第一次選考通過 [ 21 ] | 最終選考 [ 4 ] | 受賞作 [ 1 ] | 優秀作 [ 1 ]
マサチューセッツ州の小都市,コーバン。十一歳の少年コーディ・シェイファーは,幽霊屋敷を探索していた。邸宅の最後の主であるクロフォード・リリブリッジは,二次大戦前にはガラス製造で富を築いたということだが,ある事故を契機に,屋敷の窓という窓を煉瓦でふさぎ,妻子を連れて隠遁したという。そうした奇行の末に彼が自殺したのは,数十年前のことだ。
屋敷は十七世紀のもので,当時魔女裁判の判事をつとめたという,クロフォードの先祖にあたる人物が建造した。魔女裁判では人の顔を判別できないはずの目撃者が,被疑者を集めた予備審問で告発を行ったとされる。六十年代にはヒッピーが屋敷に入り込み,LSD中毒死したという話まである,いわくつきの館だ。
交通事故に遭って以来,人の顔を認識できない「相貌失認」の症状を呈していたコーディは,「クロフォードは何故このような奇怪な屋敷に隠遁したのか」に疑問を持って調べていた。そして邸内で死体を焼却する,不審な人物を目撃してしまう。逃げる際,犯人と鉢合わせをするものの,なんとか逃げおおせる。彼は隣人のサリー・リアリーに連絡をとり,保護を求めた。
事件の捜査にあたったコーバン市警のバロット警部補は,「人の顔を認識できない目撃者」から証言を引き出すため,脳の専門家にコーディの診察を依頼する。
顔は認識できないとして,顔以外の記憶に関してはどの程度信頼できるのか? 今後症状が軽減し,顔を認識できるようになった際,犯人の目撃証言をとることは可能か? そういったあたりを知りたかったのだ。
さらに,日本人のトーマ・セラ(世良冬麻)にも協力を求める。トーマは大学で,何かを目撃した際,状況や他者からのバイアスによるヒトの記憶の変容について,心理学的研究を行っていた。
トーマは警察の調書を確認し,あやふやな記憶や尋問時のバイアスを取り除くことで,ある程度正確な情報をより分けることができる,と述べる。
尋問を行った警察官や,コーディ自身に話を聞いたトーマは,証言の疑問点をあきらかにする。それは事件当時,コーディの顔を見た犯人が,「言葉では表現できない奇妙な表情をした」,ということだった。
コーディには人の顔が認識できないものの,その「表情」を認識することはできたのだ。だが,認識は不完全で,犯人の不可解な表情の理由は想像がつかない。
一方警察は,ヒッピー事件の生き残りの証言から,身元不明の被害者がクロフォード・リリブリッジの双子の子供の一人,ウィルソンであることを知る。またウィルソンの兄が,現在ウィリアム・リアリーと名乗っていることも判明する。それはサリー・リアリーの父親の名である。ウィリアムはコーディが事件を目撃した当日,自宅で脳卒中で倒れ,運ばれた先の病院で死亡していた。
事件の前日,ウィルソンは金の無心のためにウィリアムを訪ねている。バロットは当初ウィリアムがウィルソンを殺害し,その後自宅で倒れたと考えたが,それにしては不自然な点が多い。
サリーには,ウィルソンを殺害することは時間的に不可能だが,被害者がウィリアムだとすれば犯行は成立する。バロットは両者が入れ替わっているのではないかという疑念を抱くが,双子の入れ替わりを証明するものはない。
コーディの診察はさらに進み,彼には認識可能な表情と,そうでない表情があることが解った。また,それがどんな表情であるかは解らないものの,表情の固定自体は可能であることも。
サリーが父親を殺す動機を見つけた警察は,トーマに手助けをして欲しいと持ちかける。コーディが見た犯人を固定するラインナップ(複数同時提示型面通し)の場を設け,犯人を追い詰めるのだ。前代未聞の,表情のみに焦点を絞ったラインナップが始まる。
サリーと似たような背格好,似たような服装をした人々が警察署に集められた。コーディが見たのと同じ表情の犯人を,その中から特定しようというのだ。
この段階では,誰が誰なのか,相貌失認であるコーディには判別がつかない。バロットとトーマが謎解きをする様を,コーディは別室で見つめる。
