第一次選考通過[ 27 ] | 最終選考[ 3 ] | 受賞作[ 1 ]
テッド・アンダーソンと離婚した長嶋聡子は,十一歳の一人息子ブライアンを連れてアメリカから帰国した。聡子は予備校の講師をしながら息子を育てた。日本国籍を得たブライアンは長嶋武頼と名乗り,今は二十九歳になって,高校の英語教師をしている。
沢田仁奈という女性が武頼の勤務先を訪れ,三十年前に彼らが住んでいたインディアナ州ラフィエットで起きた誘拐事件について,話して欲しいと頼む。聡子は婚約者だったテッドとともにその事件に巻き込まれ,解決のために奔走したのである。
誘拐事件の被害者のニーナ・ティーツは,両親が事件の渦中で死亡したために日本の親戚に預けられ,沢田仁奈として成長した。だがその家で虐待され,今はホテトル嬢になっているという。
仁奈は,事件や両親について知ることができれば,現在の境遇から抜け出せるのではないかと思っている。だが,聡子は逡巡していた。仁奈がニーナであるなら,親切にしなければと思ってはいるのだが,彼女自身の心配事もあるために,乗り気になれない。
仁奈がニーナであることが解ったために,聡子はアメリカに住むテッドと相談しながら,一九七五年五月に起きた誘拐殺人事件の全貌を話してゆく。
三歳のニーナと母の涼子は,日本人会のパーティ会場から突然姿を消した。父親のフィリップ・ティーツは出張中だった。彼はラフィエット大学言語科学学部の正教授で,学部長選挙の立候補者である。立候補者はほかにガイ・ヘンドリクスとラルフ・ローゼンバーグの二名がおり,二人ともティーツと同じ正教授だった。テッドはその学部の講師,聡子は大学院の学生だった。
ニーナから電話がかかり,聡子が応対する。ニーナは英語で,犯人の名前を「ワビ」または「ウィバップ」,犯人と一緒に「ヤパー・イン」で「ヤパー」または「ラバー」を食べたと告げた。ニーナは構音(発音)障害のある子供で,これはニーナの言い間違いだった。また,犯人と思われるワビが,ティーツに身代金を要求した。
テッドと聡子は「ワビ」と「ウィバップ」については正しい語を見つけ出した。犯人の名前である。だが「ヤパー」または「ラバー」に関してはむずかしいので,ヘンドリクスに解明を頼んだ。ヘンドリクスは,アメリカで五指に入るほどの学者であった。
ヘンドリクスから解明したとの連絡を受けている最中に,銃声が聞こえた。ヘンドリクスは銃殺されてしまった。彼は,流れる血で壁に壮絶なダイイング・メッセージを残した。そのメッセージは犯人を指していると考えられるが,該当者は大勢いるのだった。その中で,最も疑惑を持たれていたローゼンバーグは,警察の目を盗んで姿をくらましてしまった。
時を同じくして,トルネード(大竜巻)が掘り起こした腐乱死体の身もとが解った。
一方,仁奈にも記憶がよみがえった。監禁されていた場所から,母が苦闘の末に自分を逃がしてくれたことを思い出したのである。身代金はミシガン湖の遊泳監視台に置くようにと指示されていた。警察とティーツ,テッドと聡子もミシガン湖に行って,犯人が十万ドルを回収に来るのを待った。聡子には,その場所にどうしても行かなければならない理由があった。
やがて,シカゴの夜景が映る湖にモーターボートが現れた。ボートから飛び降りた犯人が,身代金入った二つのボストンバッグを両手に掴んだ。その時──。
事件の顛末と,学部長選挙の結果などを語り終えたのち,仁奈の再生を願いながら,聡子は仁奈の父親の写真をプレゼントした。
その夜,聡子はテッドに電話した。互いにねぎらい,共有していたある秘密について,二人はしみじみと語り合ったのだった。
