第1次選考通過【26】|最終選考【4】|受賞作【1】
腐らない遺体が発端だった。
猛暑日が続く中、住宅街の空家で死後三日の高齢男性の遺体が発見された。熱中症による事故死と目されたが、刑事の竜胆は腐らない遺体に引っかかる。しかも空家は施錠され密室状態だった。
毛髪からヒ素が検出されたが致死量に及ばない。被害者の爪に残っていた「土」、前歯に挟まっていた「繊維片」。捜査を進めるにつれ、謎が増殖する。
同居する嫁の佳代子の愛車と同じナンバーの車、同じブラウスを着た女性が、現場の防犯カメラに。だが、佳代子には完璧なアリバイが。徘徊老人の熱中症による事故とみえた事件は、意外な方向へと飛び火し――
ミステリーの小説としての骨組みはよく考えられ、複雑な構成を内に用意して、しっかりと完成していた。刑事事件に使用される薬物や麻薬類の知識、またこれを処理するための法律の知識、あるいは警察組織の内部についても、よく調べられており、充分なリアリティが醸され、説明におとなの安定感がある。
冒頭に現れた腐乱しない死体の理由については、選者も知識があったので、この知られた現象を大きめの謎と心得て後半まで引っ張られると、作品評価にも響くと心配したが、これはあっさりと終えられ、導入のきっかけに使用されただけなので、安心した。またこの腐乱しないで現れたきれいな死体が、作の芯になっている「人の精神の醜い腐敗」と対を成していて、全体を皮肉な対比構造に仕立てたアイデアは、秀逸と感じた。
しかしこの作も、事件の推移を説明してくれる文章としては、解りづらい部類に入る。順次事件を描写し、展開を語る文章に、真剣に心を入れて読んでいても、何故か内容が脳裏に届いてこない。いささか込み入った構成のゆえもあり、順次起こっていく事件が視界に浮かびづらく、捜査陣の苛立ちは伝わっても、文中に入りづらい。後半にいたるまで、事件の内訳や、裏面の構造をイメージするのが楽な小説ではなかった。むしろ苦行に近い印象があった。
この点を、やはり選者個人に起こる文章への相性というもので、読者一般には起こらないことかもと考えてはみるのだが、またそうした経験も実際にあるのだけれども、その時の経緯とはこれは違うように思われたし、自分と反応が違う読者は当然いるであろうけれども、そちらの数の方が多いかと問われると、少々疑問であると思った。
作中に入りづらい理由については、ひとつ推測がある。捜査側の人物たち複数の立ち居振る舞いとか、発言に、最後まで共感が湧かず、思い入れができる人物が探せなかったという事情が、なかなか大きいかと感じた。
捜査一課の男たちの、男らしいと自らは信じる格好づけ、つまり格好良いと自らは信じて繰り出す定番のセリフが、昭和おじさんたちのややもすると失笑を誘う古びたもので、たとえば人の目を射抜く老練課長の眼光だの、気魄、胆力の凄みなどと言われると、その劇画的定番性にああそうですかと言わざるを得ない。脇役自覚の刑事のたびたびの発言、「あったすよ」とか「これっす」、「証拠になるっすよね」などの軽口パターンには、どうにも今日にも通じる洒脱は、感じることができない。
捜査陣の男たちを称揚するらしい使い廻しパターン文体の多出には、暴力漫画に見るようなカルい感性が感じられて、これは書き手の本気の産物か、それとも先に何か裏を用意した伏線かと、いささか戸惑わされる。これだけヒトの悪意を巧みに描き重ねる繊細な筆力とか、人間の醜さ悪どさを誘導する社会構造を指摘する成人感性の作者の作にしてはと考え、やや不思議な感慨を抱く。
深酒やタバコによる暴力傾斜的世界を、男らしい格好良さと心底から信じ、犯罪誘発の可能性はデータ的に低い大麻を、この世の最大の悪徳と確信して言動する、アメリカなどではもう古くなった正義感覚が、今も格好良い行動の前提となる多少珍なる日本人の姿に、この小説の芯になっている昭和の暴力教育の正義、実は愚劣と通底する無思慮を見ると同時に、ここにもまた、明瞭に皮肉な対比構造が浮かぶのを見る。これもまた日本の近現代史が今も地下に畳みつつある、疑問の地層というべきもので、どこまで作者が意図したものかは不明であるが、こうした皮肉を知らず描いてしまうこの作者は、何ごとか天啓めいた貴重な資質を持つ人かもしれない。
