第一次選考通過 [ 17 ] | 最終選考 [ 4 ] | 受賞作 [ 1 ]
平成六年,梅雨の頃。老人保健施設の職員,四条典座は認知症の老人,安土マサヲと出会い,その凄惨な過去を知る。
昭和二十年八月十四日。終戦の前日,大阪を最大の空襲が襲った日。マサヲは夫と子供二人を殺し,首を刎ねたという。そして刎ねた子供たちの首を抱え,笑いながら自宅付近を彷徨い,保護されていた。
穏やかそうな老婆,マサヲが何故そんなことをしたのか。典座は調査を始めた。そして次々に不可解な事実を知ることになる。
午後一時五分,マサヲは,京橋駅のホームで目撃されていた。しかしその四十分後,生まれて間もない三男の満男と,首だけになった長男と次男を抱え,彼女は桃谷を彷徨っていたらしい。
京橋駅に彼女の姿があったと同時刻,京橋駅から五㎞離れた桃谷にあるマサヲの長屋は,大量の焼夷弾によって,立ち入ることなどできない猛火の密室となっていた。
そしてその時,京橋から桃谷にかけての一帯もまた猛烈な火の海と化しており,列車は不通となり,直線距離の移動などは不可能だった。
いったいどうやってマサヲは五㎞を移動した? 列車も使わず,京橋から桃谷にかけては歩くこともままならず,そんな状況下,わずか四十分間で。
そして千五百度をゆうに超える地獄の釜の底。マサヲは三人を殺し,その首を刎ねたというのか。
この一件でマサヲは精神を病み,戦後五十年間のほとんどを,精神病院に入退院を繰り返すことで生きてきた。
典座は,マサヲの住んでいた家を探し出す。するとそこには,死んだはずの夫と戦後になって延々ととり交わした,二百通もの不思議な手紙があった。
マサヲの三男,満男と連絡を取り,典座はより詳細な事実を求める。マサヲが殺したとされるのは,長男,次男と,夫の全雄の三人。三人とも首を切り離されていたが,全雄だけは両手首をも切り離され,焼け残った防火水槽の底から首とともに見つかっている。
その後,長男,次男の首を抱えて彷徨うマサヲは,保護された。何故夫の首だけは持ち去らず,しかも手首まで切り落としたのか。何故三男の満男だけは,殺さずに抱えていたのか。どうやって三人を殺し,何を使って首を刎ねたのか。そして胴体は結局三人とも見つからなかったが,処分した方法も解らずじまいだった。
発見当時,マサヲの所持していた品で凶器となりそうなものは,刃渡り五センチに満たない肥後の守,ひとつきりだった。
典座は関係者から,こんな話を聞き出す。空襲が激しくなるにつれ,全雄は,子供らを折檻するようになっていた。防火水槽の水に無理に子供らの顔を浸けたり,身体ごと中に押し込んだりというものだった。
激しい空襲の日,駆けつけた自宅の軒先で,マサヲはこの光景を見たのではないか。その時二人の子供たちがすでに折檻死させられていたとしたら,逆上したマサヲは夫を殺すのではないか──。首を抱えて彷徨ったのは,そうした凶行で精神がおかしくなったから──。人々はそう推察し,マサヲは殺人者とみなされて,京橋駅での目撃,四十分間での二地点の移動など,細かい疑問点については置き去りにされていた。
まもなく典座は,【大阪大空襲】という本に出遭う。それは八月十四日,東という憲兵の空襲下の体験記だった。猫間川暗渠という下水道が,川に捨水される地点で彼は軍用バイクを乗り捨てた。しかし,それが一瞬にして消えたという。
暗渠とは地下を流れる川だ。そして典座は,これがマサヲの事件と,時間も場所も重なっていることに気づく。暗渠は,京橋─桃谷間を地下でつないでいた。
猫間川暗渠とは,猫間川という川が,大正の末頃に暗渠化されたものだった。そして終戦当時には,この中を人が通れていたことも解った。
しかしあの空襲の日,たとえこの暗渠内を人が通れても,安全であったというだけで,距離が変わるわけではない。ここを通っても,四十分という短時間で移動ができるわけではないのだ。
憲兵のバイクか──? 典座は気づく。しかし暗渠の内径は,高さ一三六〇㎜,幅九一〇㎜。東がなくしたという軍用バイクは,全長二六〇〇㎜,全幅一八〇〇㎜,全高一四六〇㎜と大型で,幅・高さともに暗渠内は走れなかった。
