第14回 選考過程・選評応募総数76

第一次選考通過[27]| 最終選考[4]| 受賞作[1]

受賞作

ヘパイストスの侍女白木健嗣

梗概

 あかつき自動車の自動運転車「WAVE」が試験中に事故を起こし,ドライバーの男が死亡した。そして,あかつき自動車にはサイバー攻撃で自動運転車を事故させたという脅迫文が届く。
 サイバー犯罪対策課の斎藤は,一課の女刑事である前之園とともに,人工知能マリス(Managed Automatic Research & Inference System)を使った世界初の捜査に乗り出した。一方あかつき自動車では社員が自殺し……。

選評島田荘司

 自動車業界を舞台にした企業ミステリーは、これまでにも数多く読んで来たし、そのヴァリエーションも頭に残ってしまっているかのような印象を持っていたのだが、この作品の、格別IT方向の理解と知識には感心したし、それらによって作に厚みが作られていて、とても面白く読み、賞選考の読書であることを読了まで忘れることができた。賞選考の仕事に携わって長いから、それこそが無常の報酬であると知っている。目的から目をそらすことなく、熱を持って意志が持続する文章の力も大きい。
 企業内の人間模様、門倉のような絵に描いたようなパワハラ上司の愚劣や、一ノ瀬のような類型的プロセスによる落ちこぼれ、旧態依然の男性社会の内部で、やるせない憤りに身を揉む前之園のような女性刑事の配置まで、登場人物の構図はいささか古典的であり、手垢がついている。このあたりの凡庸さは、作者が手を抜いたものかもしれないが、それさえも読み終わるまでさして気にならず、全体として新鮮にさえ感じられたのは、この書き手の自動車産業における先進技能の知識とか、用語の新しさ、運用の確かさなどとの対比がもたらした効能であるやもしれず、最新科学の能力に感動するためには、人間関係にはさほどの新しさがない方がむしろ気が散らず、よいのかもしれないと気づきもした。
 自動運転を可能とする科学技術世界の細部が、すべて今日の達成の現実描写であるなら、これ自体に情報としての価値があるし、加えて未来予知としての「マリス」に見るようなスーパーコンピューターの近未来の姿、これに女性としての人格を持たせたことや、そこに現れた女性的発言の知的な魅力には、大きな可能性と時代の意志を感じて興味を惹かれた。
 「心」の局在という言葉を聞くようになって久しいし、医学のフィールドに心臓や脳の詳細な解剖所見が増すにおよんで、多くの知識人や敬虔な宗教家が人間だけにあると予想した「心」の容器が見当たらなかったことの驚き等を思い出し、個人的には興味深かった。しかし脳を持たない植物が、生存のための数々の戦略を考案し、生き延びて来たことも思えば、膨大な部品によって肥大した巨大精密機械が、人間との会話の中で、次第にメカニズムに「心」を生じさせることはリアルな幻想と感じる。そうした哲学的な命題にまで言及する当作品は、エンターテインメントとしての優れた達成とも言えるし、しかつめらしい大芸術や、宗教が諭す倫理的考察よりも、エンターテインメントの軽快さをもってしなくては、そのような方面への言及は、でき得ないことかもとも考えさせられる。
 全体として、このような大きな感心を抱かせた当作品であるが、大きな問題点もまた感じた。それはまずはこの物語の中心核をなす殺人計画の顛末であるが、この作においては憎むべき男が無事に死んでくれたが、それはこの場合たまたま粗忽なドライヴァーが、大幅速度違反して操る大型トラックが、後方を接近追尾してくれていた幸運によるもので、もしもこういう状況がなければ、自動運転の試作車には急制動がかかるだけだから、馬鹿上司は、後席で前のめりになってどこかで額を打ち、大きなタンコブを作るくらいで無事会社に戻って来かねない。そうなった際のこのゴリラの言動は、筆舌に尽くしがたい大暴れとなって、計画者は一ノ瀬以上に凋落し、会社をはじき出され、門倉を十回殺しても飽き足らない怨念になりかねない。
 やはり客観的に見て、この殺人計画はあまりに不充分なもので、ターゲットが死なない確率の方が遥かに高いように思う。後方に車が皆無のケースも考え得るし、いてもそれが計四輪とか、単独運転手の小型ファミリーカーである可能性もある。さらにはそれが充分な車間距離を取り、制限速度を遵守していれば追突しないかもしれないし、しても衝撃は軽微である可能性がある。これは大型トラックも同様で、これが法定速度を守って、車間距離を通常以上に開けていれば、門倉はムチ打ちくらいですんでいる。世の害悪を確実に取り除こうとするならば、もう少し計画を進め、細部を深めて、彼の死をより確実なものにすべく手当した方がよいのではと考えさせられた。
 作者は途中からこのことに気づき、個人的報復からこの馬鹿者を消すのではなく、計画は会社への報復なのである、と話を変えたように読めてしまうのが、個人的にはいささか食い足りない印象になった。大筋としてはその言い分も分かるが、弱い計画への単なる言い訳で、一定の地位に昇った計画者が、それほどにあかつき自動車に怨念を抱く人物とは読めない。先の落ちこぼれ、一ノ瀬がたびたび口にしたように、あれこれあっても自分は自動車という科学を愛していたし、会社には相応の感謝の念も抱いている、むしろ恩に報いたい、というあたりの台詞が、この善良な人物には適当のように思われて、先の説明がもしも作者の軌道修正であるなら、ますますピントがはずれて行く手当のような感想を抱いた。
 しかしこの傷は、ストーリーの背骨に属するものであるから、ゲラで簡単に修正できるものでもない。計画は不出来のものであったが、たまたま大きな幸運に助けられた物語として読む意外にはない。そうならむしろ、計画者は門倉を殺すつもりはなく、つまりこれは殺害計画ではなく、たんこぶ程度の罰になるように計画し、自身は罪を免れ得るように完璧に手当て、段取りを構築して待ったのだが、たまたま後方に大幅速度違反の大型トラックが追尾していたため、意外にも門倉は死んでしまった、といったあたりに話を変える方がよいかもしれない。
 さらにもうひとつ気になったのは着地部分で、スーパーコンピューター「マリス」が、古今和歌集の詠み人知らずの歌を、たまたまライヴァル的関係となった若い女性刑事、前之園に読ませる趣向は、大層気が利いていて気に入ったし、感動もした。ところがこの部分の作者の、マリスの思惑への洞察が自分と大きく異なったので、非常に意外であった。この歌をマリスは、男性刑事の斉藤でなく、女性である前之園に突きつけた。そういう状況なら、自分にはマリスの気持ちこそがよく解り、作が示すところの無難ではあるが、思索が足りない理系オトコの間抜けな解釈に、そういう考え方もあるのかと、ある種愕然とした。
 これは生身の体を持ち、機械である私を見下して今は優越感にひたっているあなただけれど、今のように肌の張った時期はごく短い、じきに目の下に袋ができ、顎の下に脂肪がぶらさがって笑顔が消え、強がり男性たちによる内心の羨望や嫉妬視線もなくなり、あなたの方は笑顔も消えて、一日中ぷりぷり怒っている中年女の毎日になるわよ。でも私は、その時もこのままの外観で変化してはいない、と主張しているのであって、前之園が、この女性的な意図に気づかないはずはない。
 鳥のさえずる春は年ごとに新しくなるが、自分の方は古くなっていく、という歌を聞いて、即刻自分の美容を考えない女がこの世にいるとは思われない。マリスの思惑を瞬時に見抜いて、前之園はコンチクショウと一度は思ったはずで、しかし時間をかけて気分を乗り越え、作にあるような、冷静なおとなの結論に到達したということなのであろうと推測する。あらかじめ空中にあった物語は完全なのだが、創作の女神の意図に作者が気づかないということはよくある。