この小説が、昭和おじさん自身が書き連ねた文章世界であるなら、こうした幼児性を感涙と共に書き進む情熱も理解できるのであるが、女性作家が、どうした判断からこうした奇妙なことをしているのかと首をひねって読んでいた。徹底した男性突き放しの感性から、声帯模写的な身の寄せ方を演じて、ある種の諦観とか、呆れとともに書いているのか。
子供っぽい格好つけから、連日連夜噴飯的なセリフとともに暴走を繰り返すおじさん世界に、あきれつつも妥協を尽くしたこの文章は、わが男性上位社会における女性の、受け身的立ち位置を示す産物か、それとも安酒ととものこのおじさん流儀、お笑い風味自己陶酔が、捜査の実績を上げもするから、まあ致し方なかろうと評価している風景スケッチか、もしもそうなら、日本型男性社会の馬鹿馬鹿しさは、この作品を隅々まで、あますところなく満たしているわけで、いささか救いのない気分にさせられる。がしかし、それこそがこの小説の執筆動機なのであろう。
ともあれ、そういうおじさんの自己陶酔的躍動を前半は肯定的に徹底描写しているから、思い入れのできる冷静で、魅力的な正義側の男の姿が見当たらず、こちらのそうした宙ぶらりんさが、文章との間に隙間を作ってしまって、間に薄布を一枚通した視界のような、内容の伝わりにくい文章になった、という事実がひとつにはあろう。大人の感性で、共感が可能な人物は、困ったことにはおそらく作者と同様、悪に心を腐らせた一人の女性にであって、こうした構造は、この小説の目指すところが、一般的な推理小説の精神からは外れていることを示している。
この小説をこちらが本格のミステリー小説と予想して前半を読み、犯人の保身の作為や、トリック構造のからくりを読み解き、咀嚼し、裏面を見抜こうと知らず身構えていた意識が、後半にいたって、まったく見当を間違えていたことに気づいて、かなり驚かされた。そしてこの瞬間にいたり、この小説が見違えるほどに輝きはじめたことを感じた。
この小説はそういうものではなく、人の世の醜さ、ここに長く暮らして知らず身につける、心腐らせた者のしたたかな損得勘定、そういうものを表現して読み手に見せつける文芸の姿に、主眼があった。右のミステリー構造は、その手助けに活用したものにすぎない。
後半にいたり、人の思惑の醜さ、暴力行使快感に関する正義感のすり替え、男の求めるエセ行儀心はちゃんと演技して、これに逆らわず、しかし金銭欲得は巧みに吸引していく受け身位置の女の計算、こうしたものが、作後半では腐食土壌に断崖を出現させ、ここに折り重なって累々と露出する醜悪の美、この小説はむしろこうした人の世の愚劣さ、男性社会の腕力崇拝の幼さ、その罪、不手際、これは正義の具現たる警察機構の内部をも含むのだが、これを見下し、活用して生き抜く、ある生物の持つ一種の醜悪美を描かんとした小説であることに、ようやく理解が及んだ。
こういう営為は、ミステリー小説というより、極東アジアの近現代史が産んだ、日本人という特殊な民の美醜を描かんとする、文芸志向人の仕事であるように感じられ、ミステリーの手法がこれをよく助けていたと理解されて、なかなかの成果が見えていたと感じた。
本応募作は、現代の京都市西京区を舞台とした本格ミステリーである。探偵役は桂坂大学の特任助教を務める戸部根澄であり、探偵の助手役は大学で戸部の研究を手伝っている猫俣渚紗である。
阪急桂駅前のマンションに住んでいる松下久実から、「真夜中にスズメの声が聞こえたから、その謎を解決して欲しい」という依頼が戸部のもとへ舞い込んだことを切っ掛けとして、戸部と渚紗は、警察に協力するという形で連続殺傷事件の捜査に関わることになる。
戸部は、動物を対象とした心理学を専門とし、その専門知識や技術によって事件を解決する。
ミステリーとしてのストーリー構成の材料は、非常にうまく用意されていると感じた。本格系のミステリーを好む読者の関心を惹く要素は、実に網羅的に準備されており、順次これに惹かれてページを繰らされるという印象は好ましいもので、こうした構成と計算の能力は充分にある人、という評価を持った。当賞の最終候補作浮上はもう二回目になるので、こうした能力はすでに充分に獲得している書き手という印象を受けた。