死者と交わした二百通もの不思議な手紙。猫間川暗渠。消えたバイク。犯行のあった長屋の構造。材料は集まり,典座は核心に向かう。しかしすべての謎が解けるには,「阪神淡路大地震」という未曾有の大災害が必要だった。
大阪の町に大火災が発生し,それは五十年昔の地獄絵の再現だった。再開発地区に取り残された廃ビルの屋上に,マサヲの幼い二人の孫たちが取り残された。
自らの命を捨て,二人の子供を助けようとマサヲは決意する。そして,驚くべき行動を開始する。その意表を衝く姿に,人々はついに,五十年昔のあの大空襲の日,この地で起こった不思議な事件の,真の姿を知ることになる。
「伽羅の橋」は,非常に不思議な読書であった。前半は退屈し,読みながら何度も舟を漕ぐありさまだった。章内に,数字振りがされてなく,非常に長い章も,一気読みせよということらしかった。
漢字が多すぎるうえ,古風で読めないものもある。そうかと思えば,「大丈夫」などの一般的な語彙はヒラかれたままだ。登場人物の名前も,中心人物以外の者たちの名にまで非常にむずかしい漢字が当てられていて,その意図が不明だった。
劇的な内容を扱うのに,文章は奇妙に冷えていて,読み手を引き込む優しさ,親切さに乏しく,そっけなかったり,時に的確さを欠いていたり,そうかと思えば興奮がすぎて大げさになっていたり,かと思えば妙に描写が冗長になり,にもかかわらず必要な説明が落ちていたりした。
これらは新人にありがちな傾向で,つまるところ,文章書きの基本的な技術が習得されていないゆえに思われた。これらが,この作品のでき自体,まだ習作の段階にあるのではという不安な予感を,こちらに抱かせた。
ところが退屈に堪えて読み進めた後半,目を見張ることになった。数限りなく小説を読んできたこちらも,これまでに体験したことのない種類のダイナミックさを目撃し,目が覚めた。そしてこれまでの流すような読み方をあらため,居住まいを正すような気分になって,真剣に活字を追うことになった。
選評において,この種の書き方はこれまで避けてきたが,当作においては書かずにいられない。拙作「都市のトパーズ」や「開け勝鬨橋」,「大根奇聞」,これらの仕事によって蒔いてきた種が,自分の知らぬ場所で芽を吹き,育ち,足音を忍ばせて戻ってきていた。その孤独なDNAが,天の鉄槌によるようにして炎上し,滅びかかる大都会を,人知れず疾走する姿を見て,これは過去のあれら諸作の開花に思われて,背筋が痺れるような感動を味わった。
命も名誉も体裁も,考えられるすべてをうち捨て,ただ他者の命のために突進するその姿に,膝を抱くようにして片隅を生きてきた,この書き手のこれまで寡黙な日々を見た。世界のどこかには,こんなとんでもないことを構想してくれる人間がいたということに感謝したし,これほどに人を信じる魂がこの国にいたこと,そして小説の影響力というものはこれほどに強いものだったかなど,さまざまな思いに襲われて,これらが感動を深くした。これまで小説を書いてきて,ほとんどはじめて,報われたという気分を得た。
そうして次に,これほどに大きな,優れた着想が,これほどに退屈な前半を持ったことについて考えた。これがいったい,いかなる理由によるものかということが,非常に重大な問題になった。
文章力の不手際という点はさておき,まずは,冒頭に大看板が不足しているのでは,と思った。この物語は,複雑で壮大な内部を持つが,四条典座が,施設で向き合った老婆マサヲの着ている冤罪を晴らす,という単純な構造を背骨としている。このストーリーをしっかりと楽しむには,読者と典座が,これから始まる物語において,何を追跡し,何を解明していかなくてはならないのかといった理解を,前提として正確に持たないと,複雑な展開を理解しにくい。
この説明が冒頭段階で不足気味で,この説得が弱いため,続く二章,三章で典座がしている意味が読み手に伝わりにくい。それゆえ,こちらの気分が作中に強く引き込まれない。
