第9回 選考過程・選評応募総数105

第一次選考通過[ 24 ] | 最終選考[ 4 ] | 受賞作[ 1 ] | 優秀作[ 1 ] | 準優秀作[ 1 ]

受賞作

殺人者は手に弓を持っている須田狗一

梗概

一九四二年五月二七日、ナチスの国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒがプラハでテロリストの襲撃を受ける。ハイドリヒが運び込まれた病院に勤めていたドイツ人の実習医ベーレンブルッフはふとしたことから、ハイドリヒの死の病室に呼ばれ、美しいハイドリヒの妻リナと出会う。驚いたことに、リナは若いベーレンブルッフにある頼みごとを持ちかけてきた。
それから七十二年後、犬山市の山中で、心臓をえぐられ左腕を切り落とされた老人木島弥一郎の死体が発見される。残された右腕には、王維の七言絶句の入れ墨があった。明らかに木島に何らかの恨みを抱いている者の犯行と思われたが、終戦間もない頃から細々と喫茶店の店主を続けていた木島に恨みを抱く者はいなかった。さらに、金庫にあった一九八五年の手帳に、木島の筆跡で「手回しオルガンが死んだ」というポーランド語のメモが残されていたことが、ますます捜査陣を戸惑わせた。
その一か月後、今度はポーランドのクラクフで、ナチスハンターに資金を提供してきた会社経営者クシシュトフが、ユダヤ料理店から出て来たところを絞殺される。
その頃、私、翻譯家の吉村学は妻の香奈子とともに、たまたま知り合ったポーランドの女子留学生アンカの面倒をみていた。アンカの父親バルテク・ビドラは推理小説家だというので、苦労してバルテクの小説を翻訳するなど、両親とも交流を深める。しばらくは何事もなく留学生活を続けていたアンカだったが、冬のある日突然、過換気症候群の発作を起こし、何の挨拶もないままワルシャワに帰国してしまう。落胆する私のもとに、なぜか犬山警察署の刑事が尋ねて来て、アンカの写真がほしいと言う。木島が殺害された当日ポーランド人の若い女性と話していたという目撃情報があったというのだ。警察の捜査はそれっきりになったが、アンカへの疑念はつのるばかりだった。
そんな折、ポーランドのブリズニャク強制収容所で書かれた祖父アルベルトのポーランド語の日記を日本語に翻訳してほしいというアンカのメールが、ポーランドから送られてくる。どうして翻訳をしてほしいのか、その理由は翻訳が終わってから教えるという。その日記には、アルベルトと収容所医師ベーレンブルッフとの確執がつづられていた。その日記から、切り取られた木島の左腕には収容所の囚人番号の入れ墨があったのではないかと気づいた私は、妻の香奈子とともにワルシャワに行き、直接アンカと話をして疑惑をはらそうと決心する。しかし、その行動が空間と時間を隔てた三つの殺人事件を手繰り寄せることになるとは、その時は夢にも思っていなかった・・。