深夜に鳴くスズメがいた、その声を聞いたという情報から、事件に消極的な探偵が、何故それを早く言わないのだとばかりに興奮を始め、研究室から飛び出す。動物行動学の知識のないこちらは、夜半に鳴くスズメくらいはいるだろうにと思うのだが、動物の専門家にとっては看過不能、夜中にさえずるスズメの出現は、驚天動地的の不可解事であるらしい。こうした導入には心を惹かれる。
自由奔放に行動しているように見える動物だが、彼らにはサーカディアンリズムという逸脱を許されないルールがあり、行動原則の本能が存在している。夜中にちゅんちゅんと鳴くスズメは、今回のこのあり得ないに近い不可解な一連の事件の理由を、冒頭で象徴的に説明していた。こうした構図もよいもので、好感を持った。
主婦が暮らす古都京都のマンションのベランダに、人間の眼球が置かれている。それまでここにはミニトマト、鶏の唐揚げ、ミートボール、サヤインゲン、ピーマンの肉詰めなどが次々に置かれ続けていた。
続いてここに、人間の親指が二本置かれ、発見される。
さらには、付近の公園で女の子の遺体が発見される。動物が噛みちぎった歯形が、首についている。
眼球や親指があったベランダに、男子児童が降ってくる。重傷になり、救急搬送される。しかしこの児童の態様の説明は、充分なものに思われず、このあたりから、説明の不足が始まっていくように感じられた。
ついに山野辺公園で、ペガサスか、背に翼を持つ、動物学的には存在しない架空の四つ足生物、グリフォンに似ている奇怪な動物が目撃される。
続いて様々な異物が置かれ続ける現場からほど近い別のマンションで、人間の子供の上唇と思われる物体が発見される。
こうした小事件の連続は、ミステリー好きを刺激吸引する要素として充分なので、ただ並べ、通常の説明を付していくだけで、面白いミステリー展開は作れ、完成させ得ていたと思われる。加えて作者の動物心理学会員としての専門知識を動員すれば、一般が驚かされ、説得されるような説明の文章は作れるはずであった。先の「夜鳴きスズメ」がそうであるが、モスキート音とか、サーカディアンリズム、グリフォン、カラスの種類の専門的な説明や、他の鳥の鳴き声を真似るこの鳥の性質についての解説、あるいは犬に暗示をかけ、あるキーワードを用いて人への攻撃を起こさせる術など、いちいちなるほどと思い、専門家らしい蘊蓄には、敬意を払いたい気分が湧く。
しかしいったいどうしたことなのか、これら専門領域の解説文は、必要な積極性を持っているのに、事件の内容を順に述べていく地の文章に、奇妙に実態感がない。血肉の腕力を持っていず、ゆえに説得力というものがほぼ消えている。これを読まされていくのは不思議な体験で、物理的な「事件」が作中に起こっており、その現象の理解自体はむずかしいものではないのに、ページを戻って何度も読み直してしまう。これはいったいどうした理由で起こることなのか、終始考え、たびたび首を捻った。説明がポイントをはずしているということも時にあるが、それが理由ではない。はずす理由が別所にあると見える。これは自分にのみ起こる、個人的な対文章の相性かと疑うのだが、どうもそうではないように思われる。
非常に踏み込んだ言い方をするならば、起こしている思い切った事件に、責任を取るまいとするような、そういう消極性の滲みで、積極消極、混乱した心根が繰り出してくる血の気のない文章が起こす揺らぎ(上三文字ルビ点)、という印象を、次第に得てしまった。
ベランダに人間の眼球が落ちている。床は、コンクリートか、それともリノリウムが貼られているのか、最近の流行から、木目が貼られた仕様になっているのか。
眼球には、白目の部分と黒目の部分、黒目には虹彩があり、白目には血管が浮いている。白目部分の白色は健常か、黄ばんでいるか、球全体を、血液の色は覆っているのか、眼球に大きな損傷はあるのか。
このような仰天の物体が自宅のベランダに存在すれば、主婦ならば即時に目を背けるであろうし、医師のような落ち着いた観察をするはずもないというのは解るが、しかし、述べたふうな情報は、瞬時に視覚に飛び込むものではないか。もしも見なかったとするなら、その説明こそは少なからぬものにならないか。このようなとてつもない衝撃を眼前にして、そうした説明をしないのは、食い足りないではすまず、何らかの特殊事情を考えてしまう。
続く親指や、耳、上唇に関しては、さらに説明が避けられている印象だが、不快な風景としての文章も、いったんは現わしておかないと、文全体が、梗概の文のような、執筆前の作家の脳内メモふうの簡略文に聞こえてしまう。