最終選考作品

シシノケたちの電脳集落夏藤涼太

梗概

 人生において友人も学校も無駄だと判断した賢治は、ネットを用いて独学に励む「能動的不登校」の17歳。賢治は勉強の気晴らしに、ライブ配信サイトで顔を隠した少女「きっど」の配信を視聴する。きっどは純粋すぎる性格とかわいい声から、ネットで人気を集めている女子高生だ。
   きっどは「呪われてしまったかもしれない」と視聴者に悩みを相談する。石川県の山間集落Wに住む祖母が入院したため、きっど一家は同集落にある大伯母の家に泊まっていた。だがきっどとその弟は、祖母への差し入れ用の山菜(ノビル)を採ろうと入山を禁じられた山に登ってしまい、謎の廃神社や、大量の死体が積まれた地下空洞、そして「シシノケ」と呼ばれる芋虫のような怨霊に遭遇する。
   きっどはシシノケからなんとか逃れたものの、その後、怪現象が続発。さらに入院していた祖母も死亡する。大伯母に相談すると、それらは「シシノケの祟り」であり、誰にも話してはならないと言われた。
   だがきっどは恐怖から教えを破ってシシノケについてネットで話してしまい、その結果、肺が破れるという「祟り」が起こってしまう。
   賢治はネットを用いた捜査と推理で、きっどの身に起きた怪現象を科学的に解明する。さらにシシノケとは「獣除け」のことで、山間集落において、貴重な畑を荒らす天敵である野獣を除ける神であり、その正体は「ヒルコ」だとあばく。ヒルコは日本神話において日本国土を象徴する最初の神だったが、手足のない障害児だったために神の座を排斥された。これは大陸から移動してきた渡来人(稲作農耕民)によって同化・排斥された先住日本人(狩猟採集民)の信仰する神。集落Wは先住日本人の末裔によって拓かれた村で、被差別民の集落だった。すなわちシシノケは集落Wにおける先祖神=守護神であり、けっして祟りをなすような怨霊ではなかったのだ。
   きっどには「呪われた」という思い込みとストレスで、「気胸」という肺に穴が空く疾病が起こっていた。だが賢治がシシノケの正体をあばいて無意識下の不安を取り除いたことで、快方に向かう。
 賢治は配信の視聴者から「電脳探偵」と褒められる。それは初めて覚えた充足感であり、ずっと求めていたものだった。無駄だと言い訳をしていただけで、本当は周りから排斥されることを恐れて賢治は不登校になった。だがネットには社会から排斥された者達が多くいる……自分の居場所はネットにあると確信する賢治。
   だが全てが解決したかに見えた矢先、きっどの弟が突如行方不明に。さらにきっどが「特定」され、個人情報やその「醜い顔面」が開示されてしまう。
  視聴者はきっどを罵り、一部は顔を隠したブスに踊らされていたファンをバカにした。賢治はネット住民同士が排斥し合う光景にショックを受けたが、そこから着想を得て、排斥された者同士が寄り集まった集落でも同様の排斥現象が起きたのではないかと推理。シシノケの本当の正体は「被差別民に差別されていた不具者」だと気づく。シシノケは「獣除け」ではなく「四肢無怪」であり、集落Wでは、ヒルコへの人身御供という名目で不具者を大量に間引いていたのだ。きっどが山中で遭遇した大量の死体こそ間引きの痕跡だった。
   さらに賢治は、今までの怪現象は全て集落の秘密を守ろうとする大伯母の犯行であり、きっどに「祟り」が起こるよう、精神的に追い込んでいた配信視聴者の1人だと特定。大伯母は口止めのために、ノビルに似たスイセンを用いて祖母を毒殺し、きっどの弟を誘拐したのだった。だが賢治は「特定」によって開示されていたきっどの個人情報を利用して、遠隔で弟を救出することに成功する。
   ネットもなく、自由な移動もできなかった時代に集落から排斥された大伯母は、集落の暗部を担うことで唯一の存在価値を見出し、自身のレーゾンデートルを保っていた。山中にあった大量の死体には大昔に間引かれた不具者だけでなく、大叔母が殺してきた遺体も含まれていた。しかし大伯母は、自身が殺してきた者達の祟りによって突然死を遂げてしまう。
   今まで賢治は、大叔母によってシシノケという怨霊の知識を植え付けられていたために、きっどの無意識がシシノケという想像上の怪異を見てしまったのだと解釈していた。だが事件の全貌が明らかになった結果、きっどがシシノケの名前や姿を知ったのはシシノケに出遭った後だと判明。つまり、きっどは「シシノケを知らないのに伝承通りのシシノケに遭遇した」ということになる。知らないのだから、錯覚や思い込みでは説明できない。
   賢治は「形態形成場理論」や「恐怖の条件付け」などの最新の研究結果を引用し、「実在しないはずの怪異に祟られる可能性がある」という独自の研究を発表する。それは科学主義者の現代人にとって、もっとも恐ろしいロジックだった。幽霊の正体は枯れ尾花ではないと、科学的に証明されてしまったのだから。

