第8回 選考過程・選評応募総数96

第一次選考通過[ 22 ] | 最終選考[ 4 ] | 受賞作[ 1 ] | 優秀作[ 1 ]

受賞作

アムステルダムの詭計原 進一

梗概

戦後の日本犯罪史上,最も鮮烈な印象を残したのは,昭和四十三年に発生した「三億円事件」であろう。しかし,日本人だけでなく広く世界中の人々の耳目を引いた点では,昭和四十年に起きた「アムステルダム運河殺人事件」が凌駕している。松本清張氏は両事件とも小説化している(『小説三億円事件』,『アムステルダム運河殺人事件』)。『アムステルダム運河殺人事件』の方は,現地オランダでも翻訳版が出版された。
一九六五年夏,アムステルダムの運河に浮かんだ死体は,頭部,両脚が切断され胴体だけがトランクに詰められて発見された。胴体に両腕は付いているが,手首は切り落とされている。被害者の身許の割り出しは困難を極めたが,トランク及び遺留品が日本製であり,庫内に付着した頭髪が黒色であることから被害者は日本人と推定された。また解剖結果から胃部内残留物に穀類が含まれている事実も明らかとなり,その推定は確度を増した。不可思議な遺体だった。面がワレないように頭部を切断し,また指紋を取らせないために手首を切断し身許を隠そうとしているのに,残された手掛かりは被害者が日本人であると暗示している。
捜査本部は犯人逮捕の前に,被害者の身許割り出しで躓いた。公開捜査の結果,隣国ベルギーに住む日本人の名が浮上した。直後にアムステルダム捜査本部は,身許確認のために両親を日本から招聘した。両親による遺体検分の結果,胴体部の手術痕から身許がベルギー在住の日本人駐在員と確定した。被害者の身許はワレたものの,犯人捜索は困難を極めた。オランダ,ベルギー両警察に加えてインターポールも捜査に参画したが,結局事件は迷宮入りとなった。
当時新進推理作家として文壇に登場した松本清張氏は,本事件を小説化するに当たって綿密に取材した。その結果日本人被害者の身許に疑問を呈し,替え玉説を唱えた。ところが取材,調査の集大成となる著作『アムステルダム運河殺人事件』では捜査本部の発表どおりの身許を上書きしている。著作内での清張氏独自の推理は,遺体に手首がない事実を巡って展開される。背広姿での肉体の露出部分が顔面と手首であることから,塗料が露出部分に付着したものと推理しブリュッセル在住の建具工場主を実行犯とした。
アムステルダム捜査本部の指揮を執ったルトゲス警部は事件当時,取材に訪れた清張氏と面談した。その時,警部は清張氏から替え玉説を明かされている。警部の方からは,事件の背後に美術品贋作シンジケートがからんでいる事実が清張氏に伝えられた。ヒトラーをフェルメールの贋作で弄したオランダ人画家,ファン・メーヘレンを発祥とするシンジケートだった。フェルメール神話を巧みに利用した贋作詐欺団である。戦後は,米国マフィアが合流しヨーロッパだけでなく世界的に名の知られる存在となっている。
ヨハネス・フェルメールは,十七世紀オランダの黄金時代に活躍したデルフトの画家である。日本でもファンが多く,その作品は繰り返し来日している。しかし,四十三歳で夭折した謎の多い天才画家でもある。生前の記録が乏しいため,画家を巡る神話は多い。他の画家にすり替わってアムステルダムで生き延びた,とフェルメール自身の詭計を示唆する伝説も浮上する。その詭計は「アムステルダム運河殺人事件」の遠因となった。
事件発生から約三十年後,捜査は進展を見せる。被害者と見なされた日本人は生きていて,運河に浮かんだ死体は替え玉との疑惑が濃厚となっていく。ただ全ての疑問に解決の糸口が見つかった訳ではない。替え玉となって殺されたとされる日本人は誰で,凶器は何なのか,また,遺体の手首が切断されたのはなぜか,遺体の投棄場所はアムステルダムの運河である必然性(なぜ居住地のベルギーでないのか),などが未解決のままだった。加えて,清張氏が当初の替え玉説を撤回した理由も謎のままだった。何らかの詭計が潜んでいるのだろうか。
(本作は実際に発生した事件及び松本清張氏の小説をもとにし,フィクションとして再構成したものです)