グリフォンなどは特にそうで、中段でこのような特殊なものが現れることは、大きな驚きをともなうある種のクライマックスとも言える風景のはずで、目撃のシーンにはもっと多くの驚きの描写があって自然であろう。
そして解明の文章には、出現した驚くべき風景の、裏面の事情が丹念に説明されてもよい。犯人は何故このような圧倒的に手の込んだ努力をし、おそらく一般は心得ないであろうこうした特殊な架空生物を、古都の一角に走らせる必要性にかられたのか。ただのシュールリアリズム的風景への芸術家的渇望か。作の全体にミステリーの霧を発生させるための身を粉にした献身か。あるいは呪術的な狂信性が犯人の凶行裏面に介在していた? それともまったく別に、自身の刑事的な罪回避の方策として、この風景の出現が計算されていたのか。こうした具体的な説明がない。
何より、古都の公園にこのような動物が出現した際の風景は、犯罪者の側に充分な美と価値を感じさせたか。千年の都において、とりたててこの公園が選ばれた理由には、もっと文字を費やしたい気分はないのか。ただ異常行為の淡々とした後始末描写が続くだけなので、作者に仕掛けた者への関心が薄く、釈然としない。
また作者は、ある種の催眠術をもちいて、本来人懐こい動物に暗示をかけ、キーワードを聞かせて人間を襲わせたと説明するが、この行為時の具体的な描写がない。シェパードに暗示をかける際の犬の表情は、反応は、また動物に外科的手術を施す際、具体的な細部はどのようであったのか。いつどこで、どのようにしてこれを行ったのか。どう見ても施術者には、経験も分別も、設備も道具も、何もかもが圧倒的に不足しているのだが。
手術に用いる鳥の羽根の種類の多さにも、首をかしげた。これら大量の羽根を、すべて一匹の哺乳動物の背に縫いつけたのであろうか。いったいどういう外観のグリフォンができあがったのか。グリフォンとは、これほどにたくさんの翼を持った生物なのであろうか。
またこの犯人像には、意外な人物を設定せんがあまりの、いささかの無理が感じられる。
催眠術のトリガーの効果は、計算通りのものがあったのか。人間がささやいた場合はうまくいったにしても、鳥に行わせたという設定なので、教科書的な解説説明だけでは、そうした学術的な予測がすんなり成功したという納得感はなかなか生じない。想定外の反応はなかったか。実際は、どういう段取りで鳥から犬にこれを行わせたのか。もう少し具体的な説明を読みたい気分になった。おそらく多くの読者も、同様に感じるのではないか。
ゴーレミアムに住むアリアナは、幼い頃に盗みの濡れ衣を着せられ、現在は修道院に蟄居している。端女として暮らす彼女の右手には、罪人の焼印が押されていた。一方、アリアナの幼馴染である少年ミハイルは、教皇庁の従騎士として鍛錬に励み、家族の仇である革命派の殲滅を目指していた。ある日、アリアナは領主グリフィンの城に呼ばれ、五十年に一度ゴーレミアムに現れるという、聖女の選抜試験に参加することとなる。ミハイルもまた、試験官である司教たちと共に、ゴーレミアムに向かった。
グリフィンの別荘があるハロン島に向かう一行。アリアナは試験を受けるものの、結果は散々だった。再会したアリアナとミハイルは、互いの身の上話をして旧交を温める。アリアナの焼印を見たミハイルは、それが封印の魔法陣ではないかと疑う。
ハロン島に来て二日目、聖女候補のジェシカが殺害される。ジェシカは密室となった自室で、圧死のような状況で殺されていた。さらに島を巡回警備していた、ゴーレムが一体消失していた。師匠の聖騎士カイルと共に、ミハイルはジェシカ殺害事件を調査する。その結果、別荘の地下室で、呪殺の魔法陣と三体の死体が見つかる。これは革命派の仕業と思われた。調査してもジェシカ殺害犯は見つからず、そのまま夜を迎える。
三日目の朝。今度は聖女候補であるリーゼロッテが、密室内で撲殺されていた。今回もゴーレムが一体消失しており、ゴーレムが犯行に使われたと思われる。
さらに午前中、密室となった回廊で、今度は司教レーゼが殺される。カイルは事件を追う最中、聖女選抜試験の意義に疑いを向ける。
そして夕食の時間に、家令タレスが首吊りの状態で発見される。自殺と見られたが、ミハイルは熟考の結果、タレスは自殺ではないと判断。しかしその直後、カイルが真相を解明したと言い、全員を集める。