選評島田荘司

 NETのライヴ配信サイトで自身の音楽や、メッセージを発している「きっど」と名乗る、いつもお面をつけた女性の霊的な恐怖体験談を聞いて、おなじく彼女の純粋そうな言動と音楽に惹かれて集まっているNET民たちと話し合って、キッドをまじえてNET上で集まり、この体験が意味するところについて、考察しようという相談になる。彼女の体験が現実か、幻想なのか、から端を発したが、会話を重ねるうちに、メンバーの考察が、日本社会における衆目から隠されている知られざる暗部、地方に残る特殊な慣習や、これがあるらしい地域についての学習、さらにはそこで行われる、外貌が一般日本人と異なる人たちへの強烈な差別慣習について知るようになる。
 オフラインの集まりは、これらの暴力によって人里を追われ、人目をはるかに離れた草深い山中の、交通手段も電気も水道も、スーパーマーケットも、病院も、学校もない劣悪な環境で人知れず生涯を送った、外貌が一般と違う集団の歴史についての、「学習会」の様相を帯びはじめた。彼らへの差別は、傲慢ゆえの見下しではなく、怪物とか幽霊に対すると同等の強い恐怖心に根ざしていて、これは弱い大衆たちにとっては、彼らなりの素朴な信仰や、自己卑下の謙虚さとも通底し、したがって反省や、改善の対象となることはなかった。そのような発想は、対等な人間関係からしか生じない。極限的に無力な大衆からは、それは発想のらち外にあった。
 日本には古代からこうした、生涯ただの一度も都はむろん、集落の人前に出ることもない特殊な外貌の人間の暮らしがあり、彼らは日本人であって日本人でなく、それどころか生物的に別種の、動物のような暮らしを国の暗部で続ける以外、許されなかったのではないかという、日本社会の重大な事実や、罪に気づいていく。
 こうした「学習会もの」とでも呼べそうな文芸ジャンルが、この国には昔からあって、自分も中学、高校時代からいくつか読んだ記憶があり、懐かしい感覚が呼び起されて、なかなか楽しく読んだ。しかし当候補作品は、時代の経過によって会の内容が一新されているところが興味深かった。そしてこの「一新」の内部に、この小説の背骨となる重大なテーマをうまく絡ませているところに、この小説の優れた点があり、感心した。
 自分がかつてなじんだ記憶があるこの種の小説群は、メンバー誰かの広い家か、学校か、公民館のような公共施設に定期的に集まり、大テーブルにつき、探求の要が生じたテーマについて語り合う。しかし若い各自が持つ情報には限りがあるから、メンバーおのおが専門家に取材したり、専門書を読んだりして、後日成果を持ち寄ろうということになる。そして持ち寄った情報を、会合のたびにテーブルに乗せ、みなで協議し、結論を求めて知恵を絞る。メンバーは男の子たちだが、中に一人女の子がいて、彼女は必ず外貌が可愛い設定になっていた。ゆえにメンバーはみな彼女に好意を抱いており、これが会が続く理由にもなっており、一方読者の方もまた、読書を続ける魅力となっていた。
 孤独な読書による勉学でなく、気のあった仲間大勢が会話しながらの学習の方が楽しいし、読者の側としても、その方が頭に入りやすい。つまり面白くてためになる読み物、という主張がこの文芸ジャンルにはあった。
 この作の採っている方法も質的にはこれと同じで、前段のいささか起伏の乏しい展開は、こうしたジャンルの流れを引くがゆえと、読み手には理解してもらうのがいいだろう。だが二十一世紀の今日においては、会の仕組みやメンバーの様相がまったく異なっていて、メンバーがみなPCを所有しているから、場所を確保して実際に顔を合わせなくとも、オンラインでの手軽なミーティングが可能になる。親の苦情などを気にせず、深夜でもかまわず集まれるし、加えて検索という強力な武器があるから、実際に足を使って専門家に会ったり、図書館に行って参考書を読んだり、教師の話を聞いたりの必要はない。グーグル検索で瞬時にその何倍もの情報が手に入り、メンバー全員がこれを共用できる。必要なら海外に取材に飛ぶこともできる。かつてよりもこのジャンルが書きやすくなった。
 そして例によってみなが強い好意を抱いているメンバー内の紅一点、「きっど」が、この便利で近代的な方法によって生じたある要素、メンバーが実際に互いの顔を見ることがないという利便性の効能で、ある重大な秘密を隠していた。彼女がいつもつけているお面の下の顔が、実は一般と異なっていて、すなわち世間的な美的基準に照らせば醜女であったことが判明し、会合の様相は一変する。団結心も探究心も瞬時に消滅し、不可解な、ゆえない怒りが発動し、炸裂する。ここには学習会ものの暗黙の了解としての、メンバーの定番構造に違反している、という珍妙な倫理上の不満も関わっているように、個人的には読めた。会には「きっどファンの集い」という側面もあったわけだから、これは理の当然でもあったのかもしれない。
 しかしこの事件によって事態が先鋭化し、問題考察がかえって確信を探り当てる結果になる。日本のNET社会にこれは特有の、強い匿名志向、これを盾にした異形の外貌人に対する苛烈な攻撃の用語群、これらがあまりに流暢で完成的であり、しかも見下し態度は、信仰心にも似た確信が宿り、道徳的な点検心がかけらも現れることがない。ゆえに差別と軽蔑は安全なエンターテインメントとして確立し、嘲笑態度はひ弱な者ゆえの虚勢で著しく、そして罪の意識がかけらもないことに、私自身、長く疑問を感じてきた。この種の他者侮蔑と嘲笑は、病んだユーモアとして磨かれ続け、対象者を傷つける武器としての鋭利さを、果てしなく増していく。