選評島田荘司

昨年の『アムステルダムの詭計』に続き、今年はこの文芸風味のミステリー挑戦作が、こちらをまたよく読者にしてくれた。賞選考にもかかわらず、文字を追っている間は終始楽しい読書であったし、中断している間は、早く作中に戻りたい気分にさせてくれた。また、ほぼ一気読みといってよい吸引力に助けられる読書でもあった。
福ミス選考を九年続けてきて、昨年から、新たな変貌が起りはじめているのを体感している。あるいはこれは、フィールド全体に及ぶ変化になるものかもしれず、推移を見守る思いでいる。八〇年代の新本格の台頭以降、創作のフィールドは、どこか「本格もの」の定型によりかかることで、ゲーム型類型読み物を描き、奇妙なことにはこれがコミュニティの行儀心と心得られて、ブーミング維持が、創作とは異質の日本型の行儀エネルギーにもサポートされた印象を持っている。
時間が経過した今日、もはやこれは個人的な感想とばかりも言えなくなった。孤島、吹雪の山荘、奇妙な建造物、密室、怪しげな住人たち、外来する名探偵、意外な犯人、こうしたコード化された条件が網羅を目指されながら、本格創作の競演は存在し、ここに危機感を持って警告を行うと、村八分的バッシングの連帯正義がたちまち目論まれた。ただしこれは悪いことばかりではなく、警告者への反発で、意地によってコード創作継続が頑張られた側面もあり、いささか皮肉めくが、批判の成果はあった。
視線を溯らせ、これ以前のわが創作フィールドを見れば、時代の先端風俗、あるいは時刻表を駆使しての列車の旅、贈収賄と利権がらみの社会悪の、定型的な告発、色と欲の社会描出への関心の提示、こうした清張流儀の推理小説の型に考慮し、あるいは大いに寄りかかって見せて、ここでも学校行事的に足並みの揃った創作が行われがちであった。
さらにその以前はというと、これは乱歩的な煽情性、玉ノ井や熱海の実事件に見た女性への猟奇的殺人、奇形的人体や異形の変形死体、すなわち江戸のお化け屋敷的な恐怖への関心という黎明期の探偵小説流行に寄りかかる行儀が見受けられて、こちらでもまた、こうした「日本型」の連続は、閉じた国内で観察し合う限りは、問題点がいささかも自覚されなかった。
しかし昨年の『アムステルダムの詭計』あたりから、これが変化を見せはじめた。この作にはそれでも清張を意識した創作姿勢が見受けられたが、先述の定型行儀からは徐々に自由になり、もしかするとこれこそが創作というものでは? の気づきとか、恐る恐るの自由模索の気配が感じられはじめた。文学的な意識や文章が遠慮を捨てて用いられ、近代自然主義の洗礼を受けたふうの恋愛小説の趣向も試されて、新しいミステリーの姿が立ち上がりはじめた。
今年の『殺人者は手に弓を持っている』の場合は、この傾向がさらに進んで、あきらかに先述したミステリー・スクールの行儀縛りを意識しない文体が感じられて、一般小説的な空気を感じた。しかし物語は、不可解な外観の殺人事件の謎解明を目指して開始される。すなわち、ミステリーの定型構造に文芸の手法を採り入れるのではなく、文芸の書き手が、自身のストーリー構築の内部に、ミステリー小説における読者吸引の方法、すなわちそれは前方の伏線と、印象の新しい謎の提示ということになるであろうが、こうしたミステリー・スキルの咀嚼、吸収を上手に行って、よく牽引される知的な物語が提出されたという印象になる。
さらに言うと、この小説において特筆すべきことは、輸入品としての近代自然主義への日本流の誤解がないことで、欧州を舞台に、欧州人との密な交際によって進展していく謎解きのストーリーにおいて、主人公の邦人に自己卑下の行儀誤解をまったく行わせないことも、文体を読みやすくしている。もっともこれは清張文体にも少なかったわけだが、清張呪縛下の時代、この古風なへりくだり趣向を、自身の独自性、それとも斬新と心得る作例は多く現れ、これに呼応して、自覚的、非自覚的は問わず、そうした気配を作中に神経質に探す行儀主義者も出現して、受け手のこの謙譲意識をくすぐる手当が道徳と心得られる不毛は、当時いささかなしとしなかった。
「本格ミステリー」が社会に登場して百八十年、日本においてもほぼ同程度の時間が経過しているわけだが、ようやくにして今日、こうした当然の自由ミステリーの時代が開花しつつある気配を感じて、ひそかに、理解者のない歓びを感じていることは、ジャンルの未来のために述べておく必要がある。
昨年の受賞、『アムステルダムの詭計』がこうした力作を再び呼び寄せたのであれば喜ばしいことであるし、日本のミステリー史が、事実こちらの期待通りに何度目かの、そして真に必要な変化の時を迎えているのであれば、これは見逃さないようにしたいし、大いに鼓舞もすべきの思いでいる。また過去にたびたび見たような、学校型行儀への集団誤導を、今度こそは避けなくてはならないと感じもする。多彩多様な開花の到来を邪魔しないようにすることは、われわれ先達の使命でもあろう。
ただしここで、評論筋からは反論が出るかもしれない。日本のエンターテインメント文壇においても、過去乱歩賞受賞作などに国際舞台での日本人の活躍を描くミステリーはあったし、「国際謀略小説」というジャンルもいっときは人気を誇っていた。この点はその通りであると思う。しかし当作は、そうした大仰な看板を必要としない市民同士の日常交流を描く小説で、私自身長く米国で暮らしたから、欧米でこうした市井の人々とのつき合いは多く経験した。若い白人娘との関わりも体験して、なんとリアルな交流世界がここに描かれているものかと、懐かしさを覚えた。
こうした小説は、おそらく日本から出ずに展開が空想されれば、日本行儀ベースの誤推察が、邦人の必要以上の卑屈態度や、一転格好よい(と日本人が考えがちの)威張りの暴走、若い女性の登場にはしとやかさばかりが盲目的に求められて、白人娘に特有の、時に横暴な自尊心言動の不在となって、海外を知る者にはいささかの違和感を作り出す。こうした傾向の賞挑戦作も過去多く読まされて、この違和感を共有できない選者同士で、選考会議が論争になったりもした。
この作においては、そういった違和感がいっさい感じられなかった。親日ポーランド人の日本人への敬意態度にも過不足がなく、おおよそこのような感じになるだろうと同意させられる。若いポーランド娘の描写も、美点ばかりでなく、欠点にもよく観察の目が届いて、これらはおそらく作者の語学の能力が、主人公の感性や判断、態度をビリーヴァブルにした。会話を通訳に頼りすぎると、異国人との距離が開きすぎて相手の友情が解らなくなり、日本型の行儀妄想が侵入しすぎてしまう。
小説において、書き手はつい自身の夢を描きがちであるから、市井の者同士の交流をベースの推移であっても、中心人物の日本人に母国語並みに英語を話させてしまいがちだが、外国語がかなり得意な日本人であっても、たまに出かける外国においては、英語を用いたコミュニケーションは、だいたいこの物語のようであろうと納得させられる。
ただし誤解がないように願いたいが、日本人が海外で活動する小説は必ずこのようでなくてはならないとは言っていない。流暢な現地語で、現地人と達者につき合う物語も当然あってよい。が、その場合、読者をよく信じさせるには日本型行儀の完璧な棚上げと、さまざまな現地流の友情への正確な理解、異文化への同化を語る諸手当も必要になってくるということである。冒頭にも述べたように、行儀や誠意の解釈が、日欧においてはかなり異なっている。
愚者の暴力の時代、と筆者が定義する激動の欧州近現代史、二人の人格を生きた一人の欧州人の数奇な運命、それを強制した時代の過酷と、死後なお子孫を巻き込んで悲劇を、それも地球規模で、連鎖的に作り出すまでの近代戦時の驚くべき因果を淡々と語るこの物語を読みながら、名前は忘れたのだが、ある英国の作家が言った、「人の生涯は真の自分を発見する旅。この発見に失敗したなら、ほかの何を発見しようとも、大したものではない」という言葉を思い出し続けた。
ついにこれほどの大規模機械化部隊を完成し、これを駆使して効率的で極限的な破壊と殺戮を続ける戦争形態に到達したヒトラー・ドイツの、迎撃不能のV2号にさらされ続けたロンドンの民であればこそ、作家がこのような言葉に到達したのであろうということを考えた。
ポーランド、ブリズニャク強制収容所、悪名高いユダヤ人絶滅収容所にドイツ人医師として勤務し、解放直前、ただ自分が生き延びるために、一人のポーランド囚人と入れ替わって長々と敵国に暮らした二つ目の人生は、彼とその家族に何をもたらしたか。ただ自らの延命のために選んだ異国での、自身を消した卑屈な生において、それでも彼は自身を高めることに成功し、真の自分を発見し得たか。この物語もまた、それを語ろうとして見える。
さて当作は、述べてきたような良質の創作と思うのだが、若干の不充分も感じた。結部にいたり、何通かの手紙が現れて前方の謎がすっかり説明されていくという構成に、印象がいきなり簡素化、平板化してしまったことを感じ、手抜きふうの喰い足りなさも感じた。致し方ないこととは思うし、自分もまたこのような判断をしてしまうかもしれないとは思いつつも、これだけのぶ厚い歴史を背後にした重厚な物語の後半は、引き続き彫りの深いドラマを読み続けたいという思いは勝った。
それはすなわち、展開のたび、こちらの意表を衝いて刺激してくる意外性の連環と、そのリアリティを期待するということなのであろうから、形式は手紙の語り文体であっても、そうした工夫はできるかもしれない。むろん高望みとは思うし、現状でいけないということではないのだが、これは欧州に、歴史的にもまれな試練を与えた神の厳しい横顔を描かんとする壮大な文章群であるのかもしれず、書き手がそうした自覚を得る時、後半の筆は変わってくるかもしれないと期待する。
まだ世界史には現れていない解釈だが、近代欧州を襲った空前の悲劇は、欧州人がアジア、アフリカの民をゆえなく苦しめ続けた、植民地加虐の傲慢への辻褄かもしれず、そうなら物語は、この悲劇を終わらせた極東の小帝国の軍事力への、神の皮肉なつぶやきを映すものかもしれない。
そうならタイトルにもまた、いくらかの違和感を感じる。『殺人者は手に弓を持っている』というタイトルは意図が少々解りづらく、理由は作中での言及が少ないことによる。個人的にはカタリンカ、すなわち「手回しオルガン」への言及の方が多かった印象がある。
この物語は、そのせわしないオルガンの調べに合わせ、空しい群舞を踊らされた膨大な欧州の罪人たちという印象であったから、「神の手回しオルガンの踊り」、とする方が合っているような感想が、個人的にはした。いずれにしても、タイトルにはもう一考の余地があると思う。