選評島田荘司

こちらを最も読者にしてくれた度合いでは,この作が一番だった。一気読みができたし,途中で読書を中断している間は,早く作中に戻りたい気分にさせられた。賞選考にも関わらず,楽しい読書をもたらしてくれる作に出会うことはまれであるから,採点も高くなる。
しかし同時に不安も湧く。この作の文章の読みやすさは,成熟の感性から繰り出される文学好きらしい周囲への選択的な視線,それは純文方向を長く縛す団塊左翼志向とも通底するのだが,気取りのないそれへの感想,結果としての文体の安定感,すわりのよい言い廻しの上手さによるが,読み手の驚きをもくろむ本格ミステリーの装置として見れば,当作に作者発見の新しいパーツはないかもしれない。なにより当作の美点がすっかり理解でき,共感もできるのは,ひょっとして選者個人のたまたまではあるまいかという不安が絶えず襲って,都度の自己点検を強いられた。
こうした要素を減点の理由となすべきかは悩ましいが,しかし本格ミステリーも日台以外では文学であるから,読み手の歓びは単純に加算されてよいはずである。加えて,思いつくまま追想し,無造作に書き重ねられた文章集積のように見せているこの小説も,実は全体を俯瞰しての設計が,あきらかに事前に為されている。したがって読み手が得るであろう意外性や感動は,あらかじめ作者の計算の範疇にある。
興味の対象があんまり共通するから,同世代であろうかと予想したら,果たして同年生まれの書き手であった。したがって学生時代から連綿と体験した歴史的事件や,興味を喚起された時代の対象物は往々にして共通しがちである。しかし都内の好む場所や訪れた異国,日蘭の歴史,さらには絵画の製作や鑑賞を好むという共通項は,そうした世代論の範疇を超えるので驚いた。
たちまち思うことは,拙作群の中では『写楽 閉じた国の幻』が当作の内部世界にきわめて近い。ともに絵画を扱い,オランダの画家への興味や,その生涯,作風のやってきたる場所への考察等の趣向が共通するうえに,自然主義文体を意図的に採っているところも同じである。
賞選考をするようになって久しいが,この作ほどに,評価以外の多くを考えさせ,また気づかせてくれた創作も記憶がない。決してこちらの考えすぎでなく,作者後年期に為された当作の創作事情は,さまざまに深い意味合いを擁している。これらを逐一解いて語れば,以下の選評文は随筆の長きを得そうであるが,ジャンルへの貴重な考察も生じるように思うので,異例のこれを,今回はご容赦願いたい。
当方が,今日の視線では「清張の呪縛下」という特殊な文壇状況に対し,無頓着に典型的,それとも先鋭的本格を書いて登壇し,何故か乱歩式扇状性への復帰要求と誤解されて,文壇に大いに不安を醸したことは,関係者は記憶しているかも知れない。
その後綾辻氏など本格追求者を推薦してジャンルに引き上げた際,当方としては清張流儀と本格派との共存が,やむを得ない対立と摩擦を生じながらも,切磋琢磨を誘導してジャンルを活性化すると期待した。しかし現実には事態は単純な振り子運動を見せて,清張式社会派は大挙して暗がりに跳躍,一斉退場してこちらを失望させた。その後,ライヴァルのない新本格ブームは,高度な論理性は獲得しつつも,制限された材料を使う室内専用ゲームといったスポーツ嫌いぶりが加速して,奔放な脱日本型気概は年ごとに失われて,こちらには不満が募った。
それから二十五年という待機の歳月が流れ,ようやくここに,隠れもない松本清張のDNAを持った,おとなの文体を操る,成熟した思索の書き手が現れたと見え,今後さらに出現が続けば,かつて自分が構想した二派競合の時代がいよいよ実現するか,という期待も抱かされた。これもまた,個人的夢想という話になるのであるが。
清張流の文体には,伏線拒否的な潜在意識が感じられたが,自然主義的なさりげなさで前方に置かれる当作の伏線には作為がなく,いたって自然で,しかも後段に至ってこれらがひとつの漏れもなく,つまり無駄の駒などひとつもなかったのだと言わんばかりに丁寧に回収されていく姿には,本格派の書き手とすっかり同等の人工主義的潔癖体質,そして几帳面な計算の痕跡が感じられて,ここまでの本格諸規則の学びを経て,清張式の本格アプローチもついに設計図体質を得たかと感じた。
このような言い方が,上からの目線ととられることを恐れるが,本格の方法とは単にゲーム的な追跡感性で,清張氏自身はこうした稚気やトリック許容の人工性を,自身の成熟の体質とは相容れないと看做していた。そのような固さがとれた作例という程度の,これは意味である。
余談だが,この作の美点をたまたま文芸春秋社の編集者に話したら,それは是非わが社の「清張賞」に投じて欲しかったものと語った。当作を貫く清張作品へのオマージュの意識も隠される様子がないから,確かにそれが妥当であったかもしれない。しかしもしも先述したような先行拙作への共感が,当作を本賞に招いたのであれば,まことにありがたく,これにも個人的に感謝の思いを抱く。
この作は,ゆえに充分に本格たるの資格を得た徹底思索の産物であるが,同時にビーズの腕輪に似ていて,一九六二年のキューバ危機,六三年のケネディ大統領暗殺,同時期,ロンドンにおけるクリスチャン・キーラー醜聞事件,六四年の東京オリンピック,そして六五年のアムステルダム運河トランク詰めバラバラ殺人,さらには六八年の三億円強奪事件,といった一時代を圧倒的に彩った諸事件のビーズを,私小説的な糸で貫き,陳列していく趣向を持った,甘美な追憶の小説でもある。
この諸ビーズから,七二年の浅間山荘事件が落とされていることには,あるいは軽からぬ意味があるのかもしれない。長い左翼洗脳が意味していたところが露出しつつある国防の現在,当方が敏に感じている文壇事情に,純文方向は思想的に左,本格志向は保守寄りの感想が現れはじめている。この解析は今後さらに進むと思われるが,この作者には,自身は左翼洗脳は免れている,の主張があるいはあるのかもしれない。そう考えて行く時,蟹工船の時代でもない現代,日本独自の嫉妬型偏向報道と同様に,左翼志向とともにある純文の無根拠な優越意識にも,日本人はもうひと区切りをつけてもよい頃合いかもしれない。
当作の「腕輪」には,作者自身の姿が自然主義的な謙譲筆致によって色濃く投影されており,学生時代の左翼活動,油絵制作への情熱,語らずに胸にしまった恋情といった,誰にも覚えのある小事件が,力みのない筆で小ビーズをなし,さりげなく掲示されて大ビーズの隙間に嵌まっている。
ここでまた個人的な話をするが,『写楽 閉じた国の幻』という「小説」を上梓したおり,主人公の佐藤という人物の花袋的な感性を,評論筋から「佐藤は島田自身である」,と迷いの気配なく断定され,驚いた経験がある。むろん予想していたことではあるものの,自然主義的筆致のやり取りは,その感心の度合いが増すほどに,書かれたことが事実であると読み手が確信して行く過程である──,さらに言えば,筆への感心と引き換えに,内容の大半が事実でなくてはならぬ,そうでないならその価値を減ずるぞ,と面罵せんばかりの書き手読み手の感情的取引が発生するものである現実を確認した。この不思議なわが原則を詐話的な逆手に穫り,あの太宰は文壇の殿上人にと駈け登って未だに降下の気配がない。
成熟の描き手たる当作者には,そうした極東型自然主義,独自のルールは完全なまでに心得られており,この点の操りに一種の観劇的興趣を感じた。末部において,生涯かけたサラリーマン忍耐で蓄えた全財産を,それほど気のなかった情人に持ち逃げされる主人公の淡々とした報告にも,取引の存在を思えば自重の意味深が潜んでいる。  本格ミステリーの運動場とは別のグラウンドにおいて,わが文学にはこうした確固たるルールが育っており,これはモーパッサンもゾラも,あるいは彼らの沸騰石たる英国の生物学者ダーウィンも,聞けば驚く東洋の神秘というものであろう。
この小説の着地は,以下のようである。
「M子の消息は知れない。二人で学生会館の屋上から染井霊園の桜アーチを俯瞰したのが最後になった。M子の生死は分からない。故人となるまでは本名は明かせない」
この見事な止めの口上こそは,この作がわが近代自然主義の王道を踏まえた日本文学の末流であることを宣する見栄切りである。
当小説の自然主義的筆致と完成度,そして作中に散りばめた史実と,それらを活用して醸すリアルな味わいから,読み手が「この物語は事実でなくてはならぬ」といつもの威張った取引勘定を持ち出すであろうことを想定して,「その通り事実である」と返す太宰的なやり口が,ここで披露されている。しかしこの返し言葉こそは詐術であり,オランダの実事件において巨匠作家が操った詭計に勝る詭計であることを,同年生まれの当方はすぐに見破ることができている。
作中の「私」は,「昭和三十六年(一九六一年)に郷里の兵庫(これは事実)から上京した。第一志望の芸大受験に失敗し,やむを得ず母の勧める普通の大学の工学部に入学するためだった」とある。しかし,これは事実ではない。作者の年代なら,大学入学はこの四年後になるはずで,主人公は描き手の四歳程度年上に設定されている。何故このようにしたかというと,事実通りにすれば,キューバ危機も,ケネディ暗殺も,キーラー嬢事件も,主人公の中学生時代の事件となってしまって,これらの事件を人格形成に関わる深刻なピースと匂わすことがむずかしくなる。
そして「アムステルダム運河の殺人事件」は,主人公が大学一年生時の事件となり,それ自体はよいとしても,トランクに入れられた犠牲者を疑わせる坂下先輩が遥かな年上になってしまって,作者入学時には卒業してしまう。同じ大学に同時期在籍して,親しいつき合いができないことになるから,同じ女子大生を争うことも不可能になり,そうなら主人公が,この異国での怪事件追跡に情熱を燃やす設定に,勢いが削がれるからである。
作者の詭計は,事前の物語設計時にこそ使われており,読み手を密かに欺いている。「アムステルダム運河トランク詰め殺人」の方は発生日時が固定だから,ノンフィクション主義を採れば作者は出遅れてしまって,この作のように劇的に,事件への直接関与ができなくなってしまう。
自然主義の傑作とは,おそらくは大半が,こうした舞台裏を隠す人工物であろうと思う。この作者は,太宰同様こうした事実をよく見抜き,かつ心得た,さすがに成熟の描き手であることをうかがわせている。

