第一次選考通過[ 21 ] | 最終選考[ 4 ] | 受賞作[ 1 ] | 優秀作[ 1 ]
十二月の初旬,ストックホルムの市庁舎ではノーベル賞の晩餐会が開かれていた。晩餐会が佳境に入った頃,ノーベル医学生理学賞の受賞者である浅井由希子博士によるスピーチが始まる。
浅井博士は息子である浅井和己の治療の為に病気の研究をしていたのだが,彼は一年前,同級生による苛めによって自殺していた。浅井博士は苛めの真相を知ろうとするも,醜聞を恐れた学校は隠蔽してしまった。
とある生徒の密告により,苛めがあったことを確信した浅井博士は,彼らに復讐する為に自らが発見した紫班性筋硬化症候群のウイルスを世界中にばらまく。このウイルスに効果のあるワクチンの精製方法は現時点で彼女にしかわかっていない。
浅井博士は世界中に宣告する。もし,ワクチンの精製方法を教えて欲しければ,元一年B組の生徒達を尋問して苛めを自白させ,殺害せよと。こうして,人類史上,最大の復讐劇は幕を開けた。
浅井博士がスピーチを終えた翌日,長峰高校には不穏な気配が漂っていた。元一年B組の生徒達は体育館に集められ,警察関係者に軟禁されていた。事情がわからず生徒達は動揺する。彼らはやがて都内のホテルへと移送され,そこで苛めがあったのか,カウンセリングを受ける。
次第に苛めの詳細が分かり始めるも,ニュース番組の報道をきっかけにおしよせた万を超える群衆によって,生徒達は危険にさらされる。襲いかかる暴徒の手によって,教師や生徒達の数名が死亡するが,十五名ほどの生徒はからくも逃れることができた。殺害されることを恐れた生徒達は,警察を頼ることなく日本各地に潜伏することを選ぶ。
そんな生徒達の中に,野々村菜緒という十七歳の少女がいた。彼女は苛めにほとんど関わっていなかったのだが,なぜか,浅井博士の復讐の対象とされていた。野々村は山梨県のとあるペンションに潜伏しながら,恋人の奥村弘人に助けを求める。
奥村は彼女からのビデオメールを受け取ると,すぐに旅立ち,間一髪で暴漢に襲われていた野々村を助け出す。奥村と野々村は横浜にて潜伏を続ける。その間,元一年B組の生徒達は次から次へと殺され,ついに野々村が最後の一人となってしまった。
タイムリミットが迫る中,二人は日吉吾郎という老人に見つかってしまう。日吉は元刑事で,孫娘が紫班性筋硬化症候群に感染した為,一人で野々村を捜し回っていたのだ。
果たして野々村菜緒は殺されてしまうのか? 奥村弘人は最後まで彼女を守ることができたのか? 浅井博士はなぜ,こんな殺戮を行ったのか?
事件に関わった者全ての証言が集まった時,全貌が判明する。
それはあまりにも残酷で,壮麗で,完全な犯罪だった。
難病を持つ自分の息子を,学級内のいじめで殺害され,復讐に乗り出していく母親という構図は,現在旬の社会テーマであるから,この骨格でいくつもの力作や,ベストセラーが生まれている。当作品もその流れの内にあって,行動各所細部の法的な疑問点とか,社会的倫理観,医学上のリアリティなどにあえて目を閉じ,冷酷な報復に邁進する主人公を描いて,江戸以降の日本人が確信するところの死刑報応感情の正義に奉仕,あるいはくすぐった,胸のすく物語ということになるであろう。
残酷ないじめと殺害事件の発生から,これに報復する肉親の一途な行動,そして見事なその成就,という単純構造であるから,小説は猛烈なエネルギーで,こちらを一気に結末まで引っ張ってくれる。痛快で面白い一気読み小説に仕上がっていることは間違いないから,時の利を得れば読者によく買われる見込みもあり,その意味でジャンルの発展にも,あるいは貢献してくれるかもしれない。
文章も上手であり,細部から全体にかける奇妙な発想の歪みから,催奇的,奇形的組み上がりの問題作でありながら,登場人物の発言内容,そのたたずまいなどには不思議な成熟と安定が感じられて,作には充分な完成度があり,これ自体が,平和憲法順守を叫びながら問答無用に死刑を存置して議論を避け,倫理観の必要性を真顔で説きながら,社会各所に持続する理不尽ないじめや村八分は笑顔で行使する分裂型の日本人をよく映して感じられて,なかなか多くを考えさせられた。本賞受賞相当の達成感となれば,今回はこの作以外に考えられないであろう。
突風のごときストレートな構成,壮大な視野,読み手をあきさせないスピーディな展開とか,パニック各所に用意された加虐のアイデア,拷問動画のサイトへのアップなど,時代のツールの巧みな使いこなしは,娯楽映像に馴染み,サディスティックな感性を発展させつつある今日の大衆に,よく奉仕し,またアピールもするであろう新世紀エンターテインメントとして,一級の仕上がりを示している。映像化にも適した力作と言ってよい。