この書き手は,すでに独自的な表現の境地を掴んでいる。とりわけユーモアをまぶした女性型の戦闘表現は,すでに誰の真似でもなく,似た表現センスは,少なくとも本格寄りミステリーのフィールドには見当たらない。身辺の描写,特に自身と周囲女性たちとの関係描写,とりわけその女性のだらしなさを活写する筆に抜群の冴えを見せるこれは,一頭地を抜いた鋭さに磨かれており,あきらかに最大の売りとなって,小説を下支えている。
攻撃的筆は冷たすぎず,ユーモアがまぶされているから読み手が不快にならず,悪口はそのまま吸引力に身を変えて,段落を魅力的にする。こうした見事な匙加減はもはやこの作者の体質になっていて,過去の少なくない創作量から芽をふいて,自然に成長してきたものに思われる。
ただし作者のこうした貴重な資質は,身辺雑記的な表記においてのみ発揮される傾向があり,物語の推進力への貢献度は低い。そもそもこうした能力をのびのび増大させる女性型の資質が,脳裏に去来,着床した刑事事件の質を,男女間の性的な方向に限定する傾向は感じられた。
この作者の興味対象はそのあたりに強くこだわって動かず,とりわけ強い自意識とともに,味方と見做しがたい女性を丹念に舐めまわしていく警戒の視線は,それ自体に独特の力があり,生じた緊迫感が,こちらをよく掴んで飽きさせない。そしてこうしたねちっこい視線の内部から,徐々に異常な物語が立ちあがっていく様子は,不気味でもあり,これもまた独自的な手法にまで高められた上手さであった。
文章には,とりあえず女性世界に普遍的な葛藤が充ちて感じられ,スリルがある。自らの身を守る損得にしか興味がない本心が隠されず,気持ちを弛緩させればつい息子の自慢に向かいそうな筆を,懸命に引き絞めてみても,視線は思うだけのユニークさを探り当てられず,またぞろ自慢の気分に戻って周辺を徘徊してしまう様子は,これが無自覚の作者の姿なのか,世にありがちな母親像の意図的,客観的な描写なのか,はかりかねるところがある。しかしこうした覚め加減の意識もまた,強気ゆえの渾然一体に埋没していく気配は,その観察自体が醍醐味ある読書である。
たとえば息子に接近してくるニーナをこき下ろす筆などは,こちらの膝を打たせる的確さと小気味よさがあって,「それにしても,馬糞ウニみたいなまつげとアイシャドーは,なんとかならないものか」といった表現には,なるほど確かにと,目から鱗が落ちるのを感じた。以来この優れた表現に長いこと感性が縛され,新宿や銀座を歩き,娘らの真っ黒な目を見るたびに,ああ馬糞ウニだ,こちらにも馬糞ウニと,こうした発見に気分が終始して困った。
息子が家に連れてきた大柄な娘,その巨大な背中に不快を感じ,ブーツを脱ぐのに異様に手間取るその背中は,狭い玄関をたちまち充たす動物性の香水とともにイライラ感を募らせて,安定していた自分の領域への危険な侵入者と認識してロックオンしていく。その経過中も言いようのない不安は募り続け,息子の防御一方に傾く母の本能的な思いは,のどかな男性の書き手にはない手に汗握るスリル感覚で,このエネルギー横溢感は,この書き手の独壇場である。
差し出されたフルーツケーキの箱に,駅構内の店だと瞬時に察しをつけ,来る道すがら,このあたりでよしと判断したその気合いの入らなさ加減は,自分を軽く見てのことか,単なる行儀心欠如か,来訪に込めている下心の量は,そのおざなりなやり方から洞察が可能か,などと測定心が自動的に起動する様子は,女性世界に,ホームズとはまったく違う推理世界の醍醐味が存在していたことを伝える。
そのケーキを,フォークを出す前に手づかみでむさぼるニーナの行儀の悪さは,こちらの警戒心の杞憂を宣言する彼女の幼さか,それとも何ごとか別の計算のあらわれか。