 これが中高校に蔓延する虐め慣習の多発や、無反省態度につながっているし、女生徒グループならばこれが多少は遠慮されるかというと、そういう気配はなく、むしろ女生徒の方に差別や虐めが多いというような報告も言われて、そうならここには、彼女たちなりの道徳心の行使も加わっていると思われて、わが社会のこの異様には、何らかの民族的病の因子が潜んでいるのでは、と長く疑ってきた。
 いわく、ブス、キモイ、顔グロすぎ、この顔であのぶりっ子はキモイ、キモイオタクどものアイドル、モテないってこわっ! などなど、同病者には心からの楽しさと笑いを誘う、定型の病的用法の群れ。
 作者はそのように宣言してはいないし、当作がこれを指摘、糾弾するための創作だとは認識されていず、誇る気配もないが、作者は日本民族の根深い病理に対して、当物語によって貴重な回答の視線を持ち込んで来たように思われて、個人的にはこの点に最も気持ちを動かされた。また作に降臨した価値を目撃する心地がした。
 奇形児ヒルコは古事記にその姿が見える。この逸話の風景にどのような警句を読むかは読者の自由であるし、古事記はキリスト教の旧約、新約の書とは違って聖書ではないし、読者を信者とも考えていない。そこに倫理的な教唆などはないと受け取るのが一般的だが、古代から日本列島の民のうちに、多くの奇形児が生まれてきたことは間違いがない。それが極めて繊細なわが民の、強い恐怖心の対象となってきたことも、想像にかたくない。無力な大衆は、自らを正当化する宗教的なストーリーも作ったろう。
 今日とは違って美容整形もない時代だから、こうした異形の子は、無力な大衆から力の限りの差別と攻撃を受け、人里の一般的人間関係から追い払われたのではないか。そして獣も通わぬ草深い僻地の、山奥のどこかで、ひっそりと生き延びる以外に道がなかったのではないか。動物に貶められた彼らが、生存のため、集合して援助し合うこともあったろうし、里の一般人からの理不尽な攻撃を避けるため、自らを魔物に装うことも、あったと思われる。
 日本には古くから山の民の移動経路が確立し、生存のための情報が体系化していた。縄文型狩猟採取の生存形態を採った彼らは、一歩も人里におりずに日本列島を縦断する道を持っており、それらはごく幅狭い踏み分け道だが、沿道のどこに雨風をしのいで眠れる場所があり、どの季節、どこに、どのような食可能な木の実が落ち、口に入れられる草や花があり、どの川に鮭や鱒が上がってきて、どこの野に補足しやすい小型動物がいる、といった情報がことこまかに伝えられていたと言われる。
 しかし列島でただ一か所地上におりなくてはならない場所があって、それが琵琶湖だった。山の民はここで里におり、大道芸や、売春を行ったとされる。こうした民に、被差別の一族が合流することも、時にはあったかもしれない。
 北陸には、生まれた娘が盲目であれば、子供のうちからごぜの集団に渡してしまい、三味線や歌の芸を仕込んでもらい、彼女らは生涯音曲を生業にして、遊興の座敷で歌う旅に生きることになる。以降もう二度と、別れた娘に会わなかった親も多い。これは「姥捨て」ならぬ「子捨て」で、そういう習慣も、ごく普通に日本にはあった。
 貧しい時代、口に入れるものに苦労した家庭には、盲目の娘をごぜの集団に手渡してしまう判断はごく一般的で、決して特殊ではなかった。盲目に産まれた女には、それ以外に生きる生活手段がないと、往事の無力な大衆には信じられていた。
 同じ北陸地域には、認知症が進んだ老いた親を、食い扶持を減らすため、山奥の洞窟に捨て置いて死を待たせる、いわゆる「姥捨て」の習慣も、ごく最近まで残っていた。奇形の子への激しい差別ゆえに、わが子を山に捨てた親たちも、これら慣習と共通する、わが民ゆえの、当時としてはやむにやまれぬ生存の発想と考えられる。
 韓国の仏教徒の信仰習慣には、奇形の者は前世で重罪を犯した罪としてあのような姿に生まれついているのだから、差別に罪を感じる必要はないという信念を、これは実際に聞いた経験がある。こういう人たちには、異形の者への差別や罵りには反省が宿ることは期待できない。隣国日本人大衆のうちにも、自らの無力感や自己卑下、謙遜意識ゆえに、確立された許されるべき慣習として、時には道徳そのものとして、差別が容認されていたことは、歴史のあちらこちらからうかがえる。
 わがNETのにちゃんねる、ごちゃんねるにごく普通に見る、心楽しい、血も凍る人格否定嘲笑の安定感は、こうしたわが慣習群の残滓、あるいはそのものであるに相違なく、エンターテインメントに載せてこれを伝えたこの小説の功績は、評価すべきと感じる。どこまで日本人を向上させんと意識したかは不明だが、期せずしてわが民の恥ずべき病巣を探り当てて見せたことには、強い興味と価値を感じる。
 以上、おそらくこの作者の意図とは違う読み方をしたと思うが、作者の意識の深層から、別の価値を引き出した。虐め蔓延と、NET支配の時代ゆえに、広く読者に読まれてよいと感じた。