カイルはジェシカ殺害事件において、犯人がゴーレムを使い、密室殺人を行った方法を推理。さらにそこから、近衛騎士ニコロが犯人であることを喝破する。ニコロは実はジェシカと恋仲であり、ジェシカは妊娠していた。しかしニコロに貴族令嬢との縁談が来て、ジェシカが邪魔になったのだ。自身の出自を嘆きつつ、ニコロは罪を認める。
さらにカイルは、リーゼロッテを殺害した方法についても推理。そして犯人を、修道士イシュマルだと喝破する。静かに罪を認めながらも、動機は黙秘するイシュマル。カイルは殺害動機を、リーゼロッテが聖女かどうか試すためだと推理。さらに教皇庁が、歴代の聖女を殺していたことを突き止める。イシュマルはそのことを認め、ゴーレムの聖女など迷信だと嘲笑う。
そしてカイルは、レーゼを殺したのはタレスと推理。タレスが自殺したのは、自身の罪を悔いてのことだと述べる。このことにアリアナは納得がいかず、自室で推理を働かせ、タレスにレーゼ殺しは無理、という結論に至る。アリアナはミハイルに自身の推理を話し、ミハイルにもまた考えがあるという。
静寂が訪れた別荘内で、神に祈るアリアナ。そこにグリフィンが現れ、自分はアリアナの父だと述べる。アリアナはグリフィンにとっては妾の子で、養子に出されていた。しかしアリアナが聖女であることを知ったグリフィンは、アリアナを教皇庁に奪われないよう、封印の焼印を施したうえ、修道院に蟄居させていたのだ。そこに謎の男が現れ、グリフィンを殺害する。
ミハイルはカイルを探し出し、自身の推理を述べる。アリアナの証言から、レーゼを殺したのが外科医シャクマであること、さらに回廊のドアベルが鳴った回数から、タレスも自殺ではなく、シャクマによって殺されていたことを告げる。するとカイルは「何も知らなかったことにしろ」とミハイルに告げる。
カイルはシャクマと結託した革命派だった。レーゼ殺しの濡れ衣をタレスに着せ、シャクマにタレスを自殺に見せかけて殺させていたのだ。真実を知ったミハイルは、カイルと対決。剣を奪われながらも、ゴーレムの義手を使ってカイルを倒す。
一方、グリフィンを殺害したシャクマに、アリアナも捕まりそうになる。傭兵クニミツがシャクマを捕縛しようとするものの、シャクマは使役下に置いていたゴーレムを呼ぶ。ゴーレムと死闘を繰り広げるクニミツ。アリアナは封印の焼印を、皮膚ごと剥ぎ取ることで聖女の力を取り戻し、ゴーレムを制圧する。
さらに侍女長サリーナは、実はグリフィンの妾であり、アリアナの母であることを告げる。アリアナを遠くへ逃がすため、サリーナは自身の命も使って偽装を施す。
ミハイルやクニミツと共に、東方に逃れたアリアナ。故郷に戻るクニミツと別れ、アリアナとミハイルは新天地へと向かった。
この作品は一転、非常にクリアな視界を感じさせる、明晰夢のごとき描写の文体で、作内部で起こっていることがこちらによく見え、進行が脳裏にイメージしやすかった。
ところがそういうこの小説に限っては、作内部がほかの候補作とはだいぶ様子が違い、ストレートな文体が伝える世界は、身分制が支配する中世ヨーロッパの封建都市で、騎士、司教、修道士、ゴーレム、などが実在する黒魔術的世界、ゴーレミアム領ハロン島という架空の社会で事件は連続する。何故か日本人の武将と見える人物が一人いるが、ドラマを織りなす他の登場人物たちはすべて欧州の白人と思われ、さらに、土くれから創られた怪力のゴーレム人形を、ペットのように操れる超能力の聖女が、五十年に一度この街に出現するらしい。ただし前半はそういう聖女探しの展開で、どの女性が聖女かは不明となっている。
すなわち、読み進むにつれて焦点が合い、クリアになる視界に見える街並みは、細部までよく見えても、それは今日の欧州の街路ではなく、むろん日本の街でもなく、どこにも存在せぬ超現実の箱庭的世界であり、そこに躍動する登場人物は、これもどこにも存在しない、コンピューター・ゲームにおける戦闘員の定型的セリフを吐き散らし、ボット的躍動を見せる、血肉を感じさせない存在だ。しかし、古い石積みのこの世界は、実は今日、誰の目にも即座に了解が取れる、よく知られた世界なのだ。この街は、いったいどうした由来で、本格ミステリー世界に現れたか━━?