優秀作

幻想ジウロパ松本英哉

梗概

神海市在住の高校生である日向アキラは,中学生の石水里歩とともにARアプリ『ジウロパ』を日々プレイしていた。
『ジウロパ』は,現実の風景に重なる形で存在する仮想空間を体感できるアプリである。
プレイヤーは,実在する街区や建物内に足を運ぶことで,その場所に存在する仮想空間『ジウロパ世界』を,モバイル端末の画面を通して眺めることができた。あるいは,プレイヤーは,ジウロパ世界が存在する現地(リンク場所)まで実際に赴くことなく,離れた場所からジウロパ世界に遠隔アクセスすることも可能であった。どちらのアクセス方法を取るにしても,プレイヤーは,ジウロパ世界において,自身の分身となるアバターとして存在することになる。
ある日,アキラは里歩の部屋から,自身のアバターであるクロムを操り,リンク場所『懺悔の間』に遠隔アクセスした。そこでは,セルパンという名のアバターが待っていた。セルパンを操るプレイヤーは,リンク場所となっている神海市内のビルの一室に実際に足を踏み入れているようだった。話し合いの末,クロムとセルパンは対立し,クロムはセルパンの喉もとを刀で斬り裂いてしまう。
翌日,アキラが自宅でテレビを見ていると,神海市内のビルの一室で,他殺死体が見つかったというニュースが流れた。その現場は,昨日アキラが遠隔アクセスしたビルの一室だった。しかも,どうやら殺されたのは,セルパンの“本体”であるプレイヤーであり,彼は喉もとを切られて亡くなっていたということだった。
アキラは自問する。
「あれをやったのは,ぼくか?」
果たして男を殺害したのは,アキラなのか。その答えを探るべく,アキラは行動を開始した。