最終選考作品

花束の解読蒼木窓也

梗概

 ある年の冬。 大学生の織水ひかるは、友人の古崎智也に暗号解読を手伝ってほしいと頼んだ。それは六年前に亡くなった彼女の祖父、光一郎がつくったもので、彼は熱烈な暗号マニアだった。
 ひかるの従弟、剛志の親が経営する旅館 (朧明館)に赴いた古崎は、ひかるたちと暗号解読に取り組む。すこしずつではあるが、解説は進んでゆく。
 そんな中、剛志の父親 (斗寸)が密室の書斎内で殺されているのが発見される。 致命傷は首の切り傷だったが、腹部にも刺し傷があった。事件を捜査する刈田警部は密室の謎に頭を絞るが、決定的な仮説を立てることはできない。
 一方、 ひかるは自分の犯した罪の重さに深く憂えていた。 斗寸を短刀で刺したのは、彼女だった。
 元旦の朝、朧明館で再び遺体が発見される。 剛志の母親 (鈴菜)が、 物置部屋で斃れていたのだ。彼女の背中には包丁が突き刺さっており、指先には「ツヨシ」という血文字が残されていた。しかし犯行時刻、 剛志にはアリバイがあった。
 捜査を進めてゆく中で、 刈田は六年前に朧明館で起こった自殺事件について知る。そのとき服毒死を遂げたのは斗寸の兄の寧人だったが、その死には疑わしい点があった。さらに彼の父親の光一郎は、その事件の九日後に転落死を遂げていた。
 その後、何人かのアリバイを崩すことに成功した刈田だったが、犯人を絞り切ることができず、捜査に行き詰まり、友人の逆井警部に助けを求める。
 一方で暗号解読は一歩ずつ進んでゆき、最後の暗号を解いた先には、光一郎からの手紙と贈り物が待っていた。それは彼が生前大切に使っていた、万年筆だった。
 その夜、ひかるは祖父からの手紙にもうひとつ暗号が隠されていることに気づく。それを解いた先には新たな手紙があり、そこには光一郎の秘密が告白されていた。彼は息子を誤って毒殺してしまい、そのために自らの命を絶ったのであった。手紙を読み、当時の祖父と現在の自分を重ねたひかるは、自分の罪を知ってほしいという思いに駆られ、その役目を唯一まかせることのできる古崎に、殺人事件の捜査を依頼する。
 殺人事件について調べはじめた古崎は、その過程で逆井警部と知り合う。なぜか捜査情報を教えてくれる警部を不思議に思いつつ、彼は自分なりの結論に辿りつく。
 古崎はひかるにその結論を伝える。二人を殺害したのは、彼女であるという推論だった。 ひかるはそれを認める。しかしその後、彼女が斗寸の首の傷について知らなかったことから、ひかるが犯人ではないということに気づいた古崎は、逆井に連絡をとる。やって来た警部は、 自分の推理を披露した。
 斗寸の首を切って死に至らしめたのは鈴菜で、彼女はその後、ひかるに罪を被せるため、 他殺に見せかけて自殺したのだった。