構築をすっかり終えてから現れたこの仮想現実的な集落は、これより大掛かりで奇想天外なマジックを見せるための周到な装置かもしれぬと、読み手としては大いに期待した。
小説世界が開始されても、内部事情の説明が淡々と続いて、長く事件が起こらない印象がある。衝撃的な事件、すなわち作を引っ張る謎を早めに提出せんとする配慮が感じられないこの冒頭の冗長に、思えばこの小説の性質が早々と提示されていたのだが、やがて密室内に現れた殺人事件の態様に、かなり驚かされて、大きな期待が呼び戻された。
厳重にロックされた密室の内部に、象に踏まれて圧死させられたような聖女候補者の死体が出現する。室内であるから、周辺に象も恐竜もいず、上方には天井が存在するから、重量物が落下してくる可能性はない。また周囲のフロアにそのような大型の物体が転がってはいない。街に大勢いる巨大なゴーレムなら、このような所業は可能ではあろうものの、密室内にゴーレムはいない。このような条件下、犯人は聖女候補者を、いったいいかなる方法によって圧死という特殊な殺し方ができたのか。
これがこの「本格ミステリー小説」のメインの謎であり、この小説が、これよりすでに出現している物体や、人物を含む材料を用い、現実的な推理思考を行なってこの謎の解明に挑戦するという趣向なら、そして合理的な解答が先に用意されているものなら、今年の受賞作はこれで決定したと考えた。ストレートな文体によって、舞台装置も、推理のための材料も明瞭に示されていたからだ。
この殺害死体の出現は、謎として充分な不可解性を持ち、問いとしておよそ未聞のものであり、申し分のない大型の感覚がある。
かつて新本格が世に登場したおり、選者の記憶に誤りがないならであるが、同様の密室の中に、かなりの高所から転落死したとしか思えぬ死体がある、という謎を提示した作品があった。しかし今日この作が名品として世に遺っていないふうなので、こちらの記憶違いであったか、それとも作に不手際があったかしたのであろう。この作の存在は伝聞であり、当時もそれなりに多忙であったから、詳細は判然としないことになった。
しかし二〇二五年登場のハロン島のこの謎も、期待通りの趣向なら、世に遺る可能性は充分にあると期待した。
ところが、その後の展開を読み進んでみれば、ゴーレムは最大三メートル六十センチという高身長を持っているのだが、所有者のかける魔法ひとつで、身長は三十センチ程度にまで縮み、カバンに隠して持ち去ることができ、必要ならば消滅させてしまうことも可能だという説明を読んで、期待は瞬時に消失した。
それならば密室は存在しないも同然になるし、人間一人を圧殺できる巨大な重量も、思うまま望みの場所に出現させ得るし、また重量ゼロに消滅させることも可能という話になる。人一人を圧死させたのちは縮小してカバンに隠し、持ち去れるうえに、そのカバンを調べられそうになれば、中のゴーレムを消してしまえる。これでは「本格ミステリー」としての醍醐味を導く条件は大半霧消する。どれほどに不可解きわまる殺人事件も、便利なゴーレムを活用すれば、魔法の念力ひとつで起こせてしまい、小説の種類が違ってしまう。
巨大なゴーレムを操るには、「セム」と呼ばれる、神の名前が書かれた羊皮紙を、彼の口に入れることでコントロールが可能になるとあるのだが、この羊皮紙がコピーされるとか、奪い合われるなどという趣向もない。あくまでゴーレムの操りは、特権的能力者、聖女にしか起こし得ない。
「本格のミステリー」という文芸は、近代、「科学」という新思想が欧州に現れ、これが封建主義を後退させ、「民主主義」というイデオロギーを産み落とし、これを反映した形態の新文学としてアメリカで誕生している。そういう経緯だから、当作に見えるようなゴーレムという民話系のフィクションは、「非科学」として小説になじまず、それでも出現させ、操れる人間を介在させたいなら、ある条件を経れば、どのような人間にも平等に、その怪力を行使させ得る、とするべきなのであろう。この小説には、そうした配慮の形跡はないから、その方向のドラマはない。
こうした思索を経れば、この小説は、作者の脳裏で細部までしっかりと構築完了されたファンタジー世界を、コンピューターによってヴィジュアル化したキャラクターを波瀾万丈に動かすことで見せるアニメ映画であり、ファンは受け身で鑑賞するのみ、という一方通行のストーリーと理解することができる。自負する知性でもって、読み手が能動的に参加するという、双方向型の発想は許されていない。
なるほどそう解析し、了解するならば、このファンタジーはそれなりに楽しく、血湧き肉躍る活劇として楽しめるし、理不尽な目にあうヒロインの立場に同情したり、思い入れて悲しんだり悔しがったりができる。腕に覚えの騎士たちの胸のすく剣術に、興奮もできるのではあるまいか。ただし、おそらくはアニメ鑑賞の頻度が高い人ほどに、そのヴィジュアルを脳裏に完成させやすいのではあるまいか。すなわち、アニメやPCゲーム体験というサポートが必要と、作者は嫌うかもしれないが、言い得るかもしれない。