ウィリアムとウィルソンが入れ替わっており,アリバイのあるサリーにも犯行が可能であること,そのサリーには動機があることが説明され,さらに四十年前のヒッピーの薬物中毒死事件の謎や,三百年前の魔女裁判の謎もあきらかになる。
何故クロフォード・リリブリッジは屋敷のガラスをすべて撤去して隠遁したのか? その謎が解かれた時,コーディは並んだ人々の内に,確かに自分が鉢合わせした時の犯人の表情を見た。
自分が見た犯人がどの人物なのかを刑事に告げた後,コーディは,サリーが今どんな表情をしているかと問いかける。
とても哀しそうな顔に見える,と刑事は答える。
一読,この作はもう充分に傑作の領域にあると感じて,このような高度で緻密な本格ミステリー作品が,福ミスのような地方の小賞に投じられてきたことに感謝した。本賞受賞作は,この作以外にはないであろう。
ストーリーは,心理学の専門家によって精密な作られ方をしており,使われている専門領域の知識,情報も確かなもので,これらを縦横に駆使しながら終始思考していく体質は,本格の二十一世紀の型をよく示して未来的であった。
文体も,経験と熟練を感じさせる風合いがあり,アメリカ,マサチューセッツ州の小都市を舞台に,英語人ばかりが行動する内部にも,作者の実体験が反映されているのか違和感がない。専門家らしい説得力のある判断を都度主人公にさせながら,冷静で沈着に運ぶ筆も,安定的で着実な推進感があり,新人離れがしている。文学歴がないことは,文章修行を別所で為したことを示して,本格ミステリーのフィールドに,異色の才が登場したことを告げた。
福ミスを開設して当方が求めた,理想に近い作品に出遭うことができ,賞もよいスタートが切れたし,福山市も,また一回目の刊行担当である講談社も,幸運であったと思う。
ただし,作品がこれだけ玄人の領域にあると,かえって未達成部分や弱点,修正するべき点がよく見える。それはすなわち,完成が高度であるがゆえに生じた,磨きをかけたい気分というものである。
まずは,この作風では量産がきかないであろうことを心配する。充分に立派なデビュー作であるが,専門領域にあるこれだけのアイデアが,はたして今後も複数あるものか。もしも二作目が長く出ないようなら,そうした新人を即戦力と呼び得るか否かは議論となろう。
あまりに思いきりよく専門領域に徹してしまっているから,知的レヴェルの高い読者ばかりを想定しているようなところがあり,読み手を選びそうな気配がある。選考委員や編集者なら積極的に作に入り込むことをするが,自身で金を払う読者は強制されているわけではなく,読むことに親切ではない。ジャンルの将来のためには多くの読者に読まれる方がよいから,作の水準は落とさず,一般的なミステリー読者をも巻き込めるような体温を,作に与える方がよさそうだ。
知的にすぎるまでの筆の運び方ゆえに,文章が冷えて感じられる。これは「罪人いずくにか」と好対照で,「罪人──」が怒りという爆発で熱く突進する内燃機関車なら,「玻瑠の家」は磁場の発生を巧みに活用し,静かに強力に推進回転を得る,常温EVに似ている。
登場人物たちの描写もまた冷静で,作者が対象とのつきあいを楽しんだり,はめをはずしたりしないので,日本人には馴染みの薄い英語名もあって,登場各人の区別がややつきにくい。基本的にこの文章の精神は,学者の報告文に近いものである。すると,これだけ込み入った構成に,読み手がしっかり分け入れない可能性があって,作の上手さが多数にうまく伝わらない危険がある。
むろんそれゆえに,読者が正解に先回りできないことも期待できるが,このような隠蔽の方法はもう新しくなく,新世紀の本格にはふさわしくない。もう少し登場人物の人柄や,横顔の描写に筆を裂く小説型の手法を強めてもよいであろうし,各人を区別し,際立たせる工夫もあってよい。
幽霊屋敷の構造もそうで,ある人物の屋敷への侵入経路が,後半,真相解明に重要なピースとなったことが明かされる。こうした際に,建物の全体図がやや浮かびにくい。図で示すことも検討してよいであろう。
また全登場人物のリストを,冒頭に置くことも検討してよいと思う。