しかし同時に,釈然としない諸要素もまことに数多く,この作を一時的な流行商品とせず,時代の風化に堪え得る問題提起とするために,さまざまな改善の提案を行いたい気分が,次第に感心に勝っていった。しかしそうした分別臭い発想を作者が必要とし,受け入れるかどうかは大いに疑問でもあり,そのような行儀心を超越するがゆえの,アウトロー的面白さだとする主張はあり得る。また作者も,この作の支持者たちも,当作の長寿性うんぬんには興味がないかもしれない。
当作における作者の主張や真意がどのあたりにあるものか,各所に散見される思いきった表現が,作者自身の本心からの思想であるのか,それとも刹那的に歪んだ新世代に,あえて身を寄せた代弁であるのか,判定のむずかしいところがあった。
そもそも事件の発端となるいじめへの,客観的な分析や詳細説明がなく,点検不要の極悪として提示され,犯人生徒たちへの情無用の痛快な死刑が,無差別の一般殺戮にと発展していくのだが,こうした流血沙汰自体が人類に対する理不尽ないじめであって,翻って紫斑性筋硬化症候群患者へのクラス内いじめの原点に視線を戻せば,これにもまた,同様の歪んだ正義感や,懲罰意識が介在したかもしれない。かつてハンセン病患者への拉致的隔離や,断種強制の国策など,国家規模のいじめがわが国に実在した。こういう俯瞰の視線はおそらく作者には余計なことで,作中には存在していない。
かつて広域凶暴犯として全国指名手配され,死刑となった永山則夫の,赤貧洗うがごとき生い立ちや,それを放置した国家の責任も点検されるべき,の主張を思い出すが,ノーベル賞学者の利己的正義感に対する司法や行政側の主張も,常識依存の無能一方ではなく,もう少し有効な理屈の発露を望みたい気分になった。
以下で一応,具体的に各部分へ問題点と,これへの改善提案を述べておけば,まずは本格寄りを標榜する賞としては,もう少し謎→解決の全体構造と,これを完成するための推理論理活用の姿勢を持っていて欲しい気分は残る。いじめ殺人の発生と,この犯人への死刑報復という単純な背骨に沿い,各所にドラマティックな残虐事件が起こっていく,という暴力小説的な構築があるばかりで,大きく魅力的な謎はない,と見える。「本格ミステリー」としての体裁は,これでは不充分とする意見はあり得る。
すでに述べた事柄のひとつを,さらに具体的に述べると,パニックに陥った群衆から殺害対象となった一年B組の生徒たちを保護せんとし,おとりになって群衆の中に出ていった護送車が,殺気立った群衆に横倒しにされ,引きずり出された運転手が暴行を受けているニュース映像を見ながらの一年B組生徒の感想が,「もしかしたら自分たちもああなっていたかもしれない。そう思うと背筋がぞっとした」のみであるのには,喉に刺さる小骨に似た違和感が残る。
護送車の運転手にはなんの落ち度もなく,自分たちの身代わりで殺されつつあるのに,「ああ自分でなくてよかった」というだけの他人ごと安堵には,これまでの当賞挑戦者にはない,異業種的な異質感がある。もう少し切羽詰まった同情と,誠意に寄った感想があってもよいが,ないことを容認しても,公的な出版物としてはたしてこの意識でよいものか,しばし考えさせられる。自分さえ助かればよいのが人間として当然のことで,それ以外の感想など,すべて行儀の嘘なのでは? と問い返しそうなこの語りの勢いは,なるほどそうでなくては世間を埋める無差別大量殺戮の開始を,ある種好ましい期待で待つことはできないであろう,と納得させられもする。
同様のことは,ペンションで拘束した一年B組生徒への拷問にも見られる。電動ドリルで体の各所に深い穴を開けたのに,加害者たちはビールで歓談し,被害者はというと苦痛の呻き声を上げるでも,重症重篤化したり,ショック死したりするでもなく,翌日平然と加害者との会話に応じる。さながら機械に穴を開けたかのごとき冷たい把握もまた,他者の痛みへの無関心感性を示していそうではある。また他者の痛みなどに関心があっては,この弱者虐待の世間を勝ち抜いてはいけないとする若い反発も,言外に感じられる。
他者への加虐や,殺害への興味は時を追うごとにエスカレートするが,他者同情に向けて作者の筆が動くのは異性に限られているのも,得て勝手と言えば得て勝手で,これもまたこういう一般衆愚感性の代弁か,それとも作者自身の本気かは,判定がむずかしい。
ただ言えることは,やっかみ衆愚への本気迎合の立場をとらなくては,本が売れないという事情はある。先日のSTAP細胞事件も,理研の内部構造から論を起こし,この事件の抜本的歪みと,あるべき正当な姿を冷静に説いた主張は無視され,小保方晴子一人を極悪人とした主張が,熱狂的に大衆に迎えられる現実を見てもこれは解る。かつての「ロス疑惑事件」にもまた,完璧に同種の傾向があった。