優秀作

さようなら、お母さん石井真由子

梗概

嵐の夜、奇病を患った男がその痛みに耐えかねて病院の窓から飛んだ。投身自殺を図った男の妹、笹岡玲央は兄を襲った症に納得出来ず、生物学者の幼馴染である利根川由紀に相談する。病に侵された兄は体の末端部、手足やペニスまでもが異常に腫れ上がり、地獄のような痛みに苛まれていたのだ。相談を受けた由紀は「毒」が原因ではないかと意外な言葉を発した。病の原因を探るにつれ、玲央は兄嫁、真奈美の奇妙な行動を耳にする。類まれな美しさと、献身的な態度で病院職員から称賛されていた真奈美であったが、その言動を恐れる人物もいたのだ。美しい悪魔が兄を地獄に突き落とした。そう確信する玲央だったが、由紀は真奈美の生まれ故郷である神津島行きを決める。島で古くから病院を営む真奈美の実家は、島民からの厚い信頼を受け、一人娘の真奈美も深く愛されていた。そんな中、幼少期の真奈美を知る人物から語られた言葉に玲央は戦慄する。「あの子は自分の足を石で潰していた」美しい未亡人、真奈美は本物の悪魔なのか―生物学者利根川由紀が謎に挑む、バイオロジカルミステリー。

選評島田荘司

この作品は、いろいろな意味で衝撃的な内容で、ローラーコースターに乗っているような、強烈なアップダウンに翻弄される読書であった。この内訳には、良質とばかりは言えないダウン要素もあり、構造的な問題点も感じられるのだが、新人のミステリー習作として誰もが想定するような定番的な殺人事件とか、もくろまれる平均的な展開、といった水準は大きく超えていたから、全体的に優れた才能が示された創作であったことはあきらかで、この点を高く評価したい。
良質とばかりは言えないの言葉から、多くの読者は、女性世界の唖然とするような醜い心理の描出とか、母子間の愛情という侵すべからざる美的聖域を、許されざる醜さに描いたことへの道義的な不快を思うかもしれないが、これはまったく違って、ここで言う問題点に、こうした点は含まれない。女性世界の真実の描写には深く鋭い洞察の視線を感じ、ひたすらに感心した。またこの真相の描出に用いられる語彙の適切さ、言い廻しの小気味よさには、わが身を飾らんとする鹿爪らしい文学賛辞の虚言などは遥かな過去において、新世紀型の自然主義はこのような人の営みの真実把握を目指すべき、の提案さえ漂って感じられた。
冒頭から展開する数々の衝撃は、何の予断も持たず、のどかな心持ちで作中世界に入ってきたこちらの、通常的な予想を超える光景が連続するゆえで、平和な日常気分の残滓が抜けないうちは、何故このような驚天動地の事象がここに存在するのか脳が処理できず、ショックを起こすためである。事態に対処すべく、押っ取り刀でいささかの耐性が立ち上がれば、気分のどこかにようやく背徳的な愉悦も生じはじめるのだが、これだけの翻弄感覚は、新人離れの手腕と感じて、作者は実にうまく、自身のツボ発揮のストーリーを探り当てたものと感心する。
この感心は、無難な体裁など蹴散らし、女性世界の醜さを隅々まで晒さんとするエネルギーもそうであるし、若い恋人との性的な関わりも、すさみきった心境で、女性が普段は心中深くに隠している、卑猥な言葉による冷えた現状認識に始まり、入院中の兄の奇病の、目を覆う悲惨にいたるまでは、平穏な日常に長々と浸かったこちらの安定を突き崩す凶暴として襲い続ける。
「冒頭の掴み」という俗な用語を用いる気になれば、その完璧な具現がここにはあって、いったいこれから何ごとが始まっていくのか、思わず失見当識にまで転落させられそうな醍醐味がある。これこそは作者が冒頭において存分に振るった渾身の一撃と理解した。
ところがこうした見事なスタートも、利根川由紀なる尊大おじさん型言動の名探偵が登場し、脇が囃す鳴り物とともに探索行動を開始するにおよんで、最初の失墜が訪れる。述べたような一頭地の抜けた会心のダッシュに期待が膨らみ、読み手としてのこちらの身構えも立ち上がって、必要な耐性も追いついたと思った途端に、同時に現れたこのほとんど平凡な借用の構図に、蹴つまずいて床に転がってしまうような意外を感じた。鋭い書き手と凡庸な書き手の二人がこの作には存在するようで、あまり嬉しくない気分の混乱とともに、ローラーコースターの急降下にも似た失望が起こり、この先の読書のエネルギーが損なわれるかと思うほどの、それは甚大な脱力であった。
理由のひとつは、言うまでもなかろうが、この威張り言辞を周囲に吐き散らす女の名探偵という型を、こちらはすでに山のように読まされてきているからで、有名なところでは、故泡坂妻夫氏の名作『乱れからくり』に登場する女性探偵の舞子が、親類縁者かと思うほどにこの由紀に似ている。
むろん威張りとはやや目的を異にする、二階堂蘭子のような成功した強い個性もあるが、多くの女性探偵たちは、いったいどうした計算からこのような、威張り大好きおじさんの男性言辞を借用し続けるのであろう。高度な心理洞察が信条の探偵にもかかわらず、女もまた威張りたいのは当然しごくの心理と理解するように見えて、今回は作者が男性でなく女性であるだけに、疑問はより深くなった。
こういう振る舞いは、江戸時代の泥棒が、唐草模様の風呂敷で頬かむりして、端を鼻の下で結ぶような、自らが主役なり、あるいは名探偵なりのユニフォーム、というコスプレ解釈なのであろうか。当作者はこうした権威志向の幼児性、女性の見え透いた見栄張りの不毛を打ち砕く決意を懐に、このストーリー語りを開始したのではなかったか。
このタイプの言動は、知能がさほど芳しくないおじさんが見せる二流の尊大願望で、これによって周囲の尊敬が集まる効果は皆無である。しかし女性がやれば、おじさんの見当違いな願望もうまく変質して、周囲の尊敬は集まり、探偵行動が効率的になるという予想が立つのであろうか。たとえば彼女はエライ人らしいと理解した市井人や、その深い威厳に恐れ入った警察官が主人公の指示によくしたがうようになったり、関係者の証言や犯人の自白がなめらかになって、捜査資料が開示されやすくなるといった、葵の印籠的な効能が予想できるのであろうか。
このような威圧言動が人間関係をスムーズにしたのは、士農工商の建前身分が厳然と存在し、違反すれば命の危険があった江戸の昔で、現代においては、単に気の遠くなるような艱難辛苦の開始にすぎない。男社会において、一人のおじさんがこの威張り発言を通すため、どれほど無駄な金と涙ぐましい演技と、時に自らを貶める悲惨な政治取引を行っているかは、過去たびたび解説してきた。酒場での財布をはたく目下への大盤振る舞い、娘のパンツ分け洗いを自白、ついでに眼前のママを口説いて振られる等の謙譲の実演によって、なんとか威張り言動への部下集団の不満を黙らせている政治行為にすぎない。この力の均衡に、敬意などはどこにも介在しない。
静かな玲央と尊大な由紀は、モテる美女と、威張り言辞で男に嫌われまくる不器量女子という、右のおじさん世界流の裏事情関係を持つのであろうか。しかし中段で、そうではない、由紀もけっこう美人なのだという、取ってつけたような配慮の言辞が現れる。これは玲央の勝利感から来る、女性らしい嘘と解すべきであろうか。そうならこれは、映像の見えない現実を利用した叙述トックの範疇に入る。
馬鹿げたカラ威張りの栄光にしがみつく男の幼稚など低く見ての、この観察物語ではなかったか。この物語において、案の定由紀も、無礼言動によって神津島の支倉医師を無意味に立腹させて情報量、協力量を狭めている。この言動を同世代や歳下の同性に押し通すならば問題がなくとも、敬意を演じるべき友人の母親や、年長の女性医師、女性教師、女性学者等の日本女性に行う際の極度の危険や、リアリティのなさを、作者はどう考えるのであろう。
そもそも威張り言動は、女性にも快感や利益をもたらすものであろうか。蜘蛛の子を散らすように、周囲の男が逃げ出すだけのように思えるのだが。このようにして周りの男に嫌われてやり、助手役の親友に好まれて、従順なサポートを得ようという計算なのであろうか。
さらにもう一点、欠陥ではないが、何ごとが起っているのか理解が追いつかないと思わせた玲央の兄、純が襲われている悪魔的な疫病も、由紀の趣味が毒物の研究と語られると、たちまち未知の毒を用いる例のパターンかと見当がついてしまうことも、いささか興趣をそがれる感があった。やむを得ないとは思うが、そこまで簡単な裏事情でなく、女性世界の鬼面に続いて見せられた悪魔的な光景は、もうひとひねり、ふたひねりを伴った未聞の事情を、つい期待してしまっていた。
しかし母親が、自分がお腹を痛めて世に出した分身を使って行う「代理ミュンヒハウゼン症候群」という新味の提示は、再びこちらの経験を越える新鮮さと驚きによって、ローラーコースターの上昇を感じさせるものがあった。しとやかであるはずの女性世界、その狂気が、迂回の末についにここに連続したと了解する快感は、展開を再び興味深くして、作中にもう一度強く引き戻してくれた。自身の体の一部であるわが子の肉体を用い、世間に挑みかかるようにして提示される演劇性の虚言は、抑え続けることを社会に強要された日本女性のエネルギーと相性がよく、強烈な衝撃性と不思議なリアリティを同時に感じさせて、読書体験をユニークに、興奮的にした。
後半、主人公玲央の果敢な行動により、とうとう犯人を追いつめたと思われる瞬間、立ち上がる暴力的などんでん返しもまたうまいと感じ、感心を思うのだが、翻弄されて夢中になりながらも、心のどこかを、猛烈な違和感の針で突かれる心地がした。
どんでん返しはストーリー展開を面白くしたし、必要な仕掛けとは了解するが、これをやると、代理ミュンヒハウゼン症候群の発現ではなくなってしまわないか!?と不平を叫びたい心地がしたのである。
しかしこれも、じっくりと考えてみれば破綻ではない。別にこの病名が、作の骨であるとタイトルに宣言されているわけではないし、時間軸を長く取って俯瞰すれば辻褄は合っている。たった今露見した真の犯人の罪状は、犠牲者との間にかなりの距離が見え、代理ミュンヒハウゼン症候群の発作とは看做しがたいのだが、遠い過去においてすでに、あきらかなそれを真犯人は行っており、たった今のこれは、その延長線上の行為だと、やがて理解が追いつくからである。
この作、殺人事件と、その犯人を疑わせる怪しい人物の発見という前段、後段で推理によるこの証明、同時に別の犯人の出現というどんでん返し、そういう本格ものの型を持ってはいる。しかしこうした骨組みの存在を忘れさせるほどに、骨にからんだ魚肉のしたたかな毒味は、当作をなかなか経験のできない強烈な読み物にしたと思う。
連続するユニークな毒の刺激が、大小の弱点や不満点を次第にごく些細なものに見せていく仕掛けを作は持っていて、最後にはよく満足感をもたらした。