選評島田荘司

大学のミステリー研の精鋭を中心にして台頭した「新本格ブーム」が,今日の本格ジャンルの背骨を成していることは,おそらくどのような評論筋にも反論はむずかしいであろう。
しかし,それにやや遅れるようにして登場したコンピューター・ゲームがなくては,ムーヴメントは普遍的な力を得ることはなかった。あとを追って世に現れたPCゲームのユニークな印象と,圧倒的な斬新さが,ブームの太い補助線となったことも,多くの論者の同意するところであろうと思う。
さらには,駄目を押すようにして宮崎アニメをはじめとする国産のアニメが世界を制したことも,新本格のムーヴメントには有利に働き,これで熟年評論筋は決定的に沈黙することになった。
アニメ映画の氾濫も,つまり実写映画と同等の短期間での完成も,コンピューター・テクノロジーの助けなしにはあり得なかった。そして市民権を得たアニメ・キャラクターのパターン的な動きが,彼らの人物描写を時代のものと説得して,慣例に寄りかからんとする怠惰な苦情を封じた。つまりこの定型性は,稚拙のゆえではなく,謎解きゲームの参加者に,推理論理の追求に専心させ,これを高度にするための必要な前提であるという主張に,熟年評論筋が目を開かされたかたちになった。
このような新世紀型の科学のあと押しがなければ,ドラマ作りの材料を限られたパーツに制限し,人物描写も「記号化表現」と呼ばれるほどにパターン的で,ある意味不自由な表現による大学内の遊戯的な潮流が,思いがけずフィールドの最上位に浮上し,熟年層の書き手を圧倒し,さらには駆逐するというまでの成果は現れなかったはずである。
こういう経緯を踏まえ,類例作が増えるに連れて新本格創作は,孤島,吹雪の山荘,怪しげな洋館,その内部の密室,といったゲーム系の定型的器から外出する一派も出はじめて,PCゲームの内部世界をも徐々にグラウンドに取り込みはじめた。右に述べた新本格ブームの来歴を考えるならば,PCゲーム内部もあきらかに関連グラウンドであるから,孤島や山荘に続いて,虚構現実の幻想フィールドをも殺人の舞台とする発想に,ブーム管理筋からの許認可は下るべきであった。
新本格ムーヴメントにも,『アムステルダムの詭計』で述べた自然主義の問題点と似てわが職人型が発動し,清張呪縛への反発から,人物記号化以外の人間描写文体は許されるべきでないという偏狭性,そして右の定型以外の舞台設定は認可せぬぞ,という異端審問官型の規制が次第に発動した。しかし述べたようなムーヴメント成立の経緯から,一部の書き手のPC内仮想空間への進出は,黙認されたということである。
こうしたわが事情から,PC内部世界を舞台,あるいはその一部とする本格は一定量存在を許されて,当方が審査員を勤める各賞に,オンラインとオフライン世界を往き来するヴァーチャル・リアリズム本格が,定期的に現れるようになった。が,どれも決定打を欠いて,日本では受賞作はなかった。
台湾においては,第一回島田賞の受賞作として『虚擬街頭漂流記』というヴァーチャル・リアリズム本格の力作が現れていて,これは本作よりさらに説明が緻密であり,父娘間の情愛が色濃く語られて,感動的な仕上がりになっている。したがって当作の作者にも是非読んで欲しいのだが,作中の殺人で生じた死体処理に関しては,当作の方が自然であり,納得もしやすい。
日本のゲーム本格の不調の原因までをも解説すると,右に述べた器発想の,設定範囲の迷いによるものが多い。新本格寮からの外出組は,ほぼすべてがオンライン,オフラインの境界があいまいになる,というあたりの仕掛けをタネにしており,ゲーム内部に殺人事件の舞台を取るというばかりでなく,これとリアル世界との往き来が頻繁になれば,読み手が境界の認識に次第に曖昧になって,この錯誤による失見当識をミステリー現出に用いる,という定型の発想に,揃って到達していた。
この種の習作が多く現れてのち,ではこのタネ構造までをも器と看做してよいか,というあたりに,多くの書き手が集団で迷っていた。つまりこれによって作が多少退屈になっても,「これはそういう小説なのだ」で通せるか,そういうあたりで戸惑いが生じていた。コンピューターが提供するゲームの動き自体,限られたオプションを背後に隠してのパターン選択であり,にもかかわらずの成功が,パターン的職人発想に多くを積極的に向かわせた,という日本型の不具合が,どうやらここにはありそうである。
しかしこの定番の失見当識期待は,読み手の驚きの理由までをも浸食してしまっているから,本末が転倒する。当たり前のことだが,未体験のものでなくては人は驚きを生じない。驚きを得るために,人は未体験の要素を物語に探すのであって,この小説はそういう約束のものなのだから驚け,あるいは面白がれとは,さすがの異端審問官も読者に要求できないであろう。
また,この背後にはそうしたわが珍妙な叱咤体質が存在するわけだから,このようなものはあまねく世界には通用しない。最初の一作しか佳作が現れ得ない質のものを,器としたい発想は怠惰目的であり,誤りである。しかし,ではどうすればよいのかと自問すれば,これを踏み出す瞠目の趣向は誰一人発見できないから,見るべき傑作が現れずに足踏みが続いてきたと,そういうことに思われる。
しかし時代がここまで進んだ今,いよいよその前例パターンを踏み出す力作が現れはじめた。不思議にそれは時期を同じくして,台湾の島田賞にも,『H・A・』というゲームの専門家が書いた力作が現れた。日本の場合は,当作『幻想ジウロパ』がその嚆矢ということに見える。先に述べた『虚擬街頭漂流記』も,二〇〇九年の発表時点で,オンライン世界がオフラインのリアルを浸食するといういささか陳腐な定型を,すでに脱していた。つまりこの種のものは,その定番発想を壊さない限り,傑作は現れ得ないということに思われる。
『H・A・』,『虚擬街頭漂流記』,『幻想ジウロパ』,三者に共通することは,未だ存在しない新規のゲームを,その細部まで非常に細かく設定し,説明していることである。ことに台湾の二作は,ともに専門家がその知識を駆使したものだから,特に『H・A・』など,そういうゲーム・アプリが存在し,すでに世に流布しているのかと疑われるほどである。しかし国産の「ジウロパ」も,負けず劣らず細部までルールがよく創り込まれていて,近い未来には,そのまま製品化が可能ではと思われるほどだ。これはやはり時代が進み,多くの書き手がゲーム型ヴァーチャル世界をよく体験して知識を増やし,理解を深めたゆえであろう。
台湾の二作は,先述した従来型のゲーム本格の流れが,専門職の手によってリアルに高められたものであるが,日本の『幻想ジウロパ』の場合,流れを大きく逸脱した圧倒的な手柄があって,それは従来とはまったく発想を異にする新発想のゲーム・アプリを着想,創造したことだ。これは大きな評価に値する。この内容をひと言で言うと,ゲームの内外を繁く往来するのではなく,ひとつに重ねてしまったということで,これは多くの書き手の意表を衝くものではなかったろうか。
これまでのゲーム本格には,PC内に仮想現実の別空間を構築し,キャラクターに化身してこれに侵入するという定番発想が,疑いを容れぬものとしてあった。すなわちPCゲームとはすべてそういうものだからだが,「ジウロパ」は,普段われわれが活動する現実の街に,重ねるかたちで幻想世界を構築した製品であるということが,圧倒的に新しい。安全性や,実現可能性の議論は脇に置いて,これは多くのゲーム本格志向者の,盲点を突いたアイデアになっていると想像する。
複数のゲーム参加者,つまりプレイヤーたちは,「ヴァーチャル・スペックス」と呼ばれる眼鏡型のウエアラブル端末を顔にかけることにより,現実の風景に,電脳が加えたキャラクターを併せ見ることになる。プレイヤーは街の風景も見るが,その上にジウロパ内のキャラクターたちの姿も,これに混ぜ合わせて見ている。
ゲームのキャラクターは,プレイヤーが遠隔操作で操る「アバター」だが,もしもその地点にプレイヤー本人がいるならば,本人の姿もプレイヤーは見ることになる。その時,ゲーム外の通行人はアバターの姿を見ることはないが,プレイヤーの姿は見る。
ヴァーチャル・スペックスをかけたプレイヤーは,アバターもゲーム外の通行人の姿も見るが,もしも本人がその場にいる場合は,これはアバターと融合してしまうから,アバターの姿は消えてしまって,本人の姿しか見えない。しかしそういう場合,彼,彼女がプレイヤーであることを示して,プレイヤーの生体は青く光って見える。
遠隔操作でアバターを操っている場合,プレイヤーのヴァーチャル・スペックスの視界は大きく変化して,アバターが遠征して,その目が見ている街角や室内が見えている。プレイヤーが狭い四畳半にいても,立っていても椅子にかけていてもこれは同様である。
「ジウロパ」のプレイヤー間では,遠隔操作されているアバターは「ファントム」と呼ばれ,アバターと融合してその場に実際にいるプレイヤーは「ソウル」と呼びならわされる。
アバターは「ジウロパ」の空間では超人的な運動能力を獲得し,プレイヤーが運動嫌いの中学生の女の子であっても,オリンピック選手並みの速度で駈け続けることができる。主人公がオンライン,オフラインを往来して,電脳空間内のキャラクターとプレイヤー本人の思いがけない印象の落差を見せる趣向も,予想はできるがなかなか読ませる。
ゲーム内ではファントムたるアバターも,ソウルも,「ガンスタンド」というピストル型の武器を持つことができて,これで他人の操るアバターを狙撃することができる。命中させると,その相手を二十四時間,強制的にログアウトさせることができる。しかし当然ながら,この攻撃によってアバターを操るプレイヤー本人を傷つけたり,命を奪ったりすることはない。
このようなルールで構成されたゲームの目的は,アバター相互のファイトや市街戦ではなく,ジウロパ世界に存在する「家宝」を収集することであるが,そのプロセス中に,ついでのように行われたアバター殺人において,ただの遊戯のはずが,ヴァーチャル・スペックスを通した見え方そのままの受傷と失命を,距離の離れたオフラインのプレイヤーの肉体に起していた,何故か,というのがこのゲーム本格の骨子である。
絶対にあり得ないはずのこのミステリー現象は何ゆえかと問いかけ,そののち,この謎解きが小説の主題になる。それは従来型のPCゲームでなく,この新発想のゲームのプレイ中にのみに起こし得る,意表を衝く殺人で,このゲームの特殊な成り立ちゆえに生じた思いがけない錯誤,亀裂を衝いて行われていた。ではその亀裂は,果たして電脳空間ジウロパのどこにあいていたのか──。
一読,なるほどというもので,このような仕掛けの新ゲームがもしも出現すれば,確かにこのような段取りでの殺害も可能になってくるな,と納得させられもする。壮大な虚構世界をあらかじめ丹念に構築しておき,複雑なこれへの読み手の理解が遅れているうち,その把握の間隙を突いて,理解不能の殺人を起こして見せる,こういう趣向は,本格の歴史においてもなかなかに新しい,新世紀型の体験であった。
過去多く読まされた類例作の内にあって,これは一頭地を抜いた完成度を示しており,新発想のゲームが,それゆえに新しいミステリーを起こし得た。つまり優れた準備が優れた結果を招聘し得た,これは好ましい二十一世紀本格の作例である。