以下は単純な不手際であるが,精神科医リエコ・アルヴェーンが,スウェーデン政府の意を受けて,拘束された浅井由希子博士との対話を開始するが,これがどの言語で行われているかの説明がない。英語であるのか,日本語なのか,それともスウェーデン語であるのかで,若干の思想上の差異や,口調,レトリックの相違が生じるように思う。これもまた書き手の狭視の現われとは考えないし,単に書き落としであろうけれども,当問題作の全体が奇形的妄想暴走の構造を採ることを思えば,作者の意識が本気,迎合どちら側かを示すキーが,あるいはここにひそむものかと,考察を始めたい思いは湧く。
改善提案の最大級テーマを最後に示せば,まずタイトルである。本作が,旧約聖書の『ヨブ記』を下敷きに,二十一世紀における宗教的問いかけを為した物語であるのなら,「ヨブ」の名をタイトルにもじらなくともよいのか。
そして,もしもこれを行わんと発想するのならであるが,『ヨブ記』とは,サタンの単純発想を活用した,神の思慮深い目論見を解いた物語ではなかったか。ヨブに対していったん許されるこの上のない暴虐は,いよいよの土壇場を待っての──この言葉も,この小説では浅からぬ意味が生じる,これは江戸期の斬首において,罪人の首を落とし込む大穴の,手前側の縁のことである──徹底救済を背後に隠し,神がその思惑通りにことを支配する顛末である。
紫斑性筋硬化症候群のワクチンを発見し得た天才,浅井由希子にとっては,この病のウイルスを遺伝子操作して,三ヶ月間だけは殺人的な猛威をふるうが,その時期を経過すれば完全に無力化する性質に変化させることは,造作もないように思われる。
そうなら,自身の産んだ息子を殺され,怒りでサタンであり神でもある身に変身した彼女が,衆愚に対して行使する懲罰は,段取り上『ヨブ記』における神の体裁を採るべきではなかったか。そうすれば,少ない材料からこの全体構造を洞察せんとする読者の思索に,本格としての思想性は宿るように思われる。
また重複する刑事事件としてのみこの物語を見ても,現状のままでは浅井が用意した少量であろうワクチンや,その製造法の解説書によってワクチンの製造が猛然と開始されても,そののち,世界中の重篤患者にそれが行きわたる前に,彼女の想定外の部分で時間がかかったり,あるいはイスラム国など,ある種の政治勢力に事態が利用されて製造や配達が遅れ,救命が間に合わない展開も考えられる。
STAP細胞も,説明書きだけでは製作は到底おぼついていない。また鳥インフルエンザ・ワクチンのように,その製造に,ニワトリやダチョウなど生体に依存するプロセスがあれば,製造時間の短縮はきかず,量は限りなく少ない。そうなればまごつく時間のうちに,免疫力減衰の罹患者から始まり,絶命はもと健康体の患者にも届いて,大量の死者は現れ得る。そのようなことはこちらの知ったことではない,と浅井の口が語るなら,要求をかなえたのちのこのパンデミックは,彼女の犯罪性を度しがたいものにする。
しかしこうした提案は,現時点での作者の思いに,あるいは不必要な迷いを生じさせるだけかもしれない。そうであれば助言は助言として保存し,売れ線をもくろむ出版物としてこのまま世に出され、誰にも実害のないサタンのシミュレーションとして、種痘的に世に供するのも一興と言うべきかも知れない。
二十一世紀初頭,エジプト人のソテル二世がローマ教皇に選出されると,《守護者》と名のる者がバチカンに現れた。かれらは,七世紀のコプト派修道院院長ベンヤミンが選んだ三名の後継者で,古代アレクサンドリア図書館発見の協力をバチカンに求めてきたのであった。その蔵書のすべてが失われたとされるアレクサンドリア図書館。しかし実際は,図書館長とコプト派修道院長によって書籍は密かに持ち出され保管されてきたのだと《守護者》は説明する。
貴重な書籍は果たして現存するのか。ソテル二世によるプロジェクトチームが活動を開始した。一方,この動きを嗅ぎつけた新興宗教家モーゲンソーやバチカンの保守派もそれぞれの思惑のもとに動きだした。
読み進めながら、感心に値する力作であることは思ったが、エンターテインメント小説としては果たしてどうであろうかと考えた。作者は、高等学校の世界史の教師であるそうだが、物語内部は生真面目で、その起伏の奔放性に関しては、教条感性から自由になれていず、いささか安全にすぎる、定型的な展開推移が用意されるばかりに感じた。
そもそも一般的な日本人は、相当な教養層であっても、古代地中海世界、最大の規模を誇ったアレキサンドリア図書館の、貴重で膨大な蔵書群の消失と、これの所在を突きとめて回収する探索のプロジェクトが、いかに高価値で、興奮的な性質のものであるかを説かれても、おそらく大半は、共感できないであろう。