ホテトル嬢との情報も加わり,一瞬も気を抜かず,言動を舐めまわす主人公の視線の執拗さは,小説とは文体そのものであり,こうした一行ごとの反応にこそ読書の興奮はあって,事件などなくともこれで充分でしょう,と言わんばかりの主張を感じた。こうした迫力は説得的ではあるものの,不充分さもまた,そのうちにひそんでいた。
身辺雑記を特有な文体表現にまで高めた作者の観察能力の高さ,適切な言葉の探り当て方は充分な手柄というべきであるし,ここには方法論にまで高まった創作上の手法が潜んでいる。しかしそれゆえに,作者の視線はつばぜり合い的な地面から浮上せず,神の目に向かって俯瞰の高みに持ちあがりにくい身の重さも感じた。それは先に述べたような片寄った関心ゆえ,またそれに自信を持ちすぎたゆえに,身についた贅肉に思われる。
本格のミステリーが,驚きの装置としての人工性,またその設計力を要求してしまうものであるならば,自身の周囲にしか視線と,本音の興味が届かないこの体質は,他方に欠点も作りだすように見えた。
たとえば相手がホテトル嬢と認識することで繰り出していたある種睥睨と警戒の視線は,後半にいたると,自身の体を売ってしか生きられなかった女性なら,何故その勇気を褒めてやらないのかと,前段の自身の態度を忘れ,本気の主張に正義の怒りさえ滲ませてしまう狭視にも,無自覚に露呈する。
むろんこれは,前段のものは自身の生活の安定と,息子を守りたい親心が作用しており,乱暴態度も年齢差の女性同士ゆえとご容赦を願う慣例は,女性世界の流儀では通用するものの,これを構造設計の抽象に持ち込まれると,別次元由来のものであるから違和感がある。すなわちこの区別意識なしでは,辻褄の合った上手な設計は組み上がらないであろうという心配が生じる。
こうした物差しで,物語全体の推移のさせ方を観察すれば,やはり地にへばりつく視線から,無理に頑張るストーリーひねり出しの経過が透けて見えてしまい,狭視ゆえの苦しさを感じる。独自のものとして掴んだ表現力は,身辺雑記には冴えを見せるが,犯罪ストーリー進行の説明では,案外普通のものに堕してしまう。
女性の上品行儀の壊し方ゆえに,逆説的に性的タブーにばかり関心が向かうような行儀の逆立ちが感じられ,物語を限定的にした傾向はある。この物語内部における精子の迷走は,夫婦関係の垣根をひたすら壊して,往年の源氏物語世界を思わせるような妄想型の奔放さを持つ。
とはいえ,むろんこのような人間関係はあり得ることであり,信じられることでもあるが,物語の紡ぎ手の関心の片寄り,視界の狭さを示すものではある。このためにミステリー方向の着想においては案外行儀がよくて,斬新へ向けた大股の踏み込みは少なく,複数の事件のいずれもが,その外観も内部も,一定量前例定型に依存したものであり,「構音障害」以外のクリエイションは乏しい。
警察が犯人に対して仕掛けるトリックも,終始興奮的な趣向のアクション映画が行うある種の嘘の類に似ており,卑近な日常から非凡なリアルを巧みに紡ぎ出していた作者が,トリッキーな仕掛けをもくろむ方向では,自身の日常から大きく遊離した定型的ケレンに借りものを探して,大げさな嘘を掴み取っている不手際は疑えた。
こうした物語設計は,こちら方向への作者の関心は,息子に接近してきた娘への関心ほどには高くないことを語りそうで,実際このあたりの出来事を語る文章は,意外なまでにあっさりとして,前段に見る独自的表現の冴えは消えている。すなわち,自宅の玄関を出てのちの社会との関わりにおいては,作者に独自の秀でた視線は減少する。
しかし,誘拐された子供を守って決死の奮闘をする母親の強い思いは,非常な説得力があり,感動的でもあり,手に汗を握らせた生々しいリアリティは,他の追随を許さぬこの作者の独壇場に再びなっていた。この作品の優れた部分として,この事件部分は物語の良質な高まりになった。