選評島田荘司

 フィールドに、もしも「暗号ミステリー」というジャンルが確立、継続しているのであれば、この分野の優秀な習作となるであろうと、なかなか感心しながら読んだ。作中に順次現れる暗号はよく考えられており、解読説明の際の説得力も一定量あるから完成度も高いと言えそうで、国内の有名賞に投じられても、他候補が低調であれば、受賞してもおかしくない。
 ただし面白かったかと問われると、われを忘れるほどの瞬間はなかったというのが正直なところで、熱のない文章のゆえもあるが、作中時間は淡々と進行し、約束事としての冷静さで複数の暗号が現れ、当然のように殺害死体も出現し、予定通りに捜査員たちが現場に外来して、必要にして充分なだけ気のきいた会話を残していく。驚きが少ないミステリー小説だが、必要なだけの高級なパーツが揃えられた、行儀のよい提出態度で、教師によって暗号ミステリー作品の提出が要求されての模範答案のごとき体裁を感じた。
 かつて新本格がスタートした当時、殺人事件は怪しげな住人たちが集合する館の中でばかり起こり、森や草原は殺人現場たるの資格を失ったように見えた時代があったが、あの時代の館のように、死体のかたわらには必ず暗号が必要と要求される小説群があるならば、暗号が登場しなければ作例とならないから、当作のように暗号は淡々と現れ、解かれるのであろう。それはハーレクイン小説における、胸板の厚い、若くハンサムなお金持ちのようなもので、登場しなくては作例とならないから、出現に驚きの必要はない。誰よりも書き手が驚いていない。暗号の登場を待機している暗号マニアへ向けた創作ならば、これで問題はない。
 しかしこちらは、暗号に特化した期待感を持たずに作群に接したので、暗号の出現に興奮を感じなかったのみならず、先行定型への問答無用の依存、これに自信満々の様子、さらに言えば、この自信のやってくる場所のずれ方に、違和感を抱いたということに思われる。館も暗号も、本来は事件の性質が要求するから現れるのであって、そういう小説ジャンルが存在するから現れるのではない。犯罪行為ののちに現れるべきミステリーには無限の選択肢があり、たまたま暗号になったり、舞台装置たる建物の謎になったりする、ということが本来である。しかし日本には、好みの謎のパターンから逆行して事件を決めたがる書き手、読み手が多い。そうしたことを考えてしまうと、展開ヘの肯定的な同感と追随がむずかしかった。またそうなら、館パターンの謎の方が、暗号パターンの謎よりも日本ではジャンル確立感が強く、存在感があって、著名作例が多いということも、あるいは感想に関係したかもしれない。
 英国のあの美しい家々の壁に踊る人形の絵が現れた風景とか、冒険を求めて体がうずく男たちの前に黄金虫の暗号が現れた際には、非常に好ましい興奮と、ミステリー以前に、文学作品らしい未知の冒険招聘へのわくわく感があった。それは暗号という奇異なものが発散する知的興味を選択した文学者の計算の的中があったわけだが、それゆえに、続く暗号への推理、解読の理屈や、現れたメッセージへの興奮にも、諾々と共感し、没入ができた。むろん当時の読者にとって暗号との出会いが未体験であった、つまり暗号がその当時目新しい謎であったゆえもある。パターンからの要請ではなく、わくわく感の要請によって暗号が現れていた。
 新人のうちは、どうしても先行パターンの模倣や迎合によって物語を作りやすい。格別日本人にこの傾向が強いのは、これを行儀と誤解するからで、ミステリー小説の場合、他の文学よりもこれが許容される割合が高いから、日本人に好まれた可能性がある。しかしこれは道徳の感性であって、突き詰めれば政治発想だから、先行例への迎合が創作論として正しいとは言いたくない。ポー、ドイル自身には、こういった発想はかけらもなかった。館こそが至上のミステリー舞台であると妄信した書き手が、同じ判断を持つ読み手に向けて、「館もの殺人パズル」を提供してブームを創った平成初期、「館本格」作品群は、世界にも例がない、全員二十代という書き手によって支えられていて、受験教科の問題集にも似た定型性が必然で、疑いの提出など許されるべきでない、という切実な生存競争の名残りが存在した。
 今また暗号の書き手に、同様に真剣な暗号作成という答案作成態度が見られた。暗号や殺人の出現に、これはそういう入試なのだからと、驚きや知的興奮に言葉を費やす必要を感じない様子ありありの作例が、若い書き手によって提出されて、苦い記憶が喚起される。館ものがブームのおり、機械的に館ばかりを描く判断は慎重に、とでも言おうものなら、受験科目の英語の存在に苦情を言われたごとき、許されざる非常識、刺し違えて殺すぞ! の激高を返された体験を思い出して、警察官以外の一般人物にとって死体や暗号は、ミステリーとの新鮮な衝突であることを語るのが小説のリアルというものでは、の意見提出に、再び躊躇を感じる気分が甦った。暗号に日常的に接している特殊な人たちなので驚かないということなら、そういう説明がなくてはならない。
 海外に出ることが多くなり、わが受験英語の厳しさが、高学歴日本人から英会話能力を奪っている事実を知るに及んで、あの受験戦争の厳しさはいったい何であったのか、事実学問であったのか、をたびたび考えるようになった。何か別の基準と意図を持ち、学問の体裁を寸借した特殊な人選であったのか、ではどのような人間が選び出されたか。日本人総体にあの試練は何をもたらしたか、真に国益に貢献したか、ついでに創作の現場はどのような被害を受けたかを、真剣に考えざるを得なくなった。
 日本型行儀強制の罪深さ、周囲に合わせるばかりの没個性育成と、匿名攻撃の嘲笑力ばかりが生き生きと磨かれた底意地の悪さ、倫理観の消滅、日本型ミステリーに独自の強固な定型信奉、機械にも似た無感動作風の露見と、その改善のむずかしさ、一方海外の才の見せる発想の柔軟さに、危機感を抱くようになっているこの頃である。
 当作中の登場人物の紹介法も割合型破りで、紹介直後に現れる発言の主に関する説明が少ないから、性別が解らない。台詞にも女性用法を避ける気配があるから、また殺人課の刑事であるから、会話を聞いたのちも男性かと思っていたら、女性だったりする。
 こうした様子は個性であり、格別問題というほどのものではないが、暗号はどれほど難解であっても歓迎だが、その周辺はすべて、疑問少なくすっきりしていて欲しい気分は感じた。
 日本のミステリー史は、黎明期は乱歩流の煽情性に無判断に盲従し、文芸畑から軽蔑されると、今度は社会派一辺倒に染まって本格派や名探偵を憤りとともに退け、続いて受験学生の新本格が登場の時代になれば、館もの以外を不純作例なりと怒りの説教を言い出し、二十一世紀本格と言えば、既製品PCゲームとの接近が繰り返される。まことに発想が限られ、定型的流行への忠誠行儀の保身、あるいは生存のための多数派捜索ばかりに神経が行き、小説書きはその次というふうの日本型判断が飽くことなく現れて、アジアの若者の先進発想に遅れはじめている。
 さらに一点付け加えれば、暗号というものの意味合いの時代的変化から、ジャンル成立願望への疑問を感じた。現在、暗号はITフィールドの各分野を支え、絶対に解けてはならない暗号が数多く出現している。スーパーコンピューターの時代に入り、別候補作『ヘパイストスの侍女』に見るような、文字列総当たりの模索も、ごく短時間で可能になった。逆に言えば、スーパーコンピューターをもってしても解けない暗号は作り得る時代になったということで、もはや暗号は、優れた感性の人間が、単独で、天才的ひらめきを頼りに挑むような対象ではなくなり、その種のスリルは色あせた。ミステリーに暗号趣味が遺るのはかまわないし、好ましいが、ポー、ドイルの時代の斬新性、先進性を失ったことも事実であろう。作品化するなら、IT時代の今日に合わせる何らかの手当も必要かと感じさせた。
 いずれにしてもそういう種々の問題点に気づかせてくれる、個人的には有意義な作例であった。