これが卑弥呼の著作であるとか、神武天皇の自筆伝記とでも言うなら、日本の歴史好きの興味を惹くだろうが、原始キリスト教世界の、カトリックを頂きとする宗教社会の秩序を破壊し、世界に新宗教を興すほどの衝撃的な事件となると説かれても、多くはピンとこないであろう。
暗号小説としてみても、おびただしい前例の群れを凌駕するような仕掛けや、解読のドラマは作れていない。ミステリー門外漢が、こうした物語の結部なら、おおよそこのようなことであろうとして、前例から借用してきたふうのものではある。作者がタイトルに「暗号」を詠わなかったのも、こうした判断のゆえが推察される。しかしそれゆえに、物語が本来的に持つべきであった背骨が抜けてモーションのエネルギ―がゆるみ、全体のアピール力が不足して見えた。
世界史専門家にとっては金塊以上の宝物である、アレキサンドリア図書館蔵書の隠蔽場所も、千年以上も追求の目を逃れられるような、万人の盲点とまではちょっと思われない。スキュタレ―に頼らずとも、レバノンの探検家が偶然に発見していてもよさそうな場所である。蔵書発見の場面は、したがって誰かが仕掛けたトリックかと疑いたくなる常套性があり、ミステリー読書家に、膝を打たせそうではない。この点をもって上質作の資格を疑うミステリー愛好家も出そうで、したがってこの作を喜びそうな読み手の方向はなかなかに限られそうである。
考察は専門的であり、生涯を書けた研究者でなくては得られない貴重な情報とか、時間をかけて到達した作者自身の理解が、物語に載せて開陳される。しかしそれらも、一般にはとっつきが悪く、馴染みのある大衆ミステリーの定型、たとえばキリストの青森県戸来への来訪と、日本女性の妻帯、そしてかの地で没したとする俗説とか、数々の福音書から漏れ落ちた、うがてば布教の戦略上隠されたふうの、青年時代のキリストの人間的な行動録、こういうものに語りが接近するたび、都度日本読者の興味はいささか喚起されると、そういうことであろうかと想像する。
この作は、『たとえ世界に背いても』という、今回の福ミス最終候補作中、たまたまライヴァルに位置した強烈なエンターテインメント作の、測ったような対局の位置につけ、向こうがストレートな怒りを背景に、行儀発想や教条主義から潮笑的なまでに自由になり、快楽主義的殺戮合戦に、哄笑とともに没頭する不道徳暴走なら、こちらは生真面目な学問的考察によって丹念に構築した複雑な中心軸の前面に、教師らしい分別が許し得る限りの波乱を配した、教養的宝探し小説ということになるであろうか。
しかし物語が進むにつれ、世界史に興味を持つ者の目からすれば、淡々と、とてつもない内容が語られていることに目を見張るようになった。これはこれで、別種の方向から前例常識を突き抜ける設定である。
アレキサンドリア図書館から流失した蔵書には、ギリシア語に訳されたゾロアスター教や、仏教の経典までもが含まれ、さらにはアフリカ大陸に運ばれたアレキサンドロス大王の遺体の埋葬場所、ユダヤ人キリスト教徒の聖書、世に知られていない初期キリスト教時代の数々の写本、イエスの青年時代や、彼の死の前後を描いた書きものまでもが含まれる可能性が述べられる。
アメリカにいた時、敵対勢力の卑劣な仕打ちに、怒り狂って仲間に檄を飛ばし、武器を掲げて報復を訴える、青年時代の熱いキリストの姿を語る研究者がいた。これがもしも事実なら、冷静な神の姿にふさわしくないという判断で後世隠されたものであろうが、日本人が知る機会のなかった情熱的、戦闘的な彼の姿に、イエス・キリストの汗や体温が、猛烈な勢いでこちらに迫ってくる心地がしたものだった。
この物語によって、あの若いキリストの喉を絞る大声が思い出された。彼は生々しく実在し、そうならその頃の秘密の記録文書が存在してよい。その文字群は、神の魅力を増しこそすれ、減ずるものではないはずだ。
当物語の作中に見える情報がまったくの空想ではなく、一定量学問的な裏打ちを持つものなら、従来の日本のミステリー系エンターテインメントの教養水準を超えるし、まことに貴重な読み物ということになる。そういうことに、徐々に気づいた。
そしてこの作者が、自らの半生をかけて生真面目に追跡し、構築した一世一代の成果を、この小さな賞に無言であずけてきた思いが、こちらに痛いほどに理解された。そして猛烈な共振とともに、そうした思いに応えるべきと考えた。
いかに地味であろうとも、一般評価の獲得はむずかしかろうとも、この作が高度で貴重な学問的成果を擁し、たとえ広くない世界が対象であっても、まれな知的興奮を語るものであるなら、この作にもチャンスを残し、作者と編集者の今後の改善努力に期待して優秀作とすべきが、出版先達の誠意と信じた。
もと気象庁国際台風センター所長の武藤忠志は,現在は甲府市の甲斐大学で,准教授として教鞭をとっている。しかし彼は東京での所長時代,飲酒運転の車に妻子を轢き殺された苦い過去を持っていた。その後は再婚もせず,孤独な教員生活を送ってきている。