「相貌失認」という,人相や表情の意味を把握できない珍しい障害を得た目撃者,コーディ少年が,心理学者とともにいかにしてこの障害を乗り越え,犯行者を発見していくか,というプロセスが背骨になっているので,最後に少年が人物を特定する瞬間,人物と目が合い,障害を超越した特殊な顔面要素が相手に生じて彼が気づく──,といった劇的なアイデアが読みたい気分はきた。
そうなら,幽霊屋敷内で死体にガソリンをかけて燃やしている怪人物をコーディ少年が目撃した際,鎧戸を閉めることに失敗して大きな音をたててしまう。すると彼方の怪人物は必ずこちらを見るはずで,この際も人物と目が合い,その時の「相貌失認」患者の視界を,専門家としての正確な表現で文字化しておいて,結部のシーンと呼応させる趣向を読みたい気はした。
同じく,サリー・リアリーに救われた際,彼女との対面の瞬間の「相貌失認」患者の視界も,専門家による描写に興味が湧く。先の怪人物の顔面との比較はどう表現されるか。
これらの視界は,後の展開の重大なキーとなる。映像ならばもっとそうであろう。現状では,この最大級のキーが書かれていない。この判断も,作をいささか冷やしている。きわめてむずかしいことだが,これらの表現がもしもうまくいくなら,強烈な伏線となって,結末のショックは増すと思われる。
証人の少年が,魔女裁判中の被告のように,人相は理解できないが,「感情の表出としての表情」は読めるのであれば,ラインナップで揃えられた人々に,何らかの行為を仕掛け,それによってさまざまな表情をさせて少年に見せる,という演出発想は必要ではないのか。またこういう方法の効果はどうなのか,気になった。
「相貌失認」という障害に特定的な心理学的スキルが探偵の判断に使用されるが,このかたわらで補助線を成すものは,高額になる診療費に対する配慮など,いわば江戸川乱歩の「心理試験」的な要素である。そうならこれは専門領域の知識は要しないので,読者も推理に参加できる。これらも含め,主人公トーマが得た重要と思われる材料は,リストにして一度,堂々と読み手に示しておいてはどうかと感じる。こうした大胆な仕掛けによっても,より読者を内部に誘い込めるであろう。
トーマの試験中に少年が描いた絵を,読者に示す趣向も雰囲気作りに悪くない。
同様に,真相としての「特殊事情」を暗喩する伏線は,もう少し作中に撒いておきたい気もした。これが少ない現状は,ややリアリティを欠きそうでもある。顔が写らないように硝子と鏡をはずす,銀食器も同様であった,ということなら,顔が写りそうな対象は,日常生活中,ほかにまだある。自家用車のルームミラーは,水たまりの氷結は,銀メッキされた金属の事物は。授乳の際の乳母をはじめとする使用人たちの言動はどうか。また真相露見の危険性は,鏡像のみではないかもしれない。
昔語りの挿話が定期的に入ってくるが,これと真相追究の部分とのつながりが,充分には太くない。人物の系譜的なつながり説明のほかに,「相貌失認」という病の特徴を用いた関連が作れれば,さらによいと感じる。患者が唯一読める,柔和な表情と反抗的な表情,慈悲と告発,こうした要素,あるいはそれ以外でもよいが,これらがコーディの気づきのきっかけになるなど,直接的な関与があればさらに面白いであろう。
実体験が反映していないためか,主軸部分の描写よりも,この部分の描写は,やや定型依存的でクオリティが下がって感じられる。会話文も,英語には見あたりにくい日本語固有の構文や,時として江戸時代ふうの発言までが混じる感があり,注意してそうした表現には手を入れたうえで,できることなら,ここは微妙に文体を変えられるなどすればベストであろう。
自分に富をもたらしたガラスが,最後に自分を追い詰める。この皮肉な構造にも,短く上手な言及ができたらよいと思った。
後記。その後作者とともに改善の方策をよく話し合い,その過程で,解決部分のラインナップにおいて,ある劇的な仕掛けを思いついてもらえたので,着地部分に華ができた。それによってこの作は,ほぼ完全な仕上がりになったと感じている。
名前に東・西・南・北の文字を含む、十六歳の女子高生四人による小劇団『羅針盤』。彗星のように現れ、しかしひとりの死によって活動は停止された。
そして四年後、ネット配信の短編映画『edge』の撮影が、崖ぎわの館で始まろうとしていた。