準優秀作

合邦の密室稲羽白菟

梗概

【序段 文楽廻しの段】≪大阪文楽劇場と文楽ゆかりの淡路の離島――二か所で起こる発端の事件≫
文楽公演『摂州合邦辻』の出番直前、若手三味線方・冨澤絃二郎(とみさわげんじろう)は友人の文楽劇場職員・高津からの電話を受けた。淡路の離島・葦船島にある古い芝居小屋に調査出張中の高津は「珍しい人形を見つけた」と興奮気味に語る。
しかし詳細を伝えぬまま、その後、高津は島の岩場で転落死体となって発見される。
一方文楽劇場でも、人形の左遣いの青年・楠竹真悟が出番直前に持ち場から姿を消す異常事態が発生する。
「母に会いに行かねば」と言い残して消えた真悟の黒頭巾の下……その顔は、まるで芝居の中の『面態崩れる毒』を飲まされたかの様に変わり果ててしまっていた。
【二段目 生き人形の段】≪発見された奇妙な手記。探偵役・海神惣右介(わだつみそうすけ)の登場≫
絃二郎は行方不明の真悟を捜すため、同期の人形遣いとシェアしている彼のマンションを訪ねる。
『私は母に毒を飲まされた。父も母に殺された。喪服姿に黒い袖頭巾、異様な姿で帰宅した母は父の生首を持っていた。その生首は暗闇の中、宙に浮かび上がって消えた』――奇妙な内容が綴られた一冊のノートを、絃二郎は発見する。
出張公演先の東京、絃二郎は年下の親友で西陣の帯屋の息子、古典芸能能評論家・海神惣右介(わだつみそうすけ)と再会する。真悟と高津の件について、絃二郎は惣右介の洞察力を頼って相談をもちかける。
手記の中で「母の故郷」と書かれた葦船島へ、二人は調査に向かう事になる。
【三段目 島の段】≪過去と現在――時代に取り残された離島で起きた事件の謎≫
葦船島の船宿の一人息子・入江一平は、死んだ高津の事件に関していくつかの疑問を感じ続けていた――。
いわゆる「密室」状態になった舞台裏の倉庫から高津が姿を消した事。
死の直前まで劇場近くで電話をしていたと思われる高津の死体が、同時刻、島の反対側の岩場で発見された事。
そして、高津が調査していた倉庫に、人形の入っていない人形の箱が残されていた事。
……船宿の番をしながら、一平は事件の状況を回想する。
一方、絃二郎は島への出発直前、惣右介の指示で文楽の長老大夫に真悟のノートを見せに行く。
四十四年前、葦船島の旅公演の夜に起こった事件が手記の内容と関係があるのではないかと大夫は語る。その事件とは『連理のコンビ』として一時代を築いた大夫と三味線の、謎に包まれた男同士の心中事件だった……。(※比翼・連理=共に別ち難い絆の比喩)
島に到着した惣右介と絃二郎。そして、二人を案内をする一平。
島の神社や芝居小屋で、三人の青年たちの調査が始まる。
【四段目 比翼の段】≪浮かび上がる過去の事件。殺された名人の「比翼」の相方の正体とは……≫
惣右介たちは高津の遺体が見つかった岩場の上、玉島寺へと向かう。そこは四十四年前、殺害された三味線・冨澤段平の遺体が見つかった場所でもあった。
島の過去、文楽の過去……惣右介たちは過去の謎に足を踏み込んでゆく。
【五段目 解毒の段】≪幾山河を乗り越えて、織り直される事件の真相≫
過去と現在、それぞれの事件の真相に迫った惣右介は、長い時を経て再会した関係者たちの前で事件の謎と誤解を解いてゆく。
真悟失踪の真相。死の直前に高津が見つけた「人形」の正体。そして、母が子に飲ませた「毒」の真実。

縺れた謎の糸が解け、正しい姿に織り直された時……。
惣右介の推理の力は、はたして解毒の奇跡を起こす事が出来るのだろうか――?

選評島田荘司

非常に丁寧に描かれ、完成された、文楽への愛情を込めた「本格」挑戦、という理解になるであろう。この文芸への真摯な勉強と、本格ミステリーへの真剣な愛情が感じられて、好感を持って読んだ。
ただこの書き手の場合、丁寧に丹念にを目指すあまり、やや狭視になってしまって、目指されるべき全体の構図が見失われる傾向はあるかもしれない。格別、読みやすくするための計算が忘れられる傾向がある。すなわち自身の勉強や蘊蓄が優先されてしまうということである。
全体としては好ましい出来であるし、面白い部分、感動させる場面はあるのだが、一般の本格読者は、人形浄瑠璃という古典的な芸能文化に関心がないのが通例であろうから、そういう中で、四候補作中最も長大な枚数や、江戸流の漢文調タイトルの洪水は、エンターテインメント系の処女作として提出し、現代読者に購入を要請する作例としては、少々酷であろうと思う。こういうテーマを読みやすくするには、それ用の工夫が必要と思われる。
この作者は以前、やはり日本の古典芸能、歌舞伎への蘊蓄を駆使した一作をもって臨んでくれているが、この時よりは文章が柔らかく、読みやすく、また場の空気をよく含んで包容力を感じるありように成長しているので、こうした文体を生かし、作中の上出来の仕掛けや場面、感動を呼ぶシーン等は残して連ならせ、それほどでない要素は思い切りよく切り捨て、作のモーションをはっきりさせるのがよいと思う。メリハリを作ってテンポを出せば、傑作とすることができる筋と感じた。すなわち、傑作に生まれ変わる資質を持ったその材料の集合体という印象が、個人的にはした。
作者の目からはどれも重大で、愛情ある要素であろうから、到底切り捨てる部分の発見はできないであろうが、全体の構図の印象化に貢献していない登場人物の動きや、事件が作中にある。形式的に「本格」に身を寄せようとして無理が目立ち、存在の意味が乏しいと思わせる段もある。これらを大いに刈り込んで本格構造を明瞭にし、感動的場面をより強調すれば、そしてそれが五百枚前後の読みやすい長編となっていれば、今時珍しい古典芸能をテーマの、本格ミステリーの収穫になり得ると思う。
こちらが言う感動とは、子を捨てた母、それが謝罪されて涙の再会と抱擁、といったお涙頂戴の場面ではない。これらは月並みであり、なくてもよいと思うほどであるが、着地には必要な段取りなので、よりさりげなくさせながら、維持してよい。
選者が最も感動したのは、凡庸な三味線弾き瓢太郎がさらに手をくじき、ゆえにたいした演奏にはならないと伊勢大夫が覚悟して始めた因座「七化け」の演目、蝋燭の明かりが消えた下座の闇から聞こえてきた目を見張る天才的な三味線、という場面であった。
卓越した音を壇上に響かせる三味線の手、闇の下座にすわる謎の弾き手に、浄瑠璃を語りながらも目を見張る伊勢大夫という場面は素晴らしく、実に感動的であり、前例定型も見当たらず、しかもこの謎の弾き手が、この長い悲惨な物語を貫く一本の鍵を握ってもいるらしいという構図には、この小説が生まれついて宿している、傑作への因子を感じた。
惜しむらくは作者が、この圧倒的な場面の群を抜く重大性、文学性、そして貴重な底光りに気づいていないらしいことで、この場面を際立たせておき、冒頭でかなりの枚数を占めている、文化庁から大阪文楽劇場に派遣されてきた高津の起こす事件を思い切って捨て去ることで、贅肉が落ちると感じた。
作者は高津の顛末を必要で重要な導入と考えているが、この事件を全編に渡って生き生きとさせるには、かなりの手当が必要になると感じたし、先での本筋の語りに、いくらか邪魔になっている気配もある。高津の死の顛末が、この芸能物語の骨に、深く、必然的にからんでいるわけでもない。
どうしても捨てがたく思うなら、簡略化して先段で述べるのもよいが、それでは導入の役を担わせる意味がなくなるから本末が転倒する。これをなくすことで、作が短くなることよりも、構造がシンプルになり、それによって物語が目指し、解明すべき謎の構図が明瞭となって、読書への吸引力が増すことが期待できる。
そうして、いっそ楠竹真悟の大学ノートに描かれた手記から物語を始めてしまっても、冒頭の掴みは充分現れ得ると感じた。
そののち、富澤絃二郎による伊勢大夫訪問、そして聞き込みの内容にいきなりつなげてしまう。この時、下座の闇から壇を圧倒して響いた、知られざる天才三味線弾きの構図を印象的に描出する。
あとは、真悟の不手際、失踪、絃二郎が目撃した彼の顔の「面相崩れる激変」と続け、人形論開陳など、現状通りの進行になってよい。現状では謎を追う強いエネルギーの不在と、文楽の蘊蓄語りや漢文調タイトル頻出のせいもあり、場面転換の切れがなく、いささか読みづらい。
因座の闇から立ち上がる、天才的三味線弾きの演奏という鮮やかな場面は、先でもう一回程度活写されてもよいが、物語は、演奏を終えて直後、かき消すように消えて二度と現れない、この闇の天才オトコを探して進む、という骨太の構図にはっきりと転換するのがよい。そして実は女であったがゆえ、結部にいたるまで、決して見つかることがない。また段平の妻の不倫の見え方も、人消失などの、よりミステリアスな描写にする。
最終段階でこの三味線弾きを見つけ、当人と確認する手続きとして、現在隠遁しているこの人物に、三味線を弾かざるを得ない状況を作る、という作為も面白い。
むろん闇に浮かび、ふいに消え去る父の生首、誰であるのか不明の子に、謎の毒を呑ませ、笑い転げる鬼女としての母、不明の人物の面相崩れる激変、また慎吾の顔の病変など、付随する謎は周辺に多々あるが、これらは先例もありそうだし、むしろ従の要素ととらえる。
むろん勾玉形状の葦船島の、因座の枡席に現れる血にまみれた段平の生首、この陰惨な殺人を成したと思われる名人大夫、富竹古宇津保大夫の身投げ死体。これらの謎も、解明を目指す従の謎という位置づけになる。
ここに現れる謎のうち、母に毒を呑まされた子供は誰か、呑ませた母親は誰か、毒も何であるか解らない、というふうに、全部が謎であっては、謎の吸引力がぼやけることがある。謎はむしろ少なく絞る方が、深みが生じることは多い。
この作、生真面目な労作ではあるものの、現時点では優秀作にも届かないか、という位置にいるかもしれない。が、あきらかに傑作となり得る因子を胎中に宿している。