武藤の妻子を轢いた男は豊見城栄太といい,交通刑務所で服役したのち,沖縄に移って保険の外交員をしている。八月終わりのある日曜日,激しい台風が沖縄を襲った日の夕刻,豊見城は沖縄市の自宅マンションで,何者かに刺殺された。
沖縄県警の高嶺遼平と沖縄署の具志堅孝一は,豊見城に強い動機を抱く武藤准教授にたちまち狙いをつける。しかし事件当日,彼は沖縄市から遥かに離れた山梨県甲府市におり,朝の七時と夜の七時には,甲府市内の行きつけの喫茶店で食事をとっていた。この事実は,たまたま具志堅の信頼できる友人が居合わせ,証言したので疑えない。
そして巨大台風が直撃している沖縄には,その日船便も飛行機便も欠航しており,何人も沖縄に入る手段がない。大型台風という巨大な壁に守られた武藤のアリバイは,これ以上ないほどに強固で,しかし沖縄の捜査官たちの捜査に,沖縄在住の容疑者は浮かぶ気配がない。もしも武藤のしわざとすれば,彼はいったいどのようにして沖縄に入り,宿敵を殺して妻子の積年の怨みを晴らしたのか──。
こうした謎の設定は,清張時代の六,七〇年代,無数に読まされたアリバイ崩しの定石であり,懐かしい趣向である。謎→解決の骨組みは単純であるから,物語の意図は明快で,そうなら冒頭から着地まで一気に引っ張られ,読みやすい推理読書となるであろう。そういう期待があった。
ところがこのストーリーは,必ずしもそうはならなかった。そのような読書体験の実現には,多少牽引の力が足りない印象であった。作者がというよりも,この種の物語自身には,そうした潜在的な意図が宿るはずであるのに,中段でトルクが他所に逃げるような,読書の推進力が拡散するような,不思議な気配が感じられた。それは,少なくともふたつの点で,作者が計算を誤ったゆえであるように思われた。
そのひとつは,武藤への疑惑を持続し,台風に守られた彼の強固なアリバイを崩そうと奮闘する高嶺,具志堅両捜査員に対して,警察内部の人間たちが,早々と熱心な茶々を入れ始めることである。妨害の開始がいかにも早く,味方からの執拗な妨害に,作者がごく定型的な設計図しか持っていないことが,前半からいささか透けて見えはじめた。
台風という抵抗不能の自然現象の壁に,無力感を露呈する人間たち,という構図を作者が企図していることが早々と露見してしまえば,かえってこの小説の定型依存的構造,先での真相を含めた全体の常套性を,読み手に見抜かせてしまう。つまり,ではやはり武藤が真犯人なのであろう,と逆説的にこちらに推量させてしまう。われわれはこの手のものを,過去にさんざん読んできている。構造が定型であるから,展開も定型に填まれば,解決着地もまた定型と,読み手は早々と見当を持ってしまう。
このあたりの段取りの作り方は上手でなく,作者は裏面に用意した不可能性の主張に,いかにも性急になりすぎてしまった。このあたりの手続きは,頑張りすぎず,捜査の常道に流れをまかせて自然にすべきで,まずは沖縄在住の武藤以外の容疑者の洗い出しとか,彼らへの捜査聞きこみも,辛抱して徹底すべきであり,最終的に武藤に向かう予定は,この段階では隠される忍耐があってよい。作者が「空間密室」と呼びたい,台風が覆った沖縄へ,暴風雨をついて接近した船舶や航空機の危険も,もっと詳細に,具体的に聞かせて欲しい感覚があった。
こうした多面的な解説が,武藤犯人説を,いかに無理なものであるかをよく説明するであろうし,武藤をあきらめるよう説得する周囲の声も,現状より穏便であっても,充分な説得力を発揮して見えるはずである。その挙句,いかに不可能に見えても甲府の武藤しかあり得ないと結論されるなら,それがこの小説内部の世界を,さらに不可能趣味の霧で包んで,未聞の魅力に近づけたと思われる。
もう一点,作者の明らかな計算違いと思われる構成は,台風直撃下の沖縄への上陸を,ある方法によって行ったと,いったん突き止め,結論してしまったことで,そしてこれを支えたはずの米軍気象関係者へのアプローチと,証言の確保を,そののちの重大な段取りととらえ,物語のクライマックスに配置したことである。
読み手の大部分は,この不可能犯罪の謎解きを第一義に置いて,読書を続けてきているから,この物理的な謎解きを作者がしてしまってのちは,前方に控える証言確保の厄介を示す紙幅に対して,読み続ける熱意は低下するように思われる。
米軍気象関係者たちの証言の壁は,台風直撃下の沖縄上陸の謎に拮抗し得る,大きな興味であるとする作者のとらえ方は,読者の大半の感性とは齟齬している。そして作者のこの判断は,うがってとらえれば,「空間密室」と作者が呼んだ大きな謎も,実のところはある定型の範疇と作者自身が見切っている左証とも思われて,着地が見えはじめた段階でのこれは,是非とも避けて欲しい腰砕け感で,いささかの脱力であった。