また,ある種の子供に現れる「構音障害」という症例は,本格寄りのミステリーに相性の良い知的な趣向で,これを選んで作に持ちこんだことも優れた判断であった。この障害は,特にバイリンガルに現れやすいことが疑え,一見とっぴな変化に見えて,実は機械的な法則性が背後に潜むその発音の変化は,新たな暗号とその解読という趣向を作って魅力的であり,その知的な刺激は作の価値を高めていた。
ただこの知識には,もっと大きな効果を作ってもらいたい気分が強く,残念感も残った。構音障害の発見とその謎解きという事件の前と後で,物語に今以上の大きな段差が現れていれば,さらに傑作になったろうという思いはしばらく去らず,それはたとえば,物語が前段でいったん,犯人も見えるような暫定的な解決を見せており,構音障害の解読という事件が現れて,捜査がこのフィルターを通過すると,全体が劇的に変質して,まったく別の真犯人が示され,物語は飛躍的に前進して解決も現れる,そういった強烈なクライマックスのイメージである。
それが時空を隔てた現在の東京で起これば,さらに劇的であろう。これは,息子に連れられて家を訪ねてきた成人した仁奈の,癖のある発音から気づかれる──。こういった仕掛けがあれば,タイトルともよく呼応するし,この小説は十年に一度の傑作にならなかったか,とそういう俯瞰の思いであった。
第一回受賞の『玻璃の家』にも見たような仕掛けで,「構音障害」には,そうした大きな驚きを支えるに充分な学問的な重さも感じて期待したが,しかし同時に,『砂の器』という名作も思い出した。これも「カメダ」という発音を巡って国語研究所が登場するが,東北弁の点在の発見が,物語に抜本的な変貌をもたらすわけではない。脇に置かれた知的な装飾という位置づけであり,それで充分に効果的であった記憶なので,この作もこのままで受賞領域かと考えた。
非常に生真面目な作風と,生真面目な文体に好感を持った。『バイリンガル』が,女の性格の悪さがどこかで商品になると知っていることに対して,この作『ゴッホの肖像』は,そのようなものにまるで関心を持たず,あくまで行儀のよさを失わない。『バイリンガル』がジーンズのあちこちを破ったきわどい超ミニのファッションなら,こちらは体をすっかり隠した端正なパンツスーツという印象。
語られるものは,高層の密室ともいうべき堅牢な場所に置かれた,五十億の超名画の盗み出しだが,作者の主眼はそうした衆人監視下のマジックの構成になく,名画を主軸に織りなされる人間関係で,インターポールの捜査員シモーヌ・クラン,日本側警視庁を代表する国際三課の藤木ナルミ,こういう二人の独身女性の盗品追尾の行動,そしてこれを支える周囲の男たちの,こちらはややくたびれたプロぶり,さらには盗まれた絵画が導く東京の怪しげな暗がり,そこに息をひそめる不幸な人間たちの姿。こうした世界の広がりと,そこに生息する人間群像を描くことにこそ,魅力を感じて筆をおろしたことが解る。
二人の女性を描く作者の筆の運びは滑らかで,猜疑発想のわだかまりなど微塵もなく,憧れがおりにふれ,ごく自然に語られて,名画の魅力と,画家の生涯を点描する筆とともに,読後にまれな清涼感を残す。ドラマをまとう名画が,現代,画家の憧れた国でさらにまたひとつ,新たなドラマをまとう,そうした現場を巡る国際的な人材たちの舞台に強い憧れを感じて,作者はこの物語を構想したふうだ。
この作の魅力を,試しにピラミッド状にして示すならば,頂上にはゴッホ論,もしくはそれを主軸とした絵画論が載るように思う。この小説の最大の魅力は,恋愛にも似た深く熱い,ゴッホ芸術への作者の思い入れであろうと思う。作者のゴッホ作品への思いは純粋で,冷めることのない初恋に似る。なんの計算もないこういう姿を,横で眺める体験はすがすがしく,客観的に見てこの論文部分は,あたりさわりのない無難なあれではなく,新しさや独自性を含んでいるから,大勢に読まれてよい。