さらには書き手の迷いと,いささかの混乱も作用していそうである。マサヲがかけられている冤罪は,大空襲下の猛火の中における,息子二人の殺害という疑惑なのか,夫全雄の息子殺しを目撃しての,報復的夫殺しなのか。この点がはっきりしない。書き手の態度が毅然としないと,読み手は道に迷ってしまう。
後段,孫を助けに向かうマサヲに,息子満男は,殺人癖のある母親が,孫を殺しに向かっている,だからとめて欲しい,と誤解を口にする。そうならマサヲが世間から着ている濡れ衣は,発狂による子殺しということになる。しかし梗概に作者は,マサヲは夫殺しの冤罪を着たふうだ,と書いている。わが子を殺した夫を見て,マサヲが逆上して夫を殺した,そう世間に判断されたという。
加えて,マサヲが冤罪に落ちた理由が,いささかぼんやりしている。子殺しの動機については,夫のわが子虐待の方が強調されており,母親マサヲの方には動機が存在していない。子供二人の生首を抱え,現場付近を笑いながら彷徨っていたことのみが子殺しの疑惑になったらしいが,そうなら彼女の狂気をよほど生々しく描写しておかないと,読み手の共感は期待できないであろう。
また作者は,彷徨う際に夫の首だけは抱えていなかったことが,夫殺しの疑惑につながったと考えているふうだが,これはどちらともいえない。子供の生首を抱えていたから,マサヲは子殺しの濡れ衣を着ている。そうなら夫の生首を抱えていても,夫殺しの疑惑はかぶる。むしろよりかぶるともいえそうである。
事件の日,マサヲは京橋駅で姿を目撃されている。この目撃が周囲に確認され,世間に膾炙されるなら,マサヲは現場に遅れることになりそうで,子殺し,夫殺しがむずかしくなる。この点をしっかりと調査すれば,マサヲの冤罪立証には効果がありそうである。しかしこの重大な点が,いささか放置気味に見えている。
この物語の向かう方向から言えば,過去の事件を調査してきた典座が,ついに冤罪を立証しきれずにいた時,まるで神の示唆のように阪神淡路大震災が勃発して,この猛火の下,マサヲの意表を衝く決死の行動が,瞬時に,無言で自身の冤罪を語る,とすることが理想であろう。そうなら物語の切れがあがり,後半の感動はさらに増すから,これがゴールとなろう。
けれども当作では,残念ながらこれが目指されていず,また空襲下における彼女の,意表を衝く大胆にして未聞の行為も,続くミステリー現象をあまり大きくしていず,少々歯がゆい思いを味わった。
「伽羅の橋」というタイトルのもとになった,子殺しと,その後の改心が,香りのよい橋をかけさせたという盗人の逸話も,この小説の背骨の投影形ではない。むしろ世間の誤解の方の投影形で,そうならこの話はミスディレクションなのだが,そういう扱いにもなっていず,むしろ感動の象徴と単純に考えられていて,ここにも作者の混乱がある。考えすぎて倒錯を起こし,この種の逆立ちした作者の迷いが連続して作を覆い,明快な背骨の貫きをむずかしくしていた。しかしこうしたことが可能な限り改善されるなら,この作品は十年に一度というほどの傑作となり得る。
この作者は,いうなれば下手糞なボクサーであった。ジャブの繰り出し方も,フットワークも,どうかすればグラブの付け方さえ知らない。しかし,目の覚めるような右ストレートだけを持っていた。そのとてつもない破壊力は,歴代のどんな名ボクサーも,一発でマットに沈めるほどのものだった。このストレートに惚れ込んで,ほかのいっさいを自分がやっていいとさえ,今自分は思っている。
福ミスは,二年目においてもこのような優れた着想の作品を得ることができ,幸運であった。受賞作はこれ以外にはあるまい。
後記。右に述べたような問題点は,その後の丹念な修正作業で,ことごとくクリアされた。これによって,この作はまれに見る傑作となり得たように感じている。
本格ミステリーとしての論理性の印象は,この作品がきわだっていた。よく練られた作品内部は,細部にわたって実に込み入っていて,設計がよく考えられている。これによって進行する事件も,充分に意表をつく要素が次々に混入して,なかなか読み手をあきさせない構成にはなっている。