今や確立したこの世界への作者のひたりかた、馴染み方の深度から、各登場人物のセリフも的確であり達者で、時に感動的な美しい言い廻しもごく自然に湧いで出るふうで、苦労している形跡がない。したがって読み手がもしも同種の背景を持っていたなら、今稿に強く共感し、エキサイトすることも可能に違いない。
キャラクターの中に、日本の武将と思しき戦闘員が一人混じっていることは述べたが、最後のシーンで彼は、主人公たちに別れを告げ、ただ一人、極東の祖国に向かって帰っていく。彼が事実日本由来の武将なら、彼の孤独を考え、ゴーレミアムの地に渡ってくるまでに果たしてどれほどの艱難辛苦を体験したか、これをひそかに夢想して、同じほどのヴォリュームがありそうな、もうひとつの物語を脳裏に描くことも自由であろう。
すなわち作者のこの世界への馴染み方は、住人かとも思えるほどで、発展可能な様々な地平を絶えず見ており、当ファンタジー内部にも、新展開を生み出す因子を随所に、豊富に存在させている。こうした物語を脳裏にたやすく見ることができるこの作者は、稀な才の持ち主だから、今後これをどう活用するかはじっくり考えられてよい。アニメやゲームの世界に進出するのが自然ではあろうが、福ミス選者としては、これを本格の双方向ミステリーに活用する手立ても、考えてみてもらいたい気分がしている。
探偵事務所の見習い、城川襄はトラブルに巻き込まれて逃げる途中、季節外れの別荘に逃げ込む。翌朝、若い女を拾う。城川が撥ねたらしい男の死体を見つけた二人は、男の乗ってきた車で逃走する。その車のトランクに見知らぬ女の死体があり、二人は殺人クライアントと通話する。クライアント女に第二の殺人を命じられる。
二人は事件屋の記者と知り合う。トランクに入れられていた女は、秘密書類を盗み出し、そのために二つの対立する暴力団から追われていたらしい。
その文書は某国の政権選挙にまつわるものだった。候補者の出自をめぐって、外国情報機関や日本国内の暴力団と結託して、文書の行方を追っているのだった。
城川たちは、第二の殺人の標的として指示された女を誘拐して匿う。聞いてみると、この女が小説家の麻丘まりあであるとわかる。麻丘まりあは覆面作家で、ほとんど実像は知られていない。
まりあは『サイコパスと旅をする』という小説を連載中だった。
二人は安藤とともに『サイコパスと旅をする』を連載している出版社を尋ねる。同作に反応した読者に元刑事がいて、その老人はこの話にはモデルがあるのではないかと言っている。二人は元刑事を訪ねて、三十年ほど前の事件が小説と似ているのを知る。今度は暴力団顧問弁護士の妻が拉致される。
連載中の『サイコパスと旅をする』が突然別人の手記を載せだすが、麻丘まりあが書いたものではない。その手記こそ、諜報員や暴力団が争奪している秘密文書だった。
城川たちは、クライアント女になりすましが見破られ、対決するが、仲間が拉致され、作家もさらわれてしまう――。
文章自体の上質さ、端正さや表現の的確さ、テンポを維持していくための文末の変化の付け方のセンスなどは、この書き手に最も上手を感じた。醸される文学性に関しても、この作が最上位の印象だった。「わが虜囚の記」という挿入小説の文章は特に格調が高く、伝えている内容に価値も重さもあり、こちらを吸引してのちは、推進力を持ってぐいぐい引っ張るエネルギーの強さも感じた。
この文章の作中時間が敗戦にいたり、日本兵捕虜たちが戦時法廷の被告席に導かれる描写にいたると、こうした歴史をすっかり忘却している今日の日本人のありようも思い起こされ、思いが深くなる。日本兵への、中学生徒に対するような上から叱責の屈辱が、今日の日本人の性格を直接的に決定しているのにである。またこうして犯罪者の烙印を押された日本人が、平成の今、今稿内部でまたぞろ刑事犯罪を犯し、罰を受けようとすることの意味も、深く考えたくなる。
しかし、敗戦時に受けた叱責を忘れず自重を、などと言うつもりはさらさらない。南方侵略というなら、検察席や判事席の白人たちこそは、被告席の黄色人の千倍も重罪を犯していた。彼らの傲慢はとてつもないもので、幕末の黒船来航時、地球上で植民地になっていない国は、島嶼を除けばだが、エチオピア、タイ、日本の三国だけであった。それも、エチオピアには強烈な致死性の風土病があって入れなかったこと、タイは英仏が睨み合い、戦争を躊躇しあったからにすぎない。
また植民地運営時に白人たちの見せた暴虐は、当作品に現れるサイコパスや殺人者など可愛いもので、日常的にレイプを行ない、動物に対するように日々先住民を殺して楽しんだ。被告席に引き出された黄色い罪人は、こうした白い肌の極悪人から、罪のない南方人を開放したにすぎない。白人たちの犯罪体質を知りたければ、アメリカ人が自国で黒人奴隷に対して為した鬼畜の所業を思い起こせば充分だ。この差別は百年前から、この戦争時にもまだ続いていた。彼ら白人に、日本人を裁く資格などないのは明らかだった。