恋愛を経て選ぶ男により,女性の人生の質が変化し,決定されるように,書き手の投影であるこの女性主人公もまた,ゴッホの絵画によって自らの人生が変貌し,決定されている。
その次が,涼風を含むふうの,静謐で生真面目な人間描写の文体と思う。わずかな迷いを持ちながら,真摯な態度で人生を送る独身女性たちを中心に据え,その視線でとらえる,さまざまな職業人の男たちのスケッチ,といった順番になるであろうか。
そう了解すれば,この順はそのまま,この作者が『ゴッホの肖像』を書いた動機の順位になると思われる。この作を,不可能犯罪のジャンルに位置する本格のミステリーとしてみれば,警戒と監視が厳重な展覧会場から,世界的な名画がいかにして贋作とすり替えられたか,という挑戦趣味で読者を惹く趣向の小説家と期待する向きがあろうけれど,こうしたトリッキーな仕掛けへの挑戦心は,この作者の場合,ほぼ存在しない。この種のクリエイションは,この小説の魅力の順位の上位に,ということは作者の執筆動機の順位の上位に,来ないと思われる。
このことが,この作の爽やかな魅力であると同時に──というのは流れる端正な文体が,犯罪の隠蔽や,複雑なトリックの段取り説明に使われる無理がないという意味においてであるが──同時にそれが,この作の弱さにもなっていると,一読後,思わずにはいられなかった。
作者の最大の執筆動機は,ゴッホ絵画に対する自身の解釈の披瀝であり,それから発展する絵画論であった。この部分に,作者は何よりも情熱的になっている。現れたこれこそは,この創作の背骨であり,物語を作るさまざまな人間模様は,この太い骨にまといつく肉であった。
ためしに最初から順に,作者の繰り出すゴッホ論を拾ってみると,
たとえ自分以外に描くものがなかったといっても,これほど峻厳に自己を見つめるゴッホの目に,ナルミはゴッホ神話に伝えられるような狂気の影を見ることはできなかった。
ゴッホはむしろ有閑の芸術家的生き方ではなく,生産に次ぐ生産に追われた家内工場の職人のような律儀なあわただしさで,作品を生産していった。
しかしなんといってもゴッホが人をひきつけてやまないのは,彼が陥ったとされる狂気,その狂気の中でのたうちまわったあげく,不遇のうちに自殺に追い込まれたという彼の短い生涯の悲劇性,破滅性かもしれない。
フィンセント・ファン・ゴッホは,誰からも理解されることなく,生前一点の作品しか売れることなく,最も信頼したゴーギャンとも決別し,次第に神経を病んでいった──。
しかし作者はこの悲劇性を否定して,このように語る。
あなたのゴッホ観は,世の中のおおかたの理解を踏襲したものですね。ゴッホを最も悲劇的に,悲観的に見たもの。ゴッホを一番否定的に見ている。愛しているにも関わらず。
彼はゴーギャンとの激しいいさかいのあと,自分で自分の耳をそぎ落して,狂った人間と見られているけど,彼は決して気の狂った精神病者ではない。彼の苦しんだ発作は癲癇性のものであって,決して精神病ではない。
贋作を描いた画家には,このような言葉を送る。
あなたは,あのゴッホの自分を見つめる厳しい眼差しを見たでしょう。あなたの描いた贋作に,その厳しさはなかった。あの眼差しは,描いた時のあなたの心そのままに,あてどなくさまよい,自分をも,誰をもとらえていない。あなたの存在そのもののように,あやふやで,うろんな目つきに描かれていた。
あなたの描いたゴッホの自画像は,それなりにうまくできあがっていたわね。でもあの自画像で一番大切なゴッホの目は違っている。まったくのまがい物,あれはあなたの目よ!