最終選考作品

夢魔の迷宮南野海

梗概

 都内高校生の霧華は目覚めると棺の中にいた。見知らぬ館にはぜんぶで八つの棺が置かれ、自分以外の棺には、クラスメイトの玻璃の他見知らぬ人間がいた。やはり女子高生の国友、ニート女の黒川、鳶職の男、榊原、男子高校生の幽目宮。ひとつは空の棺で、最後の棺には胸に杭を打ち込まれた、まるで吸血鬼のような死体が横たわっていた。
 話を聞くと全員なぜここにいるかわからない。どうやら誘拐されてきたらしい。それも 極めて困難な状況で。さらにここは無人島に唯一建てられた館で、このメンバー以外ここ には誰もいないらしいことがわかる。つまり犯人はこの中にいるのか? 霧華たちは二階のラウンジにまとまって寝ることにした。それに賛同しなかった黒川と玻璃を除いて。
 だがこれは夢だった。 霧華は学校に行くと、玻璃もまったく同じ夢を見ていたことを知 る。こんな偶然あるだろうか? そう思いつつ、教室に行くと、そこには棺に入った杭で胸を打ち抜かれた吸血鬼のような男の死体があった。困惑する霧華たちの前に、夢の中の住人のはずの幽目宮が現れる。彼に引き合わされた警視庁の氷川警部補は説明する。これは他人の夢に入り殺したあと、現実の世界でも同じような殺人をする「夢魔」の犯行であると。幽目宮は無意識に夢魔の世界に入り込む探偵、 霧華たちはそれに巻き込まれて夢の中に入ってしまったというのだ。
 ふたたび夢の世界。不審な音や悲鳴をラウンジの奥にある倉庫から聞いた霧華たちは、 倉庫に入ろうとするが内鍵がかかっていた。なんとか扉を打ち破って中に入ると、そこに は透明なガラスの壺に入れられた玻璃の刺殺死体が入っていた。だが、どう考えても壺の口は、玻璃の身体よりも小さい。その口から玻璃が中に入るはずがないのだ。
 内鍵に加え、ドアの外には複数の人間がいたという二重密室。それ以上に不可能なガラ スの壺の中に死体を入れ込むという手口に霧華たちは困惑する。ひとり喜んでいるのは探 偵気取りの幽目宮だけだった。
 朝になるとメンバーは、いやがる黒川を残し、館の外を調べる。この館以外はなにもない孤島で、入り江には船も止まっていなかった。
 館に戻ると、黒川が自室内でバラバラになって殺されていた。しかも、ドアを開けたとき、手足がふわっと浮き、首は転がった。 霧華は気を失う。
 夢から目が覚めると、現実の世界でも玻璃は自宅から消え失せていた。護衛の刑事が見 張っていたのにも関わらずだ。玻璃の刺殺体はその後、学校の文化部備品置き場にある張 りぼての壺の中から発見された。ガラスの壺の代用なのだろう。さらには教会跡で黒川の バラバラ死体が樹から吊り下げられて発見された。
 再び夢の世界。わずかな隙を塗って、国友が殺された。エントランスの大梁からロープで首を吊っていたのだ。踏み台もなにもなかったから自殺は考えづらい。黒川の時もそうだったが、ほんのわずかな時間で、こんな手の込んだ殺しができるのだろうか?
 そんな中、幽目宮が棺の一個が二重底になっていて、そこに秘密の地下室の階段がある ことに気づく。下は地下牢になっていて、謎の人物が閉じ込められていた。その男は天野青空と名乗った。天野は自称正義のジャーナリストにして探偵で、霧華たちから事件のあらましを聞く。その間、外にいていた榊原は入り江で刺殺されていた。だが、砂浜から 死体までは榊原本人の足跡しかなかった。
 現実の世界でも、国友と榊原は殺された。やはり国友は首つり状態。榊原は噴水の水の中で刺殺された。現実の世界にも天野は現れ、事件解決に乗り出す。 そこで出た解決策は、 三人一緒に同じ部屋の中で警察の監視の中、眠るということだった。なにかが起こるのか?なにも起こらず、事件は収束するのか?そんな中、天野は氷川こそが犯人だと明言する。暴走する氷川が天野たちを殺害する中、霧華は真相に気づく。現実の世界と思われていたこの世界こそが霧華の夢で、あの孤島の惨劇こそが現実に起こっている出来事なのだと。
 再び孤島に戻ってきた霧華たち。夢としか思えないが、夢ではない現実の世界。そこで天野の真相解明が始まる。