最終選考作品

プロメテウス・トラバース -豪州荒野の秘密-坂嶋竜

梗概

過疎化の進む故郷に複雑な思いを抱く釜石南高校の生徒・田沢美佳は未知の体験を求め、オーストラリアへ向かう。そしてシドニーの街角で殺人事件に遭遇する。死体が横たわっていた中庭は壁と床一面に林や動物の絵が描かれている場所で、美佳が発見したとき、そこは密室状況だった。警察の捜査によって観光できなくなることを危惧した美佳はたまたま同行していた氷藤洸司と共に犯人を捜す。
殺人事件は無事解決し、犯人は自首をするが、美佳はその過程で知り合ったロニ・狩武からウルル近くの荒野にある集落――グリーナンに同行するよう頼まれる。〝魔法使〞が企てている〝大地の灯〞計画を潰すために力を借りたいというのだ。先ほど起きた殺人事件も、ロニが持っている〝オージーの書〞を巡って起きたらしい。 頼みを断れきれなかった美佳は〝大地の灯〞計画や〝オージーの書〞の正体を教えられないままロニと共にオーストラリア大陸の中央に広がる荒野――アウトバックへと向かう。
荒野の中央に位置する都市アリス・スプリングスへ向かう大陸横断列車ザ・ガンの車中で美佳たちは〝オージーの書〞を狙う〝魔法使〞の手先〝魔獣〞に遭遇する。〝魔獣〞のかたわれが列車のスタッフだとすぐに判明する一方、もうひとりは正体不明のままだった。迫り来るタイムリミットを前に、ロニと美佳は夜を徹して話し合うなかで、その企みを見抜き、〝オージーの書〞を守りきる。
安堵したロニは美佳がグリーナンで果たすべき役割を告げる。二日後に行われる荒野祭で語り部になることがロニの望みだった。そうすれば〝大地の灯〞計画を潰すことができるのだという。また、美佳が抱いている故郷への葛藤、矛盾した感情はアウトバックに答えがあると告げる。
そうしてグリーナンに辿り着いた途端、〝魔法使〞が彼らの前に現れる。口論するロニと〝魔法使〞の話を聞き、〝大地の灯〞計画とは鉱山開発に関する利権を手に入れるためのものだと知らされる。そのためグリーナンは賛成派と反対派に二分されているらしい。美佳は自分の行動が集落の将来を左右することを知り、ロニにただ従うのではなく、荒野祭での行動を自分の意志で決めることが大事だと気付く。
どう行動するのが正しいのか考えるため、住人から話を聞こうとした矢先、集落にひとつしかない商店の店主の死体が発見される。酔って乱暴をはたらいたために幽閉されていた店主は豪雨によって水で満たされた地下室から見つかった。しかし、見つかった死体は溺死ではなく絞殺死体だった。
そんななか、〝魔法使〞は自分が殺人犯だと美佳に告げる。
絞殺に使われた紐は彼が触れた者に死をもたらす魔法をかけた紐であり、犯人として糾弾されるのは首を絞めた者ではなく自分だと言うのだ。それはおかしいと反論する美佳だったが、アボリジニの法の下ではそれが正しく、住人の誰も聞く耳を持たなかった。いくらロニと対立している相手でも他人の罪をかぶるのはおかしいと感じた美佳は事件の調査に乗り出す。
説得した結果、首長の命により、夜を徹して議論する〝闇の論法〞の開催が決まり、それまでに証拠を集めようと美佳はロニと奔走し、シドニーにいる氷藤洸司からヒントを貰いつつ真実に迫っていく。
そうして〝闇の論法〞が始まった。
口論していた相手、意見が異なった相手、さまざまな容疑者を挙げていくことで、論理的に犯人を指摘するすべを知らない住人たちに証拠から推論を積み重ねるとはどういうことかを示していく。そうしてようやく、美佳は証拠を元に真犯人の名を告げる。すべてを〝魔法使〞のせいにしようとする犯人に、美佳は論理で応戦し、何とか勝利する。 こうして殺人事件は解決した。
美佳はその過程で荒野に隠された秘密に気がつき、故郷への見方が変わるのを感じた。だが突然連絡してきた氷藤洸司の口から美佳の旅路は見立てだったのだと告げられる。
悩んだ末、荒野祭で美佳は〝オージーの書〞に書かれた物語ではなく、自分なりのメッセージを込めた自分なりの物語を口にする。そのおかげで〝大地の灯〞計画を失敗に終わらせる一方、〝魔法使〞の魔法を無効化しようとするロニのもくろみも泡と消えた。
美佳が選んだ未来、それは――すぐに結論を出すのではなく、みんなで話し合って満足行くまで議論を尽くすべきだということだった。たとえそれが、痛みを伴おうとも、急ぎすぎないこと。それが彼女の望んだ未来だった。