いずれにしてもこうした思いも湧き、できればこの挿入手記の章にずっと留まっていたいと思いながら読んでいた。おそらく書き手は、こういった内容の表現に少なからぬ自負を持ち、つまりは文学の世界によく馴染んだ人なのであろう。
それゆえであるのかどうかは不明だが、ミステリー小説の習作としての今稿は、事件の進行、つまりは登場人物たちが冒険の旅をしていく軌跡が、ひたすら二次元的で、地図の上を視界狭く這うようだが、全体を俯瞰する作者の目が長く感じられなかった。俯瞰の目とは、構想を初期段階から見通し、作中の空間をとらまえて、驚きの装置にしてしまわんとする「神の目」発想がどうやら存在しない。あるいは降臨手前である。都度都度、地図の上を這う虫の視線に同化を続け、つまりは出たとこ勝負の驚き以上の思惑の大きさは、終わりまで感じられることがなかった。
事件の進行がのっぺり二次元的でも、それが圧倒的にリアルでこちらを唖然とさせ、考え込ませる陰たる提示、それが文学の空気、それとも資格なのであろうけれども、つまり「わが虜囚の記」に見るような。そうなら、私(小説)の実体験に勝てる人工性や、頭で考えた描写など存在しないというものだが、ものが本格のミステリーなら、近代自然主義発生の沸騰石たる進化論科学の精神をもって、そう勘づかせずに世界を支配する人工性の妙味を操らなくてはならない。後半にいたって世界を転覆させるような驚きと気づき、そして感動を読み手にぶつけて、時として人生の捉え方に覚醒の学びを与えんとするような体験を、個人的には目指している。
おそらくはそうした事情からなのか、あるいは違うのかもしれない、いまだに結論は出せないのだが、物語の根底には台湾の中国政府系の共産親派と、独立指向派の争いがあり、先の「わが虜囚の記」なる手記は、どちらかの手に渡れば、おのおのの争いを有利に進める武器足り得るという判断がからむという、国際政治の壮大な構図も重ねていて、このあたりの骨太感は作者の文芸趣味の反映で好ましいものであるが、探偵事務所の見習いが、軽井沢で娘を拾うなどしながらの逃避行の経緯が、どうしたことなのか惹かれるものがなく、作中に入れなかった。
サイコパスの言動と加虐趣味、他人の性行為までを支配せんとするサディズムの描写など、興味を引く要素は随所に用意されているし、われわれが事件に巻き込まれれば、出遭うのはこの水準の凡事になるであろうから、こうした章の筆を批判はできないのだが、何故強く惹かれないのか、もしかするとこれらの表現が、本格ミステリー体質の発露ではないからなのかもしれない、などと考えた。
登場人物に魅力がないわけではないし、サイコパスの感性、行動は大いに興味深いし、複数の女性たちの奇妙な折り重なり感に、何ごとか策謀の匂いもあって若干の関心も湧くのだが、どうしたわけか、この手の作られた煩雑さには強い惹かれ方が起こらない。読み進めるのが次第に難儀に感じるほどに、この章からは一種の拒絶感が来る。
後段にいたり、折り重なるように現れ、行動する多数の女性たちのうちの、美冬と沙織が入れ替わっていた、より正確には、作意を持ったある人物により、ストーリーを伝えてくる中心人物に向かって、入れ替えて紹介されていたという本格ミステリー系のトリックが明かされるのだが、これがなるほどと膝を打って驚き、以降の視界をすっきりと明瞭にするような、鮮やかな発見とはならなかった。女性の読者なら、あるいは彼女らの言動や振る舞いの微妙さにリアリティを感じながら、作中に没頭してストーリーを追っているから、あるいはこれが、大きな好ましい、全体をすっきりと理解させる驚きになっていたのかもしれない。
しかし選者の場合、内部から絶えず感じられる軽い拒否感と闘いながら読んでいたので、そう聞いても、何やら煩雑を感じただけで、大きなカタルシスとはならなかった。後半にいたって作者が、本格ミステリーの仕掛けも付与せねばと、あたふた付け足したような印象も持った。
個人的把握になるのだが、これも作を俯瞰する「神の目」の不在とも関係するように思った。作者が地図の上を這う虫の視界に同化を続けているので、世界を根こそぎ覆すような構造的、抜本的な力技を仕掛けることができなかった、そうした把握が湧いてしまった。
この暴露への反応は、直接的にこの作への評価の点数になるであろうから、こちらの感想を押し付けることはしたくないし、この作が前方に文学的な美点も多々持っていたことは述べた通りなので、評価を批判一方に傾けることはしたくない。しかしこの終盤を体験しても、候補作中で、この作が他を圧するほどの上出来であったとは、少々評価しがたかった。