現実の世界でも玻璃は自宅から消え失せていた。護衛の刑事が見 張っていたのにも関わらずだ。玻璃の刺殺体はその後、学校の文化部備品置き場にある張 りぼての壺の中から発見された。ガラスの壺の代用なのだろう。さらには教会跡で黒川の バラバラ死体が樹から吊り下げられて発見された。
 再び夢の世界。わずかな隙を塗って、国友が殺された。エントランスの大梁からロープで首を吊っていたのだ。踏み台もなにもなかったから自殺は考えづらい。黒川の時もそうだったが、ほんのわずかな時間で、こんな手の込んだ殺しができるのだろうか?
 そんな中、幽目宮が棺の一個が二重底になっていて、そこに秘密の地下室の階段がある ことに気づく。下は地下牢になっていて、謎の人物が閉じ込められていた。その男は天野青空と名乗った。天野は自称正義のジャーナリストにして探偵で、霧華たちから事件のあらましを聞く。その間、外にいていた榊原は入り江で刺殺されていた。だが、砂浜から 死体までは榊原本人の足跡しかなかった。
 現実の世界でも、国友と榊原は殺された。やはり国友は首つり状態。榊原は噴水の水の中で刺殺された。現実の世界にも天野は現れ、事件解決に乗り出す。 そこで出た解決策は、 三人一緒に同じ部屋の中で警察の監視の中、眠るということだった。なにかが起こるのか?なにも起こらず、事件は収束するのか?そんな中、天野は氷川こそが犯人だと明言する。暴走する氷川が天野たちを殺害する中、霧華は真相に気づく。現実の世界と思われていたこの世界こそが霧華の夢で、あの孤島の惨劇こそが現実に起こっている出来事なのだと。
 再び孤島に戻ってきた霧華たち。夢としか思えないが、夢ではない現実の世界。そこで天野の真相解明が始まる。