このように大上段に振りかぶり,ゴッホの芸術やその死の事情と,一編の長編小説を通して終始格闘を続ける姿勢,そして真剣に言葉を紡ぎだす生真面目な態度は,それなりに感動的であり,心を打たれるものがある。彼女がこの長編執筆において,何を横においてもやりたかったことは,これであろう。
できることならこの生真面目な作品に本賞をあげたい思いはあったが,この熱い真摯さが,同時に構造の弱さも作ったことを,思わないではいられなかった。すなわち,この主軸に思いを注ぐあまり,それ以外の小説要素は,骨組みを含め,知らず定型的,類型的な,パターン借用で間に合わせてしまったように見えることである。
本格のミステリーとしては,行われる犯罪に先行の前例を越える意表を衝くやり口の案出がないこと,それではとゴッホ絵画論を含む,ミステリー風味の文芸作として本作を見ても,この作者に独自の起伏は,作中に起こし得ていず,全体的に平板な印象が拭えない。
追跡捜査のすえ明瞭になった犯行の手口も,意外に曲のない,常識的なものである。あまりに警備が手薄なので,このような会場なら,今後世界的な名画は貸し出されてこないのではと心配にもなる。
池田満寿夫の作を福山市で展示するというなら,あるいは買収された清掃員が作品を持ち出すことも可能かもしれないが,価値五十億の世界的な名画となれば,窃盗を予期したおびただしい監視や眺視の目が,瞬時の休みもなく現場や周辺を埋めているはずで,はたして計画細部のいずれの部分も露見せずに無事ことが運んだものかと,いささか疑問を持った。
事件捜査で順次洗い出される人物たちの人生も,なかなか類型的であり,行動は予定調和的である。むろん実際の捜査もこのようなものであろうし,これはこの作者の作風と了解するべきではあるものの,ノンフィクションでないならば,こちらの予想を裏切る展開は欲しくなる。受賞には,それなりに尖ったものが欲しい。
しかし登場人物たちの表情はよく見え,読後,去っていった独身女性たちの残り香は,なかなかあまいものがある。生活臭を上着に染み込ませた熟年男性たちの表情も,よく描けている。
世に出せる改善をもくろむなら,絵画のすり替えに,一部でもよいから,読み手の膝を打たせる,前例のないうまいアイデアを発見して入れ込むこと,人間ドラマの展開にも,読み手の予想を越える驚きを随所に仕込むことである。
またゴッホ論に,彼の印象派との関わり,ゴッホのこの芸術潮流への理解について読みたかった。またゴッホに贋作が現れやすい理由のひとつに,あのゼリービーンズを並べていくような独特の筆使いがあるのだが,これが何ゆえ生じたのか,という謎にもひと言触れて欲しい思いが,個人的には残った。ゴッホはこの筆使いが,作品を明るくすると信じていた可能性がある。また最近は,色弱説も台頭してきた。これらは,未だ解かれぬ謎である。
律儀に歌舞伎の古典名作のストーリーを追い,説明し,これを現代に敷衍して,この世界に絡んだ殺人事件が歌舞伎座で起こる。そして古式ゆかしいタイプの名探偵が行儀よくこれを追って謎を解き,適宜解説を加えながら,解明していく。
壮麗な古典的大伽藍を探求し,そのエッセンスを吸収,小説全体を同様の大伽藍に仕上げたいという野心は,理解も共感も持てる。おそらくこの作者は,こうした方法を作風にまで高めたいと考えているのであろう。高木彬光氏の名探偵,神津恭介を連想させるような端正なもの言いの名探偵も,なかなかに好ましい印象で,ジャンルの要請に忠実で,行儀のよい作風には好感が持てる。
しかしその好感は,いうなれば上役として見た際の行儀的な好感で,友人目線で抱く興味や興奮とは異なる。さらに言えば,本格ミステリーという文芸ジャンルに刺激を与え,新味や新手法を持ち込んで改革を為し,遠慮なく全体を牽引して欲しいと期待する者には,内容がいかにもおとなしすぎ,喰い足りなさを感じる読み物になった。