米軍関係者の証言確保は,捜査員たちが目指すアリバイ崩し達成の最後のヤマとして,内部に取り込むべきが筋で,証言が得られないうちは未だ仮説のひとつにすぎず,到底快哉は叫べないと捜査員たちに厳に自覚させ,黙した邁進を為させるべきであった。そうすれば読書も一気のものとなり,着地の感動も,現状よりは増したと思われる。
しかし素朴な疑問が湧くのだが,いかに台風観測の専用機体と言えども,単に双発のプロペラ機が,本当に大型台風の暴風雨圏内を突っ切れるものなのであろうか。機体の耐久性をはじめとするこのあたりの理屈はどうなっているのか,もう少し状況を心得たい気がした。
とは言うものの,この作者は,これまでに習作を福ミスの候補作にまで昇らせてきており,充分な経験と,研磨を積んできてはいる。発言の背後に潜む容疑者の思惑とか,強い意志を宿してふるまう捜査陣の男気なども,充分に描ける筆力を獲得して見える。このレヴェルのアリバイ崩し物語は,現実にいくつも世に出て売られているから,したがって当作も,世に出て不自然ではない。もしもこの作を世に出したいと願う編集者がいたなら,トライすることに反対はしない。
しかし当賞において,これを佳作・優秀作と評価するには,あとわずか一歩の独自性が不足して感じられた。
当作は,本格系の賞への挑戦作としては少々珍しい体裁で,恋愛小説風味のミステリーと言うよりも,ミステリー風味の恋愛小説と見做すべき構造になっている。つまり事件の謎の解体より,恋愛の描写に,書き手の思いの重心はより大きくかかっている。こうした点に,この小説の美点も,また同時に弱点もひそむように思った。
構成は凝っていて,上手であるし,なにより洒落ている。物語は四つのパートに分かれていて,探偵の才も持つ主人公,辺利京の,五味由美への恋心の視線を軸に,四つの時代を経ながらともに成長していく姿を描く,明白な恋愛小説になっている。
最初の事件は二人の中学生時代,次の事件はその十四年後で,成人し,光ファイバーケーブルの営業技術の職に就いていた辺利が,クレーム処理で呼び出された先で,食堂で働く由美に再会し,刑事事件に関わる。
三話目はその八年後になり,由美はすでに結婚しており,辺利は彼女の夫に依頼されて刑事事件に関わって,人妻になった由美に出遭う。
四話目はそのさらに六年後,四十代になった辺利と由美は,三度目の再会を果たすが,由美はすでに夫と別れており,由美の人柄もどうやら粗暴さを脱して見えたので,長く持続していた辺利の思いは解放され,ようやくのように結実の季節を迎える。
この作品は長編だが,述べたような淡い四つの恋の寸劇は,同時に四つのミステリアスな事件をともなっていて,四編の本格ミステリー短編としても楽しめる仕掛けになっている。そしてそれぞれの事件はきちんと解決を見るのだが,二人の恋の方は前方の三話では成就の気配を見せず,それどころか辺利は,そのおのおので,もう二度と由美とは会うまいと決心を繰り返す。
しかし四つ目の事件にいたり,娘時代が持つ特有の青い冷酷さを脱して,ようやく成熟してみえる由美に,暖かい対応を受けることになって,一気に告白の気分になる。
とそういう構成になっていて,この小説は,全体で壮大な愛と別れと,結実のドラマとも読めるから,四つのミステリー短編の連作が,恋愛という強力な接着剤で一冊に束ねられた,実にうまい構成になっている。
こういう趣向は世の中にあるのだろうが,本格系の賞の選考では読んだ記憶がないので,構成の妙には大いに感心した。
また,一話目の事件のアイデアにも感心した。焼失した一軒の家の前,地面を覆う雪の上に止められていたらしい自動車が,ひと筋のタイヤ痕だけを遺して,近くの車道に消えているというミステリー。しかしこの感心は,この部分を幾度か読み返し,状況をよくよく理解したのちに訪れたから,まことに損な書き方に見えた。
この現象は,雪が周囲の一面を覆った家の前の地面から,近くの車道に向けてタイヤ痕がひと筋始まる不思議で,もしもこの車が車道をそれてやってきて停まり,また走り出て戻ったものなら,来た時のタイヤ痕とふた筋跡が遺るはずだが,それがない。その場所に長く止まっており,雪がやんでから走り出して去ったものなら,車の下になっていた地面には雪がないはずだ。しかしそこにちゃんと雪があるので,雪が降ってやんで,のちやってきて家の前で停車し,しかるのち昇天したのだと説明される。
気持ちは解るが,これだけでは説明が不充分に思われて,理解が釈然とせず,したがって感心も遅れた。つまり,雪が地面を覆ってから車がやってき,方向転換して停まり,その後,来た際のタイヤ痕が消える程度の量雪が降ってやんで,のちに走り出して車道に去れば,示された状況は現れ得る,よって格別不思議ではない,とそう感じてしまった。