選評島田荘司

この作の読書は、今回の選考で一番の難物であった。日本女性の揺れる心を表す表現には卓越したうまさがあるのだが、同時にアニメの方法をそのまま受け入れたふうの若い、幼い感性も同居し、文章は新本格以降の、前例定型に寄りかかって疑問を持つべきでない、とする固い説明調が用いられ、その上で、叙述の作為を弄するのでない限り、細部までを正確に伝えるべきの「本格」の精神に対しては、どこか不徹底ですませてよしとするような、混乱した感覚が感じられた。
一人の日本人女子高生が、南の小大陸オーストラリア中央に、辛い歴史を持つ原住民アボリジニの集落を訪ね、道中連続した殺人事件と向き合いながら、同時に彼らの伝承とも向き合う。そしてついに、彼らの未来に大きな影響を与えるという、希有壮大な叙事詩とも言うべき志高い物語のはずなのだが、人間のドラマを読んだという印象が充分にはやって来ず、全体が衝立てのようにフラットで、長い長い取り扱い説明書を読んだような、小説らしからぬ後味が残ってしまう。この気分は大層不思議であった。
それは、積み木が横向きに並べられて連なっていくような、有機的な蠕動や弾性の感じられない硬直の文体によるところが大きい。しかし固定化した概念を読まされ続けるような、こうした固い説明文に出会うのははじめてのことではない。新本格が胎動してのちに現れた賞の挑戦作に、無数に出現して読まされた。
こうした文章精神が現れる理由は、「名探偵」に生まれついた人間、そしてその「助手」という、決して思考しない機械のごとき使用人に生まれついた人間が世の中にはいるという、いささか冷たい世界把握がもたらすものに思えて、こうした書き手の世界認識には、名探偵、警察官、探偵助手、一般人、そういった身分制度が厳に存在しているがごときで、どうして日本の若者の一部分がそういう意識になってしまうのかは、いつもまことに興味深く感じる。競争や挑戦の自由、あるいは気概が少年時代から早々と放棄され、数式のような乾いた諦観が実にしばしば、物語の中に現れる。
現実社会のリアリティをここで持ち出す要もなく、名探偵ほど安定しない存在はなく、周囲に多少頭がよく、洞察と論理思考に優れた人間がいれば、たちまち取って代わられてしまう不安定な存在で、絶えず自身の実力を示す競争を続け、襲いかかる凡人の嫉妬もかき分けて、歩留まり高く勝ち続けてきた存在、というにすぎない。
私立探偵という職業人なら存在するが、その上に「名」がつくのは、膨大な実績のたまものであって、「名探偵」という天賦の高身分が世に存するゆえではない。げんにこの物語においても、後半にいたれば主人公の女子高校生に簡単にその座を奪われて、陰が薄くなってしまっている。
清張呪縛の時代には、日本中のあらゆる推理小説において、名探偵はむろんのこと、一般的探偵も存在を許されなかった。書くのは勝手だが、それは決して陽が当ることのない、アマチュアのゲリラ行為だった。当時もまた身分制は厳然と存在して、上から警察官、官僚、クラブの女性、一般サラリーマン、と言うがごときだった。
ヒロインの女子高生が、氷藤という名探偵の家系に生まれついた男子高校生を、ほとんど無根拠に嫌悪する様子も、なかなか同調がむずかしい。この青年はどう見ても謙虚で、それほど性格が悪くはなく、完全無欠を自負するふうの女性主人公ほど、問題のある性格には思われない。
彼女の横暴な反感は、この男子高校生の性格に向けられたものというより、あらがいがたく世に存在している(と彼女が誤解している)身分制とか、その誤発想を無抵抗に受け入れ、したたかに使いこなそうとする自身の弱さに向けられたものに見える。そしてこれを他人のせいにする身勝手さがどうしても見え隠れして、こうした日本女性の屈折の型を描く筆は、この固い文章群にあっては異例の上手さで、成熟感性のたまものである。自身の能力に自負を持ちながら、大きく一歩を踏み出して目立ってしまうことへの女性らしい戸惑いと、それでも最後にはちゃんとすべてを手に入れてしまうしたたかさ、この作者が男性なら、こうした洞察視線はたいしたものと思う。
物語に限りなく似た、しかしどこかが違う、この膨大な文字群の伝えるところの解りにくさは、根底にこの日本型の屈折が根を張っているゆえに見えてしまう。このストーリーは、そもそも本格ミステリーの傑作を目指す精神で書かれているのか、それとも日本の一少女の夢見を語るファンタジーとして描かれたものか。連続する人死は現実なのか、各事件のディテールの輪郭のぼやけ具合は、格別これが現実でなくてもかまわないという、作者の独特の体質の現れなのか。説明文の体裁を取りながらも、現場の説明も、推理論理の提示も、たいてい不十分で終わってしまっている。
新本格世代の発想は作中に膨大な符号の集合を呼んで、この符号群がそれぞれ類型の動きを見せはするのだが、作者の視線が文字連想を越えたい興味を見せないので、事態は予定調和の連鎖になってしまい、こちらの予想を超える展開がなく、ゆえに生き生きした言い廻しも現れず、解りにくさは、説明体裁のままの報告文が、こちらの感性によく内容を届けてこないことによる。作者の本気は、結局のところ主人公の女子高生の心理とか、行動の顛末だけに向けられてしまっている。
魔法使い(ウィザード)、魔獣(ビースツ)、魔女(ウィッチ)、語り部(ミィス・テラ)、蒐集家(コレクタァ)、司祭(ビショップ)、商人(メァチャン)、芸術家(アーティスト)、音楽家(ミュージシャン)、闇の論法(ダークアーギュメント)、私の星(ミィステラ)等、符号は散在して、しかしこれらはただ磨かれてゲームの盤上に置かれた象牙のコマであり、言葉から連想される程度の行動は見せても、いたって普通の人たちであって、突き詰めれば主人公の女子高生を引き立てる、周囲のアクセサリー群としての効果しか持たない。