こうした気分ともおそらく関連があると思うのだが,歌舞伎座殺人事件の顛末を語る文章を,終始読みにくく感じた。読みにくいという言い方は正確ではない。文章は悪くないし,文字は追えるのだが,その文字が伝えるストーリー情報が,不思議に頭に留まらない。右から左にと思考を通過し,通り抜けていく印象であった。
理由は,まずは作家的個性の不足なのであろうと思う。構造にも文体にも,こちらの感性を刺激する突起がどこにもない。ユニークな事件発生も動機も,目新しい表現も,探り当てた風変わりだが適切な語彙というものもない。新たな本格創作論の提示もない。従来のスタイルを行儀よく踏襲し,平均的な達成を過不足なく行ったというふうで,減点法で採点すれば,点数は低くないと思われる。
こちらに興味を起こさせ,気分を掴んで作中世界に引き込んでくれる独自性が,待っても現れてこない。斬新はむしろ避け,ひたすらに平均的な文章が,平均的な物語を淡々と語っていく印象がある。
奇妙に様式美の構築をもくろむふうの意図はうかがえるのだが,その美も,最上の前例を模倣し,借りものにしてもこちらを圧倒してくるような輝きもない。その兆候も見えない。なにより作者の興奮や熱が伝わらない。書き手がどのような読者を想定して書いているのかが見えない。まさか賞の選者一人に宛てて書いているわけではないであろう。
歌舞伎に題材を借り,殺人事件が起こるが,しかしこれが特に風変りであったり残酷であったり,強烈な印象を放つわけでもない。ホラー的な雰囲気がともなうわけでも,殺人が起こり得ない物理的条件が完全に整っていたというわけでもない。歌舞伎の上演中に殺人が起こるのだが,その死体が特に詩的な現れ方をするわけでも,日本流の美意識をともなっているわけでもない。密室かと言えば,現場はそれに類するものではあるが,特に閉鎖性が高いわけではない。
込み入った事件が連続し,動機が語られれば,それは一応もっともらしいものなのであるが,全体構造に創案的な気配が乏しく,歌舞伎座で起こる殺人事件ならば,このような動機が適当であろう式の,後追い発想に受け取れてしまう。
作に入り込めない読書が続くと,何故この場所でこのような殺人事件が起こるのか。何故名探偵が現れて事件を追うのかが不明になり,ついにはこの小説が書かれた理由に共感が起こらない。この脱力気分を背後から押すものに,どうも作中のように具合よく,犠牲者に早い死が訪れそうもないという疑念もある。トリックも,それほど驚くべきものでも,膝を打たせるほどに意表を衝くものでもない。知識に属するものだから伏線も不在になり,アイデアも平均的なものである。
完全に密閉されているわけでもない場所で,移動可能な体力を残し,自殺する気分でいるわけでもない人間が,従順に酸欠死を待ってくれるか。また毒物には多く味があり,味覚が拒否の反射を起こし,撲殺のようにはすみやかな死が起こらないなか,悪心や嘔吐が起こり続けて,治療を求められそうな場所への移動願望も起こる。
「嘘っぱちの行儀論などくそくらえ」と言っているような『バイリンガル』の強い個性,行儀のよさはくずさないが,その枠の中で,涼やかな感性を独自領域まで高めたふうの『ゴッホの肖像』,そういった,創作物存在の,納得できる理由の痕跡が,優等生的な文中に,なかなか見つけられない印象だった。
おそらく作者は今回,古典の伝統的で高度な達成を借用するという方法に,少々自信を持ちすぎたのであろう。そのために,河上雅哉という一人の新人創作者個人の世界構築意欲が,おろそかになったと思われる。自分などが頑張るより,古典の力を借りた方がよほどよい,といった謙虚さである。そうならこれは大いに見当違いで,創作を始めた以上は謙虚になるのは誤りである。言うまでもないがこれは,作家の日常態度は横柄の方が点数が高いとか,それならいっそ他者に挨拶などはせず,威張って振る舞う判断をしてよいという意味ではない。