選評島田荘司

 この国に、かつて新本格というミステリー創作のブームがあり、これを支えた書き手は、世界にも例がない、全員が大学の卒業したての二十代という珍らしい出来ごとがあった。これは、輸入文学ミステリーの、日本に特殊な黎明期の事情が関係しており、この時期の失敗を糊塗するための、ある罪深い無理が祟ったものだった。
 現在の本格ミステリー・ジャンルの性質にも、こうした歴史的な罪が尾を引いていないはずもないのだが、フィールドは、新本格現象のよってきたる理由を考えることもせず、多くの問題点への反省も総括もなく、漫然と現在をすごしている。この点を、多少は考えないといけないのでは、と最近は思うようになった。
 この現象の原点には『斜め屋敷の犯罪』という館もの本格が引き金としてあった。これに触発されて、京都大学ミステリー研から『十角館の殺人』というやはり本格ゲーム小説が現れ、これに刺激された全国の大学ミステリー研から、館もの本格出現が爆発的に続いて、講談社に文芸第三部という受け皿が作られたゆえもあり、みるみるブーミングが形成された。
 ここで見落すべきでないのは、原点の二作、「斜め屋敷」も「十角館」も、ヴァンダイン流儀の館ものの単純な模倣ではなかったという点である。建物を傾けることによって生じるある特質への着目も、登場人物たちに用いられた叙述のトリックという斬新な営為も、ヴァンダインが到底やりそうもない方法で、この時代を拓いた本格トリックのユニークさと価値は、まさにこの点にあったという観察こそがあるべきだった。
 しかし「十角館」の後方に行列した書き手たちは、怪しげな館、その内部に集合した怪しげな住人たち、間もなく起こる密室殺人と、外来する名探偵、読者がすでに心得た情報のみを用いるという厳正なフェアプレー、彼の示す推理の論理性高、指摘される犯人が意外であること、そういったヴァンダイン考案の諸ルールを厳守することばかりを目指し、変更や付加、発展を発想しない原理主義的「館本格」を、行儀よく量産することでブームを創り、原点の二作が「館もの+アルファー」という革新の特徴を持っていたことを、あっさり見落とした。この様子は、まさしく前例を学習しての競争という、わが受験体制の正確な再現であった。
 これを指摘する勇敢な論者もフィールドにはなく、かつての清張呪縛時代の子飼い評論家たちは、「彼らの創作には人間がおらんね」ばかりを行儀よく繰り返すので退場させ、新本格ご用達の評論家集団を招聘すれば、彼らもまた事情を心得、「館もの本格パズルこそは、あやまてる社会派強制の時代を生き抜いて摑んだ至上の黄金である」と語り続けた。清張呪縛下において、乱歩流儀の作家と本格系の作家が併せ追放されたように、新本格全盛期においては社会派と文芸流儀の推理作家が同様に追放されて、単に同じあやまちを機械的に繰り返すだけに終わった。しかしこの点を評論筋はタブー化して今も言及を避け、知らん顔を続けている。
 館ゲームパズルの減速は、清張流儀の終焉よりもすみやかだったから、異端審問官たちの情熱的な館賞賛や、人物記号化文体の強制、清張流人間描写の禁止という珍道徳も、この寿命短縮にあるいはあずかっていた。館ものがフィールドを去ってのちも敬虔な信者や異端審問官は、館の再臨を信じて待ち続け、ついに「屍人荘」が地平に姿を現して、狂喜乱舞とともに彼らがこれを迎えたことは、割合記憶に新しい。
 屍人荘は「館もの+ゾンビ」というユニークな構造を持ち、新本格ブームの原点の秘密を見抜いていた点に、書き手の優れた洞察力があった。ただこの「ゾンビ」という概念は、映像を含め、あまりに多くの強力な先行作例を持っていたため、館本格という神聖な作風の立ち位置を危うくし、営為をホラーSFの領域に連れ去りかねない腕力を持っていたことが、次第に熱狂者たちの戸惑いになったかもしれない。
 さてこうした新本館・近現代史の推移を心得て本作『夢魔の迷宮』に向き合えば、この習作が、『屍人荘の殺人』同様、述べた歴史をよく理解していることが見て取れる。この作の外観が、「孤島に建つ館もの」を踏襲しているのは明らかで、こうした館ものに加えるところの+アルファーとして、この作は「夢魔」、すなわち第三者の夢に侵入できる超能力者を登場させ、饒舌に語らせて、作全体をユニークで斬新な印象にしている。各キャラクターの言動の効果で、全体として、現在人気のアニメ映像の方向に寄った仕上りになっているだろうか。つまりこの作もまた、導入したアルファーが、いささかの既視感と存在感を持ちすぎていたかもしれない。
 こうした特殊な能力、すなわち夢世界と現実を行き来する悪魔的存在がいる以上、夢と現実世界という二重構造の舞台設定が必然となり、両者の視界をうまく書き分けた上に、夢魔と語り合う演劇的な饒舌ステージを設営する必要があった。これがうまくできていれば、前例のないユニークなミステリー世界が現れたはずである。
 さらには残酷な人体モビールというアートとか、口の口径よりも体積の大きい人体が入ったガラス製の大瓶。これは割られた形跡も、貼り合わされた跡もないなど、登場するさまざまに魅力的なミステリーのエレメントも評価すべきであろう。しかもこの人体入りのガラス瓶は、これが置かれた世界が夢であることを示す重大な理由としても機能する。
 個人的体験を言うと、他人の夢に入り込める能力を持つ者が登場するミステリーを読むのは二度目ではあるのだが、こうした特殊なキャラクターや事物が散在する世界を俯瞰すれば、なかなかに絢爛たる印象であり、これら諸要素への着想の点だけでも書き手のユニークな才を感じて、一線級のミステリーとしての条件をそなえた挑戦作と評価すべきであろう。さらにはこの二重構造が、終盤にいたって表裏が反転するどんでん返しももくろまれていて、物語装置として、大きな驚きも内包している。
 ところが一読後、あるいは読書の中段からすでに、ミステリーの描写に関して、重大な何ものかが不足している気配を感じはじめて、こちらの意識から、作中世界が徐々に遠のいて行く感覚が起った。それは作がこちらに懸命に見せようとしている作りものの視界が、徐々に小さくなり、遠ざかっていくような体験であった。
 この作品世界は、鷗外や三島、谷崎のような文芸を好む読み手には失笑、冷笑の対象であろうから、この超常識ぶりは好ましく思うし、アニメ・フィールを借用したふうの現実的でないギャル的な警部の立ち居振る舞いとか、登場人物たちの言動も、好みではないものの、合目的であることはよく理解ができる。しかしこうした超常識的な異世界を描かんと計画するならば、綿密な計算と、よく計画された文章の技量が必要ではないかと思う。
 リアリティ判定などは糞くらえであるが、ビリーヴァブルさは重要であり、これを信奉すると、あちこちの賞選考で語ってきている。眼前にUFOが着陸して宇宙人が路上に飛び出し、光線銃を撃ってきたとする。これをリアリティがないと嘲笑して否定するような論評は論外で、気にかける必要はないが、こういうことがもし事実眼前に起これば、視野に何が見え、どのような空気感の異変が起り、どういった恐怖や迫力がこちらに押し寄せて圧迫するかを、読み手にリアルに感じさせなくては小説たるの意味がない。作者が考え抜いた、展開上必須の事件であるならば、それがどんなに突飛で馬鹿げていようとも、リアリティを持ち出して切り捨てを発想するのではなく、そのあり得ない出来ごとを、読み手たるこちらに信じさせる力量が書き手にあったか否かを、選者は判定するのが務めとなる。
 異生物の外貌はどうで、どういう肌や体型をしており、醸す威圧はどのような種類のものか、光線銃はどのような音をたて、対象をどのように破壊するかは、どうせ噓世界のことだから描かなくても、などと言い出せば、それはごまかしで、教条主義選者と同じ位置に転落する。かといって微に入り細に渡ってそればかりを描写しすぎれば、ものがミステリーならバランスを崩して文の流れを乱す。文章作成上の気配りの質やその量は、冒頭から着地まで、およそ一貫してリズムを保たなくては文学たるの資格を減じてしまう。時に墨痕の筆のかすれが雀の羽根を的確に描く。雀に入れ込みすぎてはいけない。さじ加減の一貫も能力のうちである。
 夢と現実、おのおのに費やされる筆の内容に、違いは生じてもよい。登場する人間の立ち居振る舞いや、繰り出す言葉に、夢の場合は奇妙な気配はないか。こうした細部は伏線になり得るし、どうせ先でひっくり返すのだから、筆で夢の証拠を遺してはまずいもまた言い訳になる。そうなら尚のこと、こうした気遣いはあってよい、あればその先の表現も必ず見えてくる。また書き手の意識が対象に強く入り込んでよく事物を見ていれば、こうしたことは自然に起るはずである。
 そうした熱の不足が、次第にこちらから読書への気負いを奪っていった。つまり説明される事件や、語られる眼前の事物に、なんだかどちらでもよいような気分がしはじめて、興味が薄らいでしまう。文の語りも、あまりに予想がつく月並みな言い廻しが連続すると、まあそう言うだろうな、そう発想するだろうなの連続になって、気分が作中世界の出来ごとから離れていく。こちらの想定を裏切ったり、予想を上廻るユニークであったり、感心できる表現が、何回かに一度は現れて欲しい。超常識の出来ごとを起こしているのだから、それを馬鹿馬鹿しく感じさせない辛抱強い努力は、作者に必要であろう。
 とは言うものの、よい位置にまでミステリー追究の情熱を感じた、あと一歩の対象への迫り方と完遂があれば、受賞にもいたったろうし、「屍人荘」のように一時代を築けたかもしれないと思う。少々惜しい印象であった。