かと思うと魔法使いだけは、木の上から引力を消してゆるやかに地上におり立ったり、スケート選手のように片足を後方に跳ね上げたまま、非常な速度で荒野を滑走していってしまうなど、とんでもない運動能力を見せて、この超常識アクションの謎解きは最後まで行われないから、どうやら現実であるらしく、これにおいてのみは、作者は本格ものに必要な現実主義は棚上げにして、超自然の魔法を受け入れてしまっている。ここはやはりアニメ的若い感性の露見で、主人公の自我を語る成熟の筆と、まことにアンバランスを見せる。
身分制への依存主義や、アニメ感性ゆえの解りづらさをもう少し挙げてみると、建物の中庭で発生した密室殺人に対し、英語も解さない通りすがりの日本人高校生という素人に捜査を依頼するくだりも、なかなか常識離れがしている。主人公の美佳がそうするのならまだ解るが、現地の成人であるロニまでがこれを受け入れて氷藤に犯人探しを依頼するのは、どうした思惑と計算が心中にあるものかと、思わず考えすぎてしまう。
これもやはり「名探偵コナン」的で、氷藤が名探偵という天賦の符号であるから、という理解に思われる。また脇腹にナイフを刺された被害者が、わずかな時間で絶命し、素早く路上のモノと化している点も同意ができず、狂言を疑ってしまう。この種の傷なら、美佳やロニが駈けつけた頃合いにはまだ苦しんでいそうで、犯人が顔を見せれば指摘もしそうである。この場面も、ある人物に死体符号をかぶせたゆえの、いささかの簡略精神に思われる。
この事件の犯人は氷藤に指摘されておとなしく自首するが、二番目の大陸横断鉄道「ザ・ガン」内で、女主人公にしつこくして嫌われていたリベルを殺した犯人は、結局誰だったのであろうか。非常に説明が解りにくいし、展開上必要なものとしてこの事件を配したものの、作者は解決にあまり興味がなく見える。そしてこれらふたつの殺人事件はつながっては行かず、物語展開にそれほど重要な意味を持たないで放置されてしまう。続く三番目の殺人の犯人とも、二番目の犯人は違うようだ。
続いてグリーナンで起る水で満たされた地下室での殺人も、首に巻いて締めなくとも、触れれば人が死ぬらしい魔法の紐が登場して、どうにもモーションが解りづらくなっている。これでは相手の指先にでも紐を触れさせれば事足りる話になるから、何故紐や絞殺という形態を採ったのか。また魔法使いの息子が、この紐を、魔法をかけていない紐と取り替えたことによる効果が鮮明ではないし、意図が解りにくい。
作者の事件への関心は、各エピソード単位でぷつぷつと途切れてしまい、持続していくスタミナが不在である。これだけのスケールの物語を紡ぎ、一応本格を目指しながら、刑事事件への興味が不十分なこの散漫には、なんとも不思議な印象を持った。よって着地部分で、これまでの展開の総括を示すカタルシスが不存在となってしまい、これだけの長編を終えたという感慨が来ない。三つの殺人事件を貫く骨太の推理と把握、謎への興味と、その解明を目指して揺るぎのない態度や情熱が不在と見えるから、やはりこの作は、本格の精神を持たない、あるいはこれが希薄という判定でよいのであろう。
魔法使いや音楽家が、「あやつ」とか、「おぬしの」、などという戦国武将的な古風な語りをするので、先の探偵身分制とか、魔法現象の受け入れなどと並んで、これもまたアニメ崇拝感性の現れかと思う。
しかし洪水の夜、地下室の付近から聞こえた土着の楽器、ディジュリドゥの音の扱いは上手であり、この謎の真相提示の際に、本格ものらしい驚きと納得の効果が現れたことは評価ができる。ロニの性に関する意表を衝く真実の開示も、なかなか読み手を驚かせる。ただ惜しむらくはこれらは極地的なものであり、これによって全体がひっくり返るほどの劇的な効果は作り得ていない。それは先述したように、物語の進行につれ、全体を貫く骨太の推理論理が形成されていかないがゆえである。
英国のならず者たちと、豪州の先住民アボリジニとの悲惨の歴史には興味があるから、面白く読んだ部分はある。アボリジニに対する英国人の虐待はすさまじいものがあり、インド支配以上の大国の傲慢であったから、こうしたエピソードに対する言及は、もっとあってよい気が個人的にはしたし、そうなら作をさらに印象深くしたと思う。
しかし後半、日本からの単なる旅人美佳が、物語の語り部に異例抜擢され、ディジュリドゥ演奏者によって自身の娘だとまで評価されて、集落最重要の儀式、闇の論法(ダークアーギュメント)に参加を許されるくだりは、どこにそれほどの資格を語る特殊性が彼女に存したのか、少々不明であった。いささか現実的でないから、それこそこの長編自体が、田沢美佳の願望の夢見を語るファンタジーなのか、とも疑った。
結末の風景、美佳がロニに植えさせたユーカリの苗が、結局林を作ったのか作らなかったのかも表現が解りづらい。結末の描写は美佳の物語から七十五年の歳月が経過しているということらしいから、エピローグは西暦二〇七五年のグリーナンの風景か。
そこまでの未来の光景を、あえてここに提示する要があったのか。ここに立つ林の木々は実在か幻想か。幻の木々を用いて、子供たちがかくれんぼをしていると述べられるが、それでかくれんぼという遊びは成立するのか?
ストーリー全体、どこまでが現実で、どこまでが釜石の一女子高生の夢見の妄想であったのか、まことに境界が解りづらい、そういう不思議な印象が残った読書であった。
ただし右は、「本格」の物差しを当てた場合のものであって、アニメ系ラノベの物差しで測れば、良い風景も見えているし、読者もいる世界であろうと思う。