ブレイクのチャンスと燃える女優・舞利亜に、監督の芽咲が意味ありげに話しかけてくる。君、昔、羅針盤の一員だったよね、と。それは、舞利亜にとって忘れかけていた、いや、忘れたい過去だった。……舞利亜こそがそのひとりを殺した犯人なのだから。
果たして舞利亜とは誰なのか。殺された「あの子」とは誰を指すのか。過去と現在が交差しながら、物語は進んでいく。
――四年前。楠田瑠美は、橘学院演劇部顧問・渡見の圧制に切れて、演劇部を飛び出した。賛同したのは、同級生のバタこと北畠梨里子、来栖かなめのふたり。さらに、別の高校に通う江藤蘭が加わり、自分たちの舞台を作ろうと旗を揚げる。羅針盤の誕生だった。
しかし高校生の財力や集客力では、劇場デビューは難しい。かなめの姉で、親が離婚したため、今は別居している子役出身の女優・広瀬なつめが協力してくれるが、他の劇団の主宰からは甘いと笑われてしまう。
そんな四人が思いついたのは、ストリートライブだった。紆余曲折の末、なんとか客を集めることもできた。だが、瑠美は鼻を明かしたかった顧問の渡見からバカにされ、いじめられっ子だったかなめも中学時代の同級生から嫌がらせを受け、順風満帆とはいかない。バタも、蘭も、それぞれに問題を抱えていた。
それでも励ましの声があり、周囲のストリート奏者にも助けられ、四人はなんとか歩を進めていくのだった。
さて一方の現在では、恋人役の男優・倭駆も到着し、撮影が始まった。しかし映画の台本は舞利亜の知らぬうちに変更され、ヒロインのはずの舞利亜は復讐される殺人者の役になっていた。新たな台本では、自身が四年前に思っていたと同じ呪詛の言葉がつづられていて、舞利亜は不安な気分に陥っていく。
過去の犯罪が暴かれていくかのような撮影現場に、脚本も担当する芽咲監督、スタッフたち、共演者の倭さえ、みなが怪しく思えてくる舞利亜だった。
撮影終了後、舞利亜のもとに脅迫状が届いた。総てを知っていると。
物語は再び四年前に戻り、県内の小劇団が集うステージバトルがきっかけとなった四人の軋みを描いていく。突っ走るもの、気持ちが行き違っていく仲間、母親との確執に悩むものがいて、羅針盤で作っているブログも荒らされる。ステージバトルでは観客を沸かせることができたが、主催者との間にトラブルが起きてしまう。
関係を修復しようとする四人に急展開が訪れる。やがてひとりの死を原因として、羅針盤は活動を終えた。
現在。舞利亜は脅迫状の誘いにより、無人の撮影現場に戻ってきた。誰が罠をしかけたのかを見極めるために。
はたして舞利亜の正体は――
ネット配信の,短編ホラー映画に主演すべくやってきたヒロインが,数年前に起こったある女子高生の死亡事件に関与していたらしく,ロケの中途,姿のない存在に因縁の責任を追及され,脅迫され,追い詰められる。
こうした構成自体に新しさはなく,一種定型であり,ほとんど器(うつわ)化しているのだが,俯瞰した際,これもまた本格ミステリーとしての上等な仕掛けといえるであろう。ミステリーとしての当作は,こうした既存の型に,ある程度寄りかかって書かれている。
時間を戻し,当事者たちが役者志望の女子高生であった時代,展開される青春のドラマにこそこの作者の真骨頂があり,女子高生たちに特有の心理や,反応対処の型,そして少女らしい闘いや挫折を手際よく描いて見せる筆に,作者の資質と自負心があるように見受けられる。
この部分は,述べたように,器に入れ込んだ独立体という安堵感から,作者の筆はミステリー構成を忘れて集中し,存分に暴れている。少女たちの夢,頑張り,闘い,喜びや悲しみ,何より親や教師の側が,自らの保身を行儀の理屈に押し込めて,安心して要求してくる姿や,こうした理不尽に対する娘らしい憤りを代弁する筆は,的確であり,冴えてもいる。
ただ,損得を遠慮なく前面に出しての都度のとげとげしい不平や,娘らの行動心理の裏面事情を説明する筆が,逐一過剰なまでに繰り出されるから,登場人物の一人がいみじくも言った,「うざい」という印象が,前半は来がちだった。