選評島田荘司

 この国に、かつて新本格というミステリー創作のブームがあり、これを支えた書き手は、世界にも例がない、全員が大学の卒業したての二十代という珍らしい出来ごとがあった。これは、輸入文学ミステリーの、日本に特殊な黎明期の事情が関係しており、この時期の失敗を糊塗するための、ある罪深い無理が祟ったものだった。
 現在の本格ミステリー・ジャンルの性質にも、こうした歴史的な罪が尾を引いていないはずもないのだが、フィールドは、新本格現象のよってきたる理由を考えることもせず、多くの問題点への反省も総括もなく、漫然と現在をすごしている。この点を、多少は考えないといけないのでは、と最近は思うようになった。
 この現象の原点には『斜め屋敷の犯罪』という館もの本格が引き金としてあった。これに触発されて、京都大学ミステリー研から『十角館の殺人』というやはり本格ゲーム小説が現れ、これに刺激された全国の大学ミステリー研から、館もの本格出現が爆発的に続いて、講談社に文芸第三部という受け皿が作られたゆえもあり、みるみるブーミングが形成された。
 ここで見落すべきでないのは、原点の二作、「斜め屋敷」も「十角館」も、ヴァンダイン流儀の館ものの単純な模倣ではなかったという点である。建物を傾けることによって生じるある特質への着目も、登場人物たちに用いられた叙述のトリックという斬新な営為も、ヴァンダインが到底やりそうもない方法で、この時代を拓いた本格トリックのユニークさと価値は、まさにこの点にあったという観察こそがあるべきだった。
 しかし「十角館」の後方に行列した書き手たちは、怪しげな館、その内部に集合した怪しげな住人たち、間もなく起こる密室殺人と、外来する名探偵、読者がすでに心得た情報のみを用いるという厳正なフェアプレー、彼の示す推理の論理性高、指摘される犯人が意外であること、そういったヴァンダイン考案の諸ルールを厳守することばかりを目指し、変更や付加、発展を発想しない原理主義的「館本格」を、行儀よく量産することでブームを創り、原点の二作が「館もの+アルファー」という革新の特徴を持っていたことを、あっさり見落とした。この様子は、まさしく前例を学習しての競争という、わが受験体制の正確な再現であった。
 これを指摘する勇敢な論者もフィールドにはなく、かつての清張呪縛時代の子飼い評論家たちは、「彼らの創作には人間がおらんね」ばかりを行儀よく繰り返すので退場させ、新本格ご用達の評論家集団を招聘すれば、彼らもまた事情を心得、「館もの本格パズルこそは、あやまてる社会派強制の時代を生き抜いて摑んだ至上の黄金である」と語り続けた。清張呪縛下において、乱歩流儀の作家と本格系の作家が併せ追放されたように、新本格全盛期においては社会派と文芸流儀の推理作家が同様に追放されて、単に同じあやまちを機械的に繰り返すだけに終わった。しかしこの点を評論筋はタブー化して今も言及を避け、知らん顔を続けている。
 館ゲームパズルの減速は、清張流儀の終焉よりもすみやかだったから、異端審問官たちの情熱的な館賞賛や、人物記号化文体の強制、清張流人間描写の禁止という珍道徳も、この寿命短縮にあるいはあずかっていた。館ものがフィールドを去ってのちも敬虔な信者や異端審問官は、館の再臨を信じて待ち続け、ついに「屍人荘」が地平に姿を現して、狂喜乱舞とともに彼らがこれを迎えたことは、割合記憶に新しい。
 屍人荘は「館もの+ゾンビ」というユニークな構造を持ち、新本格ブームの原点の秘密を見抜いていた点に、書き手の優れた洞察力があった。ただこの「ゾンビ」という概念は、映像を含め、あまりに多くの強力な先行作例を持っていたため、館本格という神聖な作風の立ち位置を危うくし、営為をホラーSFの領域に連れ去りかねない腕力を持っていたことが、次第に熱狂者たちの戸惑いになったかもしれない。
 さてこうした新本館・近現代史の推移を心得て本作『夢魔の迷宮』に向き合えば、この習作が、『屍人荘の殺人』同様、述べた歴史をよく理解していることが見て取れる。この作の外観が、「孤島に建つ館もの」を踏襲しているのは明らかで、こうした館ものに加えるところの+アルファーとして、この作は「夢魔」、すなわち第三者の夢に侵入できる超能力者を登場させ、饒舌に語らせて、作全体をユニークで斬新な印象にしている。各キャラクターの言動の効果で、全体として、現在人気のアニメ映像の方向に寄った仕上りになっているだろうか。つまりこの作もまた、導入したアルファーが、いささかの既視感と存在感を持ちすぎていたかもしれない。
 こうした特殊な能力、すなわち夢世界と現実を行き来する悪魔的存在がいる以上、夢と現実世界という二重構造の舞台設定が必然となり、両者の視界をうまく書き分けた上に、夢魔と語り合う演劇的な饒舌ステージを設営する必要があった。これがうまくできていれば、前例のないユニークなミステリー世界が現れたはずである。
 さらには残酷な人体モビールというアートとか、口の口径よりも体積の大きい人体が入ったガラス製の大瓶。これは割られた形跡も、貼り合わされた跡もないなど、登場するさまざまに魅力的なミステリーのエレメントも評価すべきであろう。しかもこの人体入りのガラス瓶は、これが置かれた世界が夢であることを示す重大な理由としても機能する。
 個人的体験を言うと、他人の夢に入り込める能力を持つ者が登場するミステリーを読むのは二度目ではあるのだが、こうした特殊なキャラクターや事物が散在する世界を俯瞰すれば、なかなかに絢爛たる印象であり、これら諸要素への着想の点だけでも書き手のユニークな才を感じて、一線級のミステリーとしての条件をそなえた挑戦作と評価すべきであろう。さらにはこの二重構造が、終盤にいたって表裏が反転するどんでん返しももくろまれていて、物語装置として、大きな驚きも内包している。
 ところが一読後、あるいは読書の中段からすでに、ミステリーの描写に関して、重大な何ものかが不足している気配を感じはじめて、こちらの意識から、作中世界が徐々に遠のいて行く感覚が起った。それは作がこちらに懸命に見せようとしている作りものの視界が、徐々に小さくなり、遠ざかっていくような体験であった。
 この作品世界は、鷗外や三島、谷崎のような文芸を好む読み手には失笑、冷笑の対象であろうから、この超常識ぶりは好ましく思うし、アニメ・フィールを借用したふうの現実的でないギャル的な警部の立ち居振る舞いとか、登場人物たちの言動も、好みではないものの、合目的であることはよく理解ができる。しかしこうした超常識的な異世界を描かんと計画するならば、綿密な計算と、よく計画された文章の技量が必要ではないかと思う。
 リアリティ判定などは糞くらえであるが、ビリーヴァブルさは重要であり、これを信奉すると、あちこちの賞選考で語ってきている。眼前にUFOが着陸して宇宙人が路上に飛び出し、光線銃を撃ってきたとする。これをリアリティがないと嘲笑して否定するような論評は論外で、気にかける必要はないが、こういうことがもし事実眼前に起これば、視野に何が見え、どのような空気感の異変が起り、どういった恐怖や迫力がこちらに押し寄せて圧迫するかを、読み手にリアルに感じさせなくては小説たるの意味がない。作者が考え抜いた、展開上必須の事件であるならば、それがどんなに突飛で馬鹿げていようとも、リアリティを持ち出して切り捨てを発想するのではなく、そのあり得ない出来ごとを、読み手たるこちらに信じさせる力量が書き手にあったか否かを、選者は判定するのが務めとなる。
 異生物の外貌はどうで、どういう肌や体型をしており、醸す威圧はどのような種類のものか、光線銃はどのような音をたて、対象をどのように破壊するかは、どうせ噓世界のことだから描かなくても、などと言い出せば、それはごまかしで、教条主義選者と同じ位置に転落する。かといって微に入り細に渡ってそればかりを描写しすぎれば、ものがミステリーならバランスを崩して文の流れを乱す。文章作成上の気配りの質やその量は、冒頭から着地まで、およそ一貫してリズムを保たなくては文学たるの資格を減じてしまう。時に墨痕の筆のかすれが雀の羽根を的確に描く。雀に入れ込みすぎてはいけない。さじ加減の一貫も能力のうちである。
 夢と現実、おのおのに費やされる筆の内容に、違いは生じてもよい。登場する人間の立ち居振る舞いや、繰り出す言葉に、夢の場合は奇妙な気配はないか。こうした細部は伏線になり得るし、どうせ先でひっくり返すのだから、筆で夢の証拠を遺してはまずいもまた言い訳になる。そうなら尚のこと、こうした気遣いはあってよい、あればその先の表現も必ず見えてくる。また書き手の意識が対象に強く入り込んでよく事物を見ていれば、こうしたことは自然に起るはずである。
 そうした熱の不足が、次第にこちらから読書への気負いを奪っていった。つまり説明される事件や、語られる眼前の事物に、なんだかどちらでもよいような気分がしはじめて、興味が薄らいでしまう。文の語りも、あまりに予想がつく月並みな言い廻しが連続すると、まあそう言うだろうな、そう発想するだろうなの連続になって、気分が作中世界の出来ごとから離れていく。こちらの想定を裏切ったり、予想を上廻るユニークであったり、感心できる表現が、何回かに一度は現れて欲しい。超常識の出来ごとを起こしているのだから、それを馬鹿馬鹿しく感じさせない辛抱強い努力は、作者に必要であろう。
 とは言うものの、よい位置にまでミステリー追究の情熱を感じた、あと一歩の対象への迫り方と完遂があれば、受賞にもいたったろうし、「屍人荘」のように一時代を築けたかもしれないと思う。少々惜しい印象であった。