表面に見える事件推移の背後には,実はそれに倍する広がりが用意されていて,読み手の予想より,作者の営為が常に先を行く。こうした奇妙な小事件が何故起こっていくのかを読者側に読ませず,意表を衝き続ける。これは作の深みとなって,当作が充分に上等な出来であることをこちらに伝え続ける。
後段にかかり,結部にいたれば,前段のこういう熟考の仕込みが,探偵役を中心として謎が解かれる際に,説得力と論理性の際立ちを増した。本格のミステリー小説としての知性を当作が最もよく感じさせたし,構成の妙と,細部の辻褄の合い方,それゆえの論理の印象のたち方から,この作が最も本格ミステリーのジャンルを名乗るにふさわしかったし,作の完成度も高かったと感じる。
冒頭における読み手掴みの印象も,「連坐」の冒頭の衝撃性に迫るだけの強さがあった。江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」とも似た背徳の悦楽を語る手記は,読み手の興味を掴んで,よくこちらを作中に引き込んだ。
手記の舞台となる建物も,こうした目的のために計画されたものとしてはなかなかユニークで,未体験性がある。しかも建物の特殊性は,ひそやかな趣味の散歩を成すために必然的な形態であって,無理に奇をてらったものでないところにも好感を持った。
さらには,こうした建物を舞台とした手記の通俗性,不行儀発想に,多少の抵抗感を感じはじめたあたりで,実は手記のストーリーは現実ではなく,作中人物の創作らしいと語られるあたりにも,作者の営為の深さに感心したし,この作がありがちな素人的習作ではないことをこちらに伝えて,期待が高まった。
文章力も,必要にして充分なうまさがあり,何より論理的にことを説明していく文体に,非凡な筆力を感じた。これもまた,この書き手が本格ミステリーに天分があることを示している。
しかし,手記はどうやら創作と匂わせたあたりから,おそらくは作者の計算外の吸引力の失調が起こりはじめた。作者のたくらみの深さに,こちら内部の感心が始まっているのに,これを引き受けて関心を持続させるべき次の仕掛けが,こちらの期待を下廻って,貧弱なほどの印象を発しはじめた。
探偵役とおぼしき人物を含み,登場人物たちの会話が始まると,驚くほどの月並みな世界が始まってしまったと感じた。前段の期待が大きすぎたせいもあるのだが,長い選考委員体験で無数に読まされた候補作に,繰り返し現れていた類の凡庸な作為が始まったように感じてしまい,やや読書の力が抜けた。
失礼を承知で言えば,前段の迫力や非凡性,成熟者の計算も,実はこのレヴェルの発想によってたまたま成されたのか,というような意外感,失望感であった。それは冒頭の手記が,実は前半部分は本物であり,後半は,筆者以外の人物が発見して手を加え,完成していたものらしい,と説明されるにいたっても,前段に抱いたほどの強い関心が,まるでよみがえらないというほどのものであった。
では何がいったいいけなかったのかと言えば,物語の捜査側,特にその軸となる探偵役に,冒頭の手記や,複雑で深いたくらみと対峙するに足る頭脳的態度や,自信,成熟などが感じられなかったから,ということにつきそうである。
さらには探偵役周辺の人物像の設定にも,よくない意味での若さや未熟,線の細さ,決断力の乏しい気配を感じて,バランスの悪さを思うことになった。これはむろん,和製ハードボイルドの探偵たちに見るような格好よく威張ったやくざ的態度を要求しているわけではなく,その逆で,男たちの言葉の端々に,傍観につながりそうな冷えた態度や,優しさや包容力の不足を感じた。
登場人物たちの線の細さ,個性の乏しさは,事件構造の込み入り方を説明する後段にいたれば,その複雑さを立体的に見せないことに貢献して,論理の込み入りを読み手に追跡しにくくさせ,複雑さを興奮に変えにくく,単にややこしいと感じさせそうでもあった。