述べたことがはずれていないなら,この作者は,古典の形式に姿を借りるこの方法を試すのは,まだ時期が早いということである。もう少し小さな舞台で,何ものの援助も借りず,一から十まで自身の力で小世界を構築,運営して,本格の物語を一編,創りあげて見せて欲しいと願う。これが成功して創作の特有の手ごたえを体得してのち,当作に見るような方法を試せば,望む効果も得られると思う。
今回は,定評ある世界の偉容を借り,殺人,死体,名探偵といった,ジャンルの要請に忠実にしたがって書いてみたから,こちらに提出,評価を尋ねてきているといったふうで,それは行儀の採点を求めているにすぎない。当方は行儀態度の良否を,創作度高低の判定に加える予定はないから,順番が違っていると答えるほかはない。
探偵小説は,鼓動が高まるような強い謎が読みたいので,発生がむずかしい状況下で刑事事件を起こし,その謎の吸引力を最大限に高めたいから殺人事件を選択し,恐怖感が最大になるから奇怪な死体の出現を時に選ぶ。
日本型の美意識に惹かれ,今回はこれと相性のよい事件だと判断するから,歌舞伎の題材や,歌舞伎座を舞台に選び,推理論理の披瀝や,そのロジック展開のアクロバットに自信があるので,本格という形態を選ぶのである。こういう原則的な発想に,厳に立ち帰って物語を発想し直してもらえたらと思う。
すべてに相応の理由があり,上役に要求されるから,給料や出世の関係でそのように書いているわけではない。ただし,読者の側がこのルールに忠実に読書をしようと待ちかまえている場合は,そのルール盲信の裏面に,叙述のトリックを発生させる余地が生じることはある。
以前に若い人からこういう質問を受けて驚いたことがある。「作家になりたいのですが,どんな小説を書いたらよいでしょうか」。
これも,作家株式会社就職用の面接試験発想で,朝寝ができて,社会的な通り評価がまずまずの作家協会という組織の一員になるためには,どのような行儀態度が必要でしょうか,という質問である。書きたい小説があるから書き,結果として作家になるのであって,作家になりたいから書くべき小説を探す,というのは本末が転倒している。
むろん『仮名手本殺人事件』はそこまでではないし,よいところも多々ある。芝居観劇のたび,ひとつうしろの席に現れて,奇妙な言葉をささやく姿の見えない女のエピソードなど,非常に上手で,引き込まれる風景である。次回作は,こうしたリーダビリティの高いオリジナルのアイデアで,作の全体を充たして欲しいと願う。
複数のトリックが楽しめるミステリー。しかし,謎解きに傾くあまり,犯行にいたる動機が薄い点や,ありすぎる物証に対して無力な警察など,現実的でない点などが目立ちました。また,登場人物・空間に広がりをもたせるなど,小説としての魅力も必要かと思います。
舞台となる横溝作品に出てくるような地方の村が現代的に描かれている点や二十六夜の神事の由来など魅力を感じました。「佳子は自殺ではないのかもしれない」という疑念はもっと早く湧いたほうがよかったのではないでしょうか。
ミステリーを書きたい,という熱意は感じられます。ただ,物語を書くために必要な要素をしっかり調べて,実際にはどうなのか,自分の判る範囲で良いのでしっかり調べたうえで,物語を構築した方がよいと思います。警察の捜査は実際,どう捜査するのか,そうしたことを少しでも書き込むことでリアリティが高まります。幽霊というファンタジー的なものを盛りこむならば,なおのことです。
宝捜し物小説としては,面白く出来ていると思います。主人公の日常の描かれ方もよいと感じました。あとは,ミステリーの部分をいかに,構築した物語の中に落とし込むかということをプロットの段階で考えて欲しいです。この賞ではやはり「なぜ」「いかに」「どうして」といったものの想像と回答が必要になります。
各地の情景描写から場面ごとの温度や湿度までが感じられるような,上質な文章です。しかしミステリーとしては,登場人物の人となりから展開が予想できる,既視感のあるストーリーになってしまっています。