最終選考作品

偽りのベッド木山穣二

梗概

瀬戸内海に面したR県倉戸市にある総合福祉施設の特別養護老人ホームから認知症と診断された男性入所者が消えた。施設側は正規の手続きで退所したと説明するが,その後の男性の足どりはわからない。その行方捜しを地元紙・瀬戸内新報の女性記者が頼まれた。
新米の女性記者は難しそうな取材に尻込みしたが,偶然、同じ施設に認知症の祖父が入所していたので,その見舞いかたがた調査を始める。しかし未熟な取材力は総施設長に通用せず,唯一の手がかりだった担当介護士も不慮の転倒死を遂げて調査は早々に暗礁へ乗り上げた。
施設を運営するのは社会福祉法人で,その前理事長は県議から参議院議員に転じたばかり。そして県議の後釜には弟の現理事長を座らせたが,社会福祉法人は支配し続けていた。そして総施設長と経理責任者の女性を使って裏金作りをし,厚生労働省に対抗する政治勢力を作り上げようと目論んでいた。
一方,参議院議員秘書も依頼を受けて男性入所者の行方捜しに乗り出していた。人の感情に興味のない秘書と,仕事に自信が持てない記者。二人は,男性入所者が姿を消す前に残した謎の言葉を手がかりに,ときに反発し合い,ときに惹かれ合いながら調査を進める。そして,ついに社会福祉法人に隠された「ある事実」をつかむ。ところが,謎の核心に迫ろうとした矢先,鍵を握る施設のマネージャーが何者かに殺された。