しかし示された回答案は,なるほどそれなら面白いと同意できるものだったから,そうならもっと過不足のない上手な説明や,状況の作り方があったろうにと惜しまれた。
先に述べた,この恋愛志向作家の弱点は,まさしくこういう部分で,さっと小粋なひと筆書きの筆致が好きで,というよりも,達意の小説描写にはこれは不可欠と信じられていて,ために刑事事件の描写が,随所であきらかな説明不足に陥ることである。この種の才の筆感覚は,本格ミステリーの現場描写には適さないということを,長く賞選考をやっていて,いくたびか感じた。
この書き手にも,いささかその傾向があり,ミステリーの現場描写は今述べたが,由美にまつわる描写にも,そういうものが見られる。たとえば冒頭一ページ目に,
「ちょっと京,なにぼーっと立っているのよ。ぶつわよ」
と上から目線で怒られた主人公が,殴ったあとで「ぶつわよ」と言わないで欲しいとぼやき,かがんで鳩尾をさするので,ああそうか,凶暴な由美に,今彼は腹を殴られたのだとこちらが了解する,そういう部分がある。すなわち,「由美が辺利の腹を殴った」,とはっきり書かないことが粋と,書き手にどうやら心得られている。
こういう描写の技術,あるいは癖は,この先の,事件の推理を語る重大な部分にも現れてしまい,示された推理が,それで正解であったのか否かが,はっきり示されないままに物語が閉じられる傾向が見られた。
これは作者にとって,本格系の謎の解明よりも,恋愛の推移により関心が向いてしまっていることを示して感じられ,いささかの残念感覚になった。これは双方が等量に大事と言いたいが,正直なところ,恋愛の行く末は定型のものとして見当がつくから,個人的には刑事事件の解明がより重要と,主張したい気分で読んでいた。
そしてもうひとつ,これも個人的の範疇であるが,首をかしげたことがあり,またこれは必ずしも傷ではなく,選者たる私との体質の違いで,相性と呼ぶべきものかもしれないのだが,由美の言動の辛辣さを,主人公が小粋なジョークと解しているらしいことに,次第についていけなさを感じた。
たとえば「痛ッ。なによ猫背男,下ばっかり見て歩くんじゃないわよ!」と思いきり罵倒される辺利だが,しょっちゅうこんなことを言う女を,彼はどうして辛抱強く三十年も追いかけ続けるのかが,理解不能であった。
日本型の湿り気を含むこのようなただの威張り現象を,彼は心地のよい,しかもセンスあるジョークと受け止めているらしく,わがヒエラルキー社会では,このような安全な曲解に,人々は普通に到達するものなのかと,しばし黙考させられた。それともこうした一連の理不尽描写は,現代女性に対する作者の,精いっぱいの皮肉の群れなのであろうか。
由美のこの種の言動はいくらでもあり,「君に付き合う義理はないって言ったら?」と訊く辺利に,「大声で叫ぶわよ,先生この人,お尻触りました,って」と返すのは,これは面白くもなんともない,卑劣な冤罪誘導意図というものではないか。
お父さんが禿げているかどうかの議論の際,辺利の言がおそらくは正しいと知りながら,「そぉんな話,もう聞きたくな~い」と叫んで,強烈なミドルキックを辺利にくれ,さっさと走り去る由美。動けずにしばらく床で呻く辺利。
あるいは由美を助けた辺利を「こらっ,京」と叱りつけ,「助けてくれたお礼もさせてくれないで行っちゃうのはずるいぞ」と罵る。
また男らしく自らの感情を抑え,由美の別れた旦那の美点を語る辺利に,「京はずるい,なんでそんなこと私に話すの? 黙っていてくれたらよかったじゃない!」とまた罵り,返す刀でさらに,「京は自分が公明正大ないい人だと思っているかしれないけど,そうじゃない,ただの臆病者だ,真実かもしれない恐ろしい推理は胸にしまっておけ。そんな度胸もない。見損なった,馬鹿!」と叫ぶ。これは,由美はよほどの美女なのであろうか。
三度目の再会のおりには,「あんた天然ストーカー?」とまたおちょくる。言いたい放題の人生で,こういう女性に殴られ,蹴られ,罵倒されて,いったいいかなる理由から辺利は,三十年以上も黙々と由美を追いかけ続けたのか。その挙句,ちょっと気まぐれにキスなどされたら,たちまち気を失って「結婚して」と言いつのる,この辺利という男の常軌を逸した神経こそは,物語最大のミステリーと言うべきであった。
連続猟奇殺人事件をふたりのジャーナリストが中心となって追うものですが,最終的に人格障害とDNA操作に落とし込んでしまったのでは,新味に欠けるし納得感もありません。むしろ主人公の描写に二面性を感じ,同じ名前の別人物の設定かとも疑いました。