第1次選考通過作品

青髭高原伸安

選評担当編集者

次々と怪しい事件が起こるうえ、探偵役と思われた人物の死など、飽きさせない展開で、非常にリーダビリティが高い作品でした。ただ、世界観やトリック、最後のドンデン返しに既視感があります。また、横溝作品への多すぎる蘊蓄は、読者の興を削ぐことになりかねません。新人賞には、パロディやパスティーシュでなく、オリジナル作品を期待したいところです。

第1次選考通過作品

殺意のメビウス・リング若咲マリ

選評担当編集者

トリックに気を配り、頑張った作品でした。ただ、警察内の機構、警察官が容疑者になった場合の扱いや、死体に対する鑑識の調査方法などが、まだまだ足りていないところが残念でした。ミステリーを書く、警察小説を描く、といった思いを持って次作に挑んでください。

第1次選考通過作品

彼女は落ちてゆく、いつまでも藍沢砂糖

選評担当編集者

複数の人物の視点で同じ一日の経過が語られるので、重複した表現や記述が多くなり、テンポが犠牲になっています。学校の怪談+都市伝説のような印象で、企みのある作品だと思いましたが、企みが優先されすぎていて、不自然な設定や都合のよい登場人物の存在が気になりました。

第1次選考通過作品

完璧な殺人若咲マリ

選評担当編集者

こった殺人構図は、ミステリーとしての志を感じされるもので、好印象をもちました。本格をしっかりと作品にしようという思いが伝わってきます。物語中の時世と応募時の時世が異なる場合は、配慮が必要になりますので、その点に気をつけてください。