選評島田荘司

二〇四〇年代,我が国は四十数%の国民が六十五歳以上になるという予測がある。すなわちあと三十年という時間の以内に,日本は二人に一人が老人という国に変貌する,その上で五人に一人が認知症になる,とも言われ,こうした時代には,総合病院のベッドが無抵抗に老人たちに提供されることはなくなってくる。入院が一定期間をすぎれば高齢者から入院費は取れなくなり,深刻な病の患者たちが,病床にありつけない結果になる。
ゆえに老人は,現時点から病床を追われ,自宅で寝て,訪問してくる看護師を待つケアのタイプか,作中にあるような特別養護老人ホームが多く新設されて,収容されることになっていく。深刻な老人時代を三十年後に控えた今,われわれはどのような準備をし,どのような啓蒙を一般に為して待つべきか,こういう問題は国の将来を考える際,国防同様きわめて重要で,この小説はそうしたわが国の重大なテーマを前面に掲げている。これもこちらの問題意識によく訴える力作で,テーマに興味を惹かれた。
しかしこのような老健施設で,金銭の不正授受が行われ,これが中央の政争の運動資金になるという愚劣なからくりは大いに生じそうで,警戒すべきであり,全国民の半数に対処する巨大なシステムに育つ将来には,さらに深刻さを増しそうである。この作者は元ジャーナリストとしての視線からそうした問題を選んで取り上げ,その警告を文学的に行おうとしていて,その意識の高さは大いに評価しなくてはならない。ジャーナリストとしての力量もあり,慧眼でもあり,まことに共鳴もした。当方もそのような種類の創作の上梓は,今後の計画に入れている。
しかし何故なのか,これだけ好ましい条件が整っているのに,今ひとつ面白く読めず,作中に強く引き入れられることがなかった。これはなかなかの驚きで,理由を考えた。人間描写も,文章書きを職業として来た人だけに,充分以上に上手である。ヒロインの造形も前もってよく考えられていて,その若い女性らしい人となりも,言動からしっかりと伝わってくる。自分はジャーナリストに向いてないと考える挫折感も,共感ができる。
そうした価値ある内容から,しかしこちらへの軽い拒絶反応が絶えず醸されてくる理由は,やはり日本型の問題点が,無点検のままで用いられ,骨格をなしてしまっているせいではあるまいかという気分が次第に起こった。
この文章意識は,わが社会環境,とりわけジャーナリスト世界においては正しい。ゆえに作者に点検の発想は皆無で,むしろこの日本流の心性の受け入れと消化,そして巧みな運用が社会人としての成熟であり,この意識による文章の操りは上手のものと,無批判に信じられている。
それは,日本語表現の上意下達の意識と,これをスムーズに行うためのさまざまな行儀ルールの会話ということにまずはなる。日本語という会話の道具はこのシステムによく奉仕して,細部が発達し整備もされてきた。年齢役職による問答不問の上下意識や,男女間の行儀表現,この反動としての女性の一定量の男性嘲笑的報復等々,という例の日本型になる。
これは賞選考を長く行っていると,文章のプロほどにこの意識が高いことに気づかされるし,また慣習的に正しいとされるものなので,批判を言うつもりはない。しかしこの正しさは,喫煙の正しさに似ていて,苦情は封じられているが,何年も煙を浴び続けているカーテンを鼻先にして長時間の列車の旅は,愛煙家自身も嫌であるように,正しい文章意識が,その厳なる実行者も含め,万人に心地よい読書をもたらすとは限らない。この正しい意識を脱しない限り,日本では小説家としての大きな成功はむずかしいのでは,と感じるようになった。
理由は簡単なことで,書き手自身がこの世界に入って厳しい鍛錬の洗礼を長年浴びたとして,ジャーナリスト世界に入る気もない一番読者にその高圧の気配を少しでも与えてしまえば,読み手は進んで作中に入ってはくれないであろう。
この厳しさが,深刻な社会の問題点を前にしても,その報告をおざなりな定型文へ押し込めることを要求していたなら,またユーモア言動も,さしたる楽しさのない威圧のパターンに落として口にさせる傾向があったなら,自由度の高い小説書きにおいては,よくこれに抵抗し,時にしっかり捨て去らなくてはならない。
力のある中堅の記者,役に立たないふうの脇役中年,地味な外貌でも心が純で,しかしまだ力のない新人女子,やくざ者,そういう配された者たちが,分を心得たステレオタイプの,いかにもな謙虚発言を重ねていく様子に,手早い処理を旨とするプロの習い性を感じてしまった。
展開がパターンに向かい,結部を含めて曲がなく,登場人物はというと,紹介に続いていかにもな,それをなぞるドラマが始まっていくふうで,読者に発見や判断をゆだねる包容力が乏しい。主人公周辺の言動は,一見軽快で楽しい様子だが,ひと皮むけば互いにちくちく傷つけ合っており,これが社会だ,プロの世界だと言わんばかりの,迎合的日本理解を感じる。個人的には少々落ち着かない世界である。
文章書きにとって,日本はまことにむずかしい国で,いかに厳しい受験感性の高校時代を経ようとも,さらにその後の何十年かをより厳しい徒弟型の鍛錬心性の洗礼を受けても,将来の文章書きに備え,そのようなものの影響は低く見て,精神のどこかに青年期の平等感性,あるいはセンスオブヒューモアの発露を守り,保存しておく要がある。
そしてついにその時が来たなら,プロとして登ってきた上位意識も言動も捨て,高校生時代の柔らかい感性にまで意識を戻して,楽しい表現を開始する必要がある。そうでないなら,『アムステルダムの詭計』に見るような,自身はこの厳しい競争世界の脱落者,と自虐を言わんばかりの枯れた筆致を探り当てて,別途小説用とする必要もあるのであろう。
私が会った限りでは,巨匠と呼ばれる大家たちは,すべてこのような日本型の上達とは無縁の,年下にも優しい感性を発揮する少年のような心性の持ち主であった。小説書きの世界には,誇り高きアマチュアの高み,というものが厳然と存在し,みなこれに気づかなくてはならない。威張りを目指すプロ型の精進は,往々にしてこれから遠ざかるプロセスとなる。
あまり述べたくはないが,昨今のSTAP細胞事件,古くはロス疑惑事件,鳥インフルエンザ事件,狂牛病事件,すべてこうしたマスコミの無責任な暴走正義が,被害者もいないのに悲惨な自殺者や死者を毎度作り出す。しばしば糾弾の対象とする学校のいじめ自殺と,完璧に同じ構造の酷薄な殺人をマスコミ自身が行って,これに,恬として恥じぬ傲慢と感性の鈍さ。こういう点への自戒は,さすがにそろそろ必要である。
むろんこの小説はそれほどひどくはないし,出来は悪くないのだが,特養を政治資金調達の場とするような睥睨を放置助長するものこそ,この種のわが奢った政治プロ感性である疑いは捨てきれないわけだから,個人的には自己の点検にも目を向けた,マスコミ人の謙虚な姿勢は読みたかった。ヒロインのこの世界への不適応感覚も,あるいはそのあたりを感じての自然な思いではなかったか。ここへの言及がないのは,この手の小説のパターンからはずれるというプロ気分が,どこかに感じられる。
とりわけ私にとって,と断っておくが,能天気でいささか状況に無神経な日本職人型上位確信が,せっかくの高い意識による,価値ある問題提起や社会悪の告発をも,自分とはまるで無関係の悪事と感じてすます鈍さにつながって読め,いささか艶を消して,つまりは月並みにして感じられた。
とはいえ,そうした中堅の書き手意識による手堅さ,堅実さも感じるし,よい読物に仕上がっているとも感じる。出版されてもよいレヴェルではある。