そう思いはじめたら,宗教団体「スーパーセンス研究会」の勧誘員たちにも奇妙な油気のなさ,あくや個性の乏しさ,線の細さを感じて,その威圧感の不足は,このピースを持ち出した意図を生かしきれていないと感じさせたり,新興宗教団体という定型の道具立てを持ち出すこと自体にも,未聞なものに切り込まんとする,作者のおとなとしての決意の不足を感じたりしはじめて,評価に負の連鎖が起こった。
とはいえ,これらは自分に独自の感想かも知れず,この作の本格度がなかなか高いことは事実であるから,前年度のような次点作にこの作を位置づけてもよいか,とも感じている。
「罪の行方」が最も本格度が高いなら,「堕天使の羽根」は,最もミステリー度が高かったといえる。幻想性がきわめて強い印象の作で,登場人物の娘たちの動きに美も感じさせて,最近流行の日常の謎のセンスでストーリーを展開させたうえに,幻想小説の趣向をも持ち込んで加えた,若者演出による,不可能趣味のミステリーの佳作と感じた。
ただしこれもまた,最近ではある種のパターンと化していて,現実世界に降臨した悪魔ルシフェルによって,思いがけず悪魔的な自身の内面を覗かされたり,悪魔に調教され,人間的に大きく成長させられるという趣向のストーリーを,某週刊誌の連載漫画で読んだ。高校生が天使となって空を飛行したり,壁を抜けて殺害対象の部屋に侵入したりといったイメージもまた,どこかには先行存在しそうである。その証拠に,作中のミステリー現象の説明には,独自にミステリーを着想する際にはたいていこぼれ落ちる詩美性が乏しく,引用ふうの短絡表現を感じる。
こうした先行ストーリーを参考とすることや,借用が,必ずしもいけないわけではないが,そうならこの作者の表現の独自性は,あまり高くないことになる。こうしたファンタジーのイメージが,もしも本格ミステリーの作為に応用できるなら,達成は高くなりそうだという着眼はよく解るし,悪くない挑戦と思う。しかしそうなら,ストーリーは本格の鋳型に合うような改造が要求されるはずである。無思慮,無防備な転用は,往々にして計算違いを引き起こす。この作にもそれは,多少とは言わず,感じられた。
悪魔の降臨と,人間の悪魔化,そして悪魔的な超能力の付与,そのように説明されたのちに起こる殺人事件は,その説明のストーリーをよくなぞって,現実には起こしえない超常現象の発生と見える。殺害行為をもくろむ者が動機対象を殺す夢を見れば,その内容通りの死体が現実世界にも出現する。
さらにこれを目撃した者は,裸体に白い翼の生えた天使が殺人を成すのを見たと証言し,現場には血にまみれた死体のそばに,白い羽根が一本落ちている。さあはたしてこんなことが,現実レヴェルの理解力が納得するかたちに説明が可能か,といったこれは,書き手の挑戦趣向と見えた。
この作者の文章力は,こうしたミステリーを表現するためには,必要にして充分なだけの力量はあるといってよかろう。登場人物に今日ふうの若者会話をさせる力も,男女ともを含め,必要なだけの力はあるように感じた。
しかし後段の謎解きにいたり,これだけのミステリー現象を,現実のものに解体せんと奮闘する文体は,いささか苦しく,こじつけが目立って,傷が多々あるように感じた。もともとこの小説に現れたような現象は,漫画や映画においてそうあるように,絵でひたすら観衆を説得するファンタジー現象として提出し,それで終えるのが筋であるように感じる。この物語もまた,そういうものとして読者に提出する方が安全であり,無理が少ないと感じた。
書きはじめる時点から,連続殺人は現実に起こったものとして後半に説明し,リアル次元に解体する計画でいるならば,その事件細部までをよく吟味,計算し,各ファンタジー現象に取捨選択をなして,言葉による明快な解体が可能なものだけに絞る,などの配慮が必要であった。
またそうした考えから逆算して,まったく予想外のミステリー現象が着想されることもあり得る。こうした事前の努力が,この小説にはやや不充分であったかと感じた。
冒頭での吸引力,読み手摑みは,この作が四候補作中最高であった。警察に送られてきたDVDには,一人の男を殺害する場面が撮影されており,科学捜査研究所の判定は,この場面に登場する人間も,行為後に現れる死体も本物であり,ゆえに殺人行為も本物である,というものであった。