第14回 選考過程・選評応募総数76

第1次選考通過作品

相続未遂高沢渉

選評担当編集者

一族の相続をめぐる連続殺人とクローズドサークルものといえますが、既視感のある設定や運び、いかにもな配置の登場人物など、新味を感じさせるところがありませんでした。文章は落ち着きもあって読みやすいのですが、やはり器が古いと感じます。まとまりを意識するあまり、読者への驚きのアピールがたりませんでした。

第1次選考通過作品

神宿る場所の殺人竹中篤通

選評担当編集者

劇場型犯罪、しかも本格ミステリーの要素を盛り込むという志は、とても評価できます。文章もこの作品にあった文体で、作者の成長も感じられました。一方で、トリックを構成するための「可能性」「リアリティ」という部分を考慮して取り組めたらさらに良くなったと思います。

第1次選考通過作品

五・一五殺人事件阿智隆

選評担当編集者

「犬養毅は厳密には青年将校に殺されたのではない」というショッキングな話を歴史的事実とフィクションを織り交ぜ、ミステリーとして仕上げた意欲作です。ただ、犯行動機については予想がついてしまったのが残念でした。

第1次選考通過作品

生きていて生きていない澤柳弘志

選評担当編集者

医療ミステリーとして、特異な設定を生かすことができていた作品でした。同じ人物の不可解な「2度の死」は読み手をそそる設定でした。ただ、医学という専門性の高いジャンルを扱っただけに、専門用語が多用され、登場人物もその言葉を解するキャラが多く、読み手への配慮をもう少し意識した方がより内容が際立つと思います。