最終選考作品

イチャリバチョーデー関谷宗佑

選評島田荘司

とっておきとも見えるドラマのネタがふんだんに投入されていて,トラブルだらけながら,甘美な追憶をともなうヴェトナム戦争の時代,それは日本においては反戦学生運動の時代だったわけだが,誰もが大なり小なり痛みを引きずっていた。そういう時期,当事者とも言うべき沖縄の基地周辺に潜入した人々の,波乱の体験を描いている。あるいはそうした数々のドラマの寸描に挑戦されている。
この作品もまた,個人的に興味のある方向なので,共鳴する箇所,触発されて思いの膨らむ場所が多々あった。米軍をさんざん悩ませたボウ・グェンザップ将軍の百何十キロにも及ぶ大トンネル作戦,戦車も空軍も,はっきりした基地も持たない,つまり明白な攻撃対象のない敵を相手に,二次大戦まで無敵だった米軍の大規模機械化部隊が散々に惑わされ,ついに敗退した孫氏の兵法に学ぶゲリラ戦術,この混迷の時代を彩った,米国発のジャズ・ミュージック,無数の反戦フォークソング,ボブ・ディラン,PPM,ウディ・ガスリーといった時代の歌い手たち,感動的に聴こえたその歌詞,これらの刺激を受けた時代の警句,名台詞。そして薬物汚染,その悪貨で肥大化する組織,それらへの軍関与,暗号,はては不思議なナゾナゾまで,綺羅星のように作中にパーツがひしめいて,都度心が動くのはなかなか心地のよい体験である。
また二次大戦の欧州戦線で名を上げた日系米人部隊,四四二部隊には当方も興味を持ち,ロスアンジェルスでその生き残りの人たちを訪ね,会って話した。今はもう亡くなったイシハラ氏,トクダ氏,彼らの表情も元気のよい声も,今によく憶えている。
そうした意味でも大変懐かしい,また切ない読みものでもあったのだが,時代の寸描を目指す作として見ても,骨太の本格ミステリー小説への挑戦として見ても,申し分なくうまく行っているとは,感じにくいものがあった。
まずは,ドラマの背骨がどこに存在しているのか,テレビ的なドラマに埋まってしまって,ストレートに伝わってこないきらいがある。温存してきた好みのピースがあまりに多すぎ,書き手自身がそれらを持て余している印象。たとえば二時間もののテレビのドラマやドキュメンタリーを考えると,何本分ものネタがびっしりと詰まっていて,映像流に言えば尺が意識され,それらが急ぎ足で撫でるように語られていく印象,ずいぶんともったいない使われ方がされていると感じた。
何より,膨大なこれらに押されるようにして,登場人物たち,人間が動かなくなっている印象で,固定された舞台という箱の中での,ひたすらな台詞の応酬と,長回しが多くなってしまった。いささか曲や,フットワークが足りないという感想も訪れてしまう。小説というよりも,脚本の方法に傾いてしまっていないか。役者に演じさせれば結果として印象の変化がつくが,小説では,変化の演出を考える者は書き手以外にいない。
この作者の関心は,構造体の設計というより,あきらかにこうした六〇年代当時を生きた,銃後の人々の暮らしや,都度の反応に向かっていて,それは「謎→解決」の構造をくっきりと際立たせ,ドラマ前面に押し出す本格ミステリーの手法ではない。どちらかというと当作は,ミステリー風味の人間ドラマであって,書き手は彼らの心性や,発言にこそ強い関心を持つことが見受けられる。作中,謎が残る殺人事件はあるものの,その真相への追求も,解明の説明も,林立するドラマ群の内にあっては,際立ってそびえて,こちらを引きつけ,読ませてくる印象はない。
散在集合する膨大なドラマ群の内にあって,次第にこちらの関心を引いてくる主峰は,「リトルボーイ・ブルー」となっていく感があった。ところがそうなるにつれて,これが実は作者の望まない方向であるらしい気配も伝わってくる。
「リトルボーイ・ブルー」とは,以前から世に語られている,沖縄周辺の海に核弾頭を抱いた米軍機が沈んでいるという噂を指している。青い海の底に,それとも深い憂鬱の底に,世界を滅ぼす凶悪が沈んでいる。
しかし物語は,これを主軸にして語られる気配はない。つまりこれがドラマ群のアルペンであるという自覚や判断が書き手にはない。その理由がまた,なかなかよくこちらに伝わって,こちらも悩まされた。ひとつにはこれはあまりに深刻な事件であるから,一民間人では解決までを語るのが不能の出来ごとであること。当賞が本格ミステリーの賞なので,それよりも殺人や暗号を読ませるべきであろうという判断や迷いが伝わる。
しかしそれもまた,多くのドラマピースが未消化のまま,優先順位がうまく定まっていないことと,本格ミステリーという小説の姿や手法が,書き手に完全には見えていないゆえが疑えた。
しかしこうした雑然も,時代の混乱を写したゆえと言えなくもなく,混迷の中にも,面白い場所が多々あったことも確かであるから,今回の文章化をステップにして,よく内容を整理し,優先順位を厳に見据えてドラマを組み直せば,おそらく吸引力,牽引力がもっとよく現れて,うまく行くのではないかと感じられた。
もうひとつ,このドラマがウディ・ガスリーやPPMの詩を至上のものととらえ,この基準で感動を作ろうとしているので,一般日本人の日本語感覚に引っ張られてしまい,ついつい歌謡曲レヴェルの感涙に向かってしまう気配も気になった。「ひとつ質問いいですか?」の,わがテレビドラマでやたらと耳にする,カッコいいと心得られているらしい口癖なども,これを助長して感じられた。
しかし物語を文学的な独自性,あるいは先鋭性にまで磨きすぎれば,それは読者を減らすプロセスであるかもしれず,現在のミステリー小説で成功しているものは,あまりむずかしくならず,つまり「本格」を尖らせすぎず,テレビドラマの定番的お茶の間性に迎合しているものばかりであることも事実であるから,これはこれでよいのかもしれない。
もうひとつ気になったこと。健常者の心臓は左側にあるもの,とは少々言いがたい。真ん中にある,と言うべきである。

第1次選考通過作品

アルミニウムの湖石田隆一

選評担当編集者

殺人事件で早々に逮捕された容疑者。逮捕時に容疑者は女装していたという。自供もした。しかしさまざまな証言によってこれが揺らいでいく……という物語。証言者がさまざまな角度から事件とその周囲を描きますが,誰もが観念の虜のような言いようで,いい意味でなく謎は深まります。文章も修飾も過ぎた印象で,それがリズムになっていれば面白いのですが本作では成功しているとはいえません。

第1次選考通過作品

誰もいない下り列車に乗ってみたかった大町晋

選評担当編集者

チェ・ゲバラの孫と思われる人物を登場させたり,鉄道ダイヤの「スジ屋」が主人公だったりと,設定のひとつひとつは面白いのですが,要素を盛り込みすぎて無理が出たように思います。また,誤字脱字が非常に多かったことも,大きな減点対象です。

第1次選考通過作品

余人を以て代え難く栁沼庸介

選評担当編集者

企業内の花形営業部門,広報部門,監査部門を舞台に,たいへんよくできた企業小説として面白く読みました。ただし,ミステリーとしては,標語の不自然な漢字フォントなどの小道具や,アルツハイマー病の使い方など気になる点が多く,評価を下げました。

第1次選考通過作品

鎮心野乃はるか

選評担当編集者

殺人現場に集まっていた登場人物たちの,過去からの関係が続々と明らかになる設定や,警察の捜査に常識では考えられない見落としがあったりという,偶然が重なるご都合主義は,いかがなものかと思います。物語の進行の視点が飛ぶのも,読みにくい印象を与えます。