庭に埋められていた死体が掘り返され,それとともに戦争の亡霊が蘇り,隠されてきたいくつもの行為が暴かれる。と記すといかにもですが,全体に抑揚がなく一辺倒で,登場人物が多いのに誰の台詞かわからなくなるほど似たような話し方で視点も頻繁に変わります。これでは物語が読者に伝わりません。ころっと愛人ができたり証言者が現れたりとご都合主義に感じられてしまうのは著者が上手に読者を誘導できなかったからでしょう。
物語の起伏に欠けていて技術的には未熟な面も多いですが,ダークな悪漢小説として,またコンゲームとして面白味があります。プロット通りに物語を進めていくだけでなく,その中に生きる人間の機微をちりばめていくと深みが増すと思います。
本格ミステリー+伝奇SFを構想していたのでしょうが,伝奇部分の超常設定とミステリー部分がまったくかみ合っていません。異能者がこれだけいながら事件への関与は「入れないところに入った」だけで,あとは刑事小説のような地味な証拠固めとアリバイ崩しでは世界を作った意味がありません。せっかく独特な神話・世界を構築しようというなら,その世界律で事件は起こり解決されるべきだと思います。
王道の本格ミステリーで,いろんなトリックのオンパレードでした。世界観も独自で魅力的です。「機械と人間」「人工と自然」の対立・共存というテーマも考えさせられるもので,興味惹かれました。ただ,登場人物たちがただの駒になってしまっているような印象で,もう少し背景などを描きこんで活き活きと見せることができれば,より読者を引き込めるのではないでしょうか。今のままだと「パズル」感しか残らない読後感でした。
飄々とした主人公の書き方には好感がもてます。こうした人物をかけることは大事なことです。伝奇ミステリーとして読む場合の仕掛けが弱いことが残念。主人公の名前など謎の仕掛けに配慮して書いていただければと思います。
登場人物が活き活きと描かれ,テンポもよく,気持ちよく読み進めることができましたが,早い段階で謎がわかってしまい,ミステリーとしてはやや物足りない作品でした。
文章が荒く,読みづらかったです。謎の提示もわかりづらく,何をモチベーションに読めばよいのかわかりにくいです。物語全体の構成もうまくいっておらず,視点や時制がぶれることが多々あり,全体的に読みにくい印象を強めています。事件の構造自体は興味惹かれましたので,あとは構成・文章技術の問題かと思います。
読みやすい文体で,刑事たちのキャラクターにも好感がもてました。ただし,謎解きの過程がスピード感に欠け,もたもたした印象になってしまいました。
青春ミステリーとして楽しめる作品でしたが,ねずみ講をからめる手法は新鮮さに欠け,また「モロ」という言葉が人名だと気づかない設定にも無理がありました。
独特の世界観は作れているように思いましたが,ミステリーとしてはかなり弱い印象でした。何を謎とするのかもなかなかわかりませんし,超常現象的なものをそのまま放置してしまったり,と論理的に謎をといていく本格ミステリーとは言えない作品でした。
トライアスロンの大会作法など競技に関する知識の部分,一般に知られていないことも多く,非常に興味深く読みましたが,警察官である主人公が長期間単独捜査(しかもかなり効率の悪い方法で)をしていることで,小説全体のリアリティに疑問が生じてしまったのが残念です。
凝った仕掛けで読者を驚かそうとする意気込みに好感を持ちました。ミスリードを誘う伏線も鮮やかでしたが,肝心の写真のトリックに納得できませんでした。また,解題部分,霧島から聞いた話をもとにしているとすれば,詳細すぎて,霧島の知りえない情報が入りすぎていると感じました。
かつての恋人に再会した途端に殺されてしまう。その真相を探っていくと思わぬ過去と現実が浮かび上がってくるという,元新聞記者一人称視点のハードボイルド的な作品。『テロリストのパラソル』を思い出させましたが,構成や〆が雑な感じがしました。警視庁の捜査本部が立つほどの殺人事件でありながら簡単に被害者の入れ替え,海外移出などできるのでしょうか?運びが巧いだけに残念です。
組織の書き方に十分な配慮,検証をしてください。警察にしても,やくざにしてもその組織をしっかりと調べて書くことによりミステリーのリアリティは高まってきます。素人探偵を主人公する場合は特にそこが重要です。
本格ミステリーに挑む姿勢は評価します。その設定にどの程度の事件を絡ませるのか,を思考してください。また主人公が何故アイドルになれたのか,小説上の設定ではよくわかりません。設定作りにももう一考してください。
奇人集団の中で起きる奇妙な連続死。ある種のアンチミステリーの空気があり,奇人集団ならではの論理展開やトリッキーな犯行を期待しましたが,あまり感じられませんでした。後半のディスカッションに面白みもあるだけに残念。もっとユーモアと明確なキャラクタライズ,そして世界に見合った仕掛けが欲しかったです。