第1次選考通過作品

雪炎(せつえん)小早川真彦

選評担当編集者

妹の死の謎を追う、警察官の兄の描かれ方が非常によかったです。交換殺人の手続きもよく練られていて、水準をこえていると感じました。ただ、妹が実際に警察官になった場合、その警察の仕事そのものが彼女にどう影響を与えたのか、仕事小説として描くならば、そこにある「刑事の誇り」「仕事へのためらい」なども描く部分も必要なのではと感じます。

第1次選考通過作品

リプレイス ~少年たちの舞台~永田善也

選評担当編集者

双子、入れ替わりといったものは、細部の描き方が非常に難しくなります。物語をしっかりと成立させるため、書き手はよりシビアに自作を推敲して下さい。殺人を実際に犯した場合の死体の処理などを含めて、主人公に都合のよい形に物語を誘導せず、しっかりと現実味の部分にも気をつけて執筆して下さい。

第1次選考通過作品

白痴の媚薬司庚二

選評担当編集者

読者を置き去りにして小説が始まり、進んでいく印象。応援か共感か、どちらかがほしいところでした。用意された謎から謎への展開は周到なもので、作者のこだわりを感じました。次は人物と導入についてもう少し考えていただきたいです。

第1次選考通過作品

ヒドゥン・ソート柴門秀文

選評担当編集者

書き慣れている印象を受けました。ロマンのある背景を下敷きにした、現代風のミステリーで楽しく拝読しましたが、伏線の貼られかたとトリックにやや瑕があり、また会話文が古いように感じました。地の文は素晴らしいものでした。

第14回 選考過程・選評応募総数76

第1次選考通過作品

率然者高山よしき

選評担当編集者

メインの謎にたどりつくまでにページ数がかかる点が気になります。読ませる文章なので途中で飽きてしまうということはありませんでしたが、事件解決までなんとなく進んでしまう印象がありました。読ませるし、きれいにまとまっているだけあって、もったいなく感じます。

第1次選考通過作品

終末期医療施設に医師と看護師は何人必要か田中史明

選評担当編集者

大掛かりなトリックに挑もうという姿勢に好感がもてました。しかし、成功しきらなかった部分があると思います。特に会話において、キャラクター同士の書き分けが弱かったように思います。読者を勘違いさせる必要があるのはわかりますが、まずは各々の特徴がしっかりわかるからこそ、トリックが際立つのではないでしょうか。

第1次選考通過作品

サタニック三島タカヲ

選評担当編集者

どこか、海外ドラマのエピソードのつぎはぎのように感じました。事件自体や刑事、少女に対する心理学的な分析合戦も、これらは現在の学説に基づくものなのかなど、疑問を持ちました。また少女自身の意志が見えず、便利なコマとして配置されているだけのような印象を受けました。

第1次選考通過作品

最後から二番目の殺人中孫子英也

選評担当編集者

大雪によって推理作家たちがホテルに閉じ込められるという舞台設定からミステリー合戦になるかと思いきや、肉弾戦の多い物語展開には驚きました。しかし最後の部分で、回想録という形で事件の詳細が明かされるのは興ざめです。別の提示の仕方を考えてほしいです。

第1次選考通過作品

まばゆい錆澁戸なずむ

選評担当編集者

記憶喪失の男性と女性週刊誌記者、それぞれの視点で物語を描きつつ、タイトルに繋がる「錆を抱えて生きる」人々を描く意欲作でした。惜しいのは、会話をはじめどの人物の描き方も同じようなテンションになっていることで読みづらくなってしまったところです。

第1次選考通過作品

ジャンヌ、聞こえますか野島夕照

選評担当編集者

著者の持つ美意識がまず下地にあり、そこに本格ミステリーをうつした意欲作でした。しかしミステリーとしてはトリックがやや単純で、謎も小さく、その手法も使い古された感がありました。手法の必然性も感じられず、もったいない気がいたしました。

第1次選考通過作品

アイリスの庭桐島裕

選評担当編集者

DVに追い詰められる女性の視点はスリリングで、つかみと前半のテンポは良かったと思います。しかし次々と真実が明かされていくだけの展開と、会話だけで説明しようとする文章が、全体的に平板なトーンを作ってしまいました。「手がかりをもとに推理する」を意識して書くことをおすすめします。

第1次選考通過作品

フランクフルト殺人旅情吉田右京

選評担当編集者

丁寧に描かれたトラベルミステリーで読んでいて好感が持てました。登場人物の背景をしっかり描いていた反面、そのときその人物はほんとうにそう動くか? と疑問に思った部分も多く、また構造的な驚きもなく、もうひとつ個性がほしいと思いました。