第8回 選考過程・選評応募総数96

第1次選考通過作品

ディスメンバード・ゴッドー『切断の神殺人事件』ー相田周一

選評担当編集者

書き手の強い個性を感じた作品です。読者にどの情報から開示するか順序を工夫してはどうでしょうか? また,登場人物が多すぎるので,人数を絞って事件を整理したら,より読みやすく,謎が引き立ってくるのではないかと思います。

第1次選考通過作品

めっそう佐藤仲造

選評担当編集者

昨年の一次通過作の再応募で,改稿したとありますが,大きく印象を変えた感じはしませんでした。こだわりがあるのかもしれませんが,改稿とはいえ同じ作品を再応募するよりは,まったく新しい作品で驚かせて欲しいと思います。

第1次選考通過作品

スプーン一杯のふしあわせ石崎徹

選評担当編集者

肝心の「謎」と「解明」が小粒で,明らかに短編レベルのため,長編を支えるには弱く,非常に物足りない読後感でした。また主人公の行動(とそのモチベーション)も,周囲の人間が調査に協力する理由もどこか説得力に欠け,共感を持てないままでした。「読者への挑戦状」が入っていたのには驚きましたが,結局,ほとんど存在感のない人物が犯人だったので,犯人当ての快感が少なく,「挑戦状」という仕掛けが不発に終わったのも残念です。

第1次選考通過作品

コロッケな女そっこう詩人

選評担当編集者

情報の出し入れがアンフェアです。視点人物が組織的な犯罪の一環を把握しているにも関わらず,それに触れていないこと。重要な人物が途中まで伏せられていることなど,ミステリーの構造として破綻があるように読めました。また誤字・誤植が大変多く,どうして精読,清書をしないのか,疑問が残りました。

第1次選考通過作品

オルレアンの魔女稲羽白菟

選評担当編集者

プロローグ,魅力的なモチーフが頻出し,期待感が高まりましたが,読み進むうちに,事件と謎の解明がやや食い足りないと感じはじめました。ラスト近くに真犯人の告白に近いかたちで真相が知らされるので,意外な真実だという実感が持てませんでした。

第1次選考通過作品

ずっとあなたが好きでした遠野有人

選評担当編集者

20代前半の女性が,好意を寄せていた故人のこどもを引き取って育てるという設定自体に無理があると感じます。仮にその点を美談と評価するとしても,誤字脱字の多さがたいへん気になり,読み進めるのが苦痛なほどでした。

第1次選考通過作品

愛の気配 死の匂い横邊愛恵

選評担当編集者

主人公が保険会社の検査医という設定は新鮮で,社内での微妙な立場や検査での不正など導入部に興味をひかれましたが,要素を盛り込み過ぎていて,本筋が何なのかわかりにくくなっていました。また,登場人物同士の因縁の繋がりが不自然なほど多く,ご都合主義的に感じられてしまいました。

第1次選考通過作品

在郷の怪人河端勇樹

選評担当編集者

妹の物語,祖母の物語,母,そして長女の物語が,それぞれを視点に語られます。この親子の物語自体は既視感はあるものの,現代的問題が提起されてもいて面白く読めました。彼女たちを守る「カミサマ」は何者なのかという通底がミステリーとしてのキモになると思いますが,新味を感じませんでした。想定の範囲内なのが惜しいです。女たちの物語を短く纏め,カミサマの章を練り込むなどしないと難しいです。また,このテーマにしても,あまりにも長すぎます。

第8回 選考過程・選評応募総数96

第1次選考通過作品

菅野尚樹の秘密1031

選評担当編集者

読みやすさはあるのですが,作品のボリュームが内容に対して多く,単調になってしまっていました。削ってもよい部分がかなりあるように思います。生徒たちがクラスの支配者に握られている秘密が,クラス全員が言いなりになる秘密としては弱く切迫感が足りないように思いました。

第1次選考通過作品

流氷の川川瀬涼

選評担当編集者

その土地の魅力やそこに内包される問題を丁寧に書き込んだ良作でした。現代風俗なども持ち込んであり,意欲がかわれる作品。ただ,作品の時代が微妙な過去作品になっており,性病などリアイティも含めできれば現時世での小説として書いてほしかったです。また主人公が襲われるところも,犯罪者が払う対価としてふさわしいかどうか,考えてみて下さい。

第1次選考通過作品

祇園・NY・シンモンゼン 洛中洛外屏風の謎森田公之

選評担当編集者

京都の古美術店を舞台に,美男美女が華やかに活躍する軽快なスリラーで,かつての胡桃沢耕史の作風を思わせる,弾けた楽しさがあります。悪役を含め,キャラクターがみな類型的で,話の展開も都合が良すぎるところが気になりますが,それなりに面白く,最後まで飽きずにスイスイ読めました。ですが,全体の四分の三を過ぎたところから,あるサブキャラクターの長い回想(恋愛話)が主となり,ミステリーの趣が薄くなるのは難点です。

第1次選考通過作品

南の島の鎮魂歌愛奈穂香

選評担当編集者

軽快な会話が続き,テンポよく読み進めることができました。
舞台の歴史的背景や登場人物たちの関係性など,細かに書き込まれていて,興味を引かれるポイントが随所にありましたが,ミステリーとしての仕掛けが最も弱いものに感じられました。

第1次選考通過作品

シーソー澤柳司

選評担当編集者

医療ミステリー。冒頭は非常に興味深い謎を提示してくれそうで,大いに期待を持ちました。しかし,文章が分かりにくく,医療用の言葉の説明もないまま多用されており,配慮が欲しい所です。またこちらも多用される比喩表現が,読み手の興味を削いでしまい逆効果になっていました。

第1次選考通過作品

奇蹟は声を鳴らせ威武アシマ

選評担当編集者

冒頭の極端にコミカルなエピソードで主人公を印象づけるのは妙手ですが,肝心の物語の本題に入るまでが長いのはマイナス。また少年の特殊能力の凄さが今ひとつ伝わってこないまま,話のスケールだけがどんどん大きくなるので,作者の意図ほど盛り上がりません。またピンチがあまりにも多すぎるので,かえって読者が飽きてしまいます。軽妙な会話としっかりした文章を書けるのは長所ですが,詰め込みすぎは避けましょう。

第8回 選考過程・選評応募総数96