この作者は,過去何度か自作を鮎川賞の候補作に送り込んでいて,したがって自分は読ませてもらっている。本格ミステリー系の賞において,最終候補作まで着実に自作を送り込める,安定した力量の持ち主と見える。筆力,物語り構想力,構成力において,プロ並みの職人的力量を,発揮してきている。
今回のものなどは特にそうで,「連坐」は,キオスクで販売されているような類の,旅行用エンターテインメント本として,すでに活字になっていてもおかしくない。当作くらいのできの小説は,今日いくらも世に流布しているし,このくらいのストーリーを背骨とするテレビドラマも,数多く見受ける。
とはいえ世にすでに出ているそうしたプロ作家も,デビュー時においては傑出した作をものにして,ハードルをクリアしたのであろう。当作者は,受賞という最終的な栄冠はこれまで逃し続けている。職人的安定ゆえの定型性が,候補作群という群れからの突出をむずかしくし続けているからだ。すでにある種の安定期作風に入っているこの人は,今後はこうした突出した新作の完成が課題となるであろう。
安定した定型作群から,ある年取り立てて一作を選び,授賞作とするには,そのストーリーに,前例諸作と並び,まぎれてしまうような水準的体裁を,越えてしまうような特殊感,未体験性が必要であると考えている。そうした上で,文章力は水準並みが最低限必要である。すなわち本格系のミステリー創作においては,文章力の以前に,こうした物語の着想力と,構成力がより必要というのが自分の考えである。とりわけ,磨いて出すことを明言している本賞においては,特にそういうことになる。
この作は,文章力は上位の部類であった。スピード感があり,手馴れてもいる。定型に寄りかかった類型表現が割合頻繁にあり,これを追放しようとした痕跡に乏しいものがあるが,そうした様子も考えに含め,やや急いで書かれたふうな印象を持った。
それゆえのよい点は,読書にスピード感が出て,サスペンス色がよく醸された。読みやすく,中だるみの感がない。
よくない点は,一本調子で「曲」がない。意表を衝くよう場面転換は起こらず,それはすなわち,構成に凝ったというふうな感想が生じず,作者の俯瞰の力を,この作に限っては感じなかった。ある大きな事件が起こり,これを解決しようと努力する捜査陣の姿が,一台のカメラで定点撮影されていくような構成になっている。またその際の登場人物の設定や,発言の傾向に,いささかの類型性が感じられ,これを追放しようとした痕跡は薄い。
警視庁捜査一課第十係の猛者連を指揮する係長が,素人バンドのパンクロッカーふうファッションの,女子大生風味の若い女性であるといったことには,リアリティ論議を持ち出して批判する気などさらさらない。このくらいの物語濃度には,こうした主人公登場の必要性があると,積極的に同意する気分さえある。が,こうした型破りの登場人物の設定それ自体が,現在はすでに型になっていて,ゆえに型を破って感じられない。むろん述べたようなことだから,作者に型を破る気などはなく,ごく自然な感覚でこのギャル的主人公を書いたのであろうが,それゆえエンターテインメントとして,これもまた,定型依存そのものといった結果になった。
そう見ていけば,冒頭のショックもまた,アメリカ映画などにまで視野を広げれば,すでに定型的発想となっている趣向と気づかされる。またこのDVD映像内で,テーブルの上に置かれたある事物というシーンも,今やあまりに古典的な部類に入った定番トリックなので,これを液晶画面で見せられる状況を想像した時,少なからず気づく者が出るのでは,と感じさせる。
暗号ふうに現れる「h─y」の文字配列も,キーボード時代の現在においては,なるほどと膝を打つような未体験性はない。
つまるところこの作は,安定した力量の職人作家が,前人によって発見され,関係者にはよく知られているミステリー・パーツを適当に用い,定型的上手さで手早く組み上げた標準作,というあたりの評価が妥当に思われる。