読み手の気持ちをいっときも休ませぬこの神経戦的とげとげしさは,高度経済成長時代の男性社会型の威張りに無自覚に影響されていて,パフォーマーたちの躍動の喜びが書き忘れられる。こうした空気は国際的でなく,改善提案を含まないから未来的でもなく,まことにサムライ日本型の戦闘性である。本格ミステリーとしての刑事事件進行の語りとか,夢に向かう彼女らのドラマの説明に,このこまめさがブレーキをかけ,進行を足踏みさせるようなもどかしさが,前段にはあった。
しかし後半に向かうにつれ,そうした筆も徐々に減じて適量になり,ドラマ進行の速度とよく噛み合うようになった。事件説明の要請が多々現れ,自然にバランスがとれてきたゆえであろう。結果,進行に自然な勢いがついて,少女らの心の描写の的確さが,こちらによく伝わるようになった。
結部にいたって,本格としてのトリック構造は,ヒロインの存在自体をも巻き込んで設計されていたことが判明して,心地よいショックが来る。追い詰められ,パニックに陥ったヒロインが見せる女性的な保身行動の醜さも,奇妙に安定した心地よささえ味わわせて,作者のこの方向の資質を伝える。
この人はすでに自身の文体を持っていて,書ける人である。同方向のアイデアももっと持ちそうだから,即戦力というなら,この人であるのかもしれない。何らかのかたちで,世に出てもらうのがよいかと思う。
当該作品も,前半の女性世界のとげとげしさを多少刈り込み,適量楽しさを書き加えるなら,商品としても充分に成立するであろう。
古風なタイトルに関しては,一考の余地がある。また「崖の上のポニョ」で注目の鞆の浦などは,短編映画『edge』の撮影現場になかなかふさわしい。
冒頭部分の魅力と吸引力は,この作が全候補作中,突出していた。
①,当作品は本格ミステリーである。
②,この世界には魔法が存在する。
③,あらゆる意味において,当物語はフェアプレイの精神に則っている。
④,魔法を除くあらゆる事象については,自然科学の法則に基づく。
といった宣言が読者に向かって最初になされる様子は,実に堂々たるもので,その示すところの具体性を思えば,はたしてここまで可能なものか,大丈夫かと,こちらが心配になるほどであった。
続いて悪魔が登場して八百年を生きてきたと語り,自身の実在を訴え,そうしたうえで示される謎も,充分に大きく魅力的なものである。ある女子高生が,帰宅中に人間を小脇に抱えた巨人を目撃する。直後,彼女は小人に追われ,逃げのびる。さらに,この巨人はひとつ目であった──。
そうした出来事のそばで女性の転落死体が発見され,そばに高層の建物があるにはあったが,そこから転落してはいないことが,警察の捜査によって示される。
このような謎が,宣言どおりのフェアプレイにより,しかも自然科学の法則に基づいて説明されるなら,続く展開は前代未聞の発想とスケールを持つことが期待され,これから十年に一度の傑作が読めるものと確信した。
ところが残念ながら,続いた物語は冒頭の宣言ほどにはこちらを興奮させてくれなかった。物語の進行につれ,謎のスケールは漸次縮小していき,事件の構造はみるみる標準的な様相を呈しはじめて,後に残ったものは,自然主義的なセンスによってクローズアップされたわが政治機構の現実と,生々しい社会問題である。
むろんこれらに対して展開される論説には,優れた鋭いものもあるのだが,冒頭の宣言や,提示された大きな謎の光景と,決してなじみのよいものではなく,冒頭の条件や方向性に大きな魅力を感じて読み進めてきた本格志向の読者には,非常に読みたいものではなかったろう。モーションが摩り替わった感がして,一種の肩透かしを感じる読み手も多いはずである。
その様子は,先頃のオリンピック競技にたとえて言うと,高々と世界新の高みに上げさせたバーに向かい,完璧なスタートダッシュと走行フォームで迫り,樹脂製の棒を見事にしならせてバーに向けて伸びあがったものの,棒がぽっきりと折れ,ぽとんと背中から落ちた棒高跳びの選手を連想した。
この方向の内容に,はたしてあの宣言文は必要であったものか。語義通りに物語を展開させたいなら,もっと徹底した人工的世界構築を為し,ゲーム感覚に徹するのがよい。
かつて筆者が,「本格ミステリー宣言」などで述べた大きな謎という要求が,大きさそれ自体,冒頭提示というそのスタイル自体に向かって整えられ,大いなる無理をして網羅的に示されたが,作者自身の把握に誤解があって,ひとつ目の巨人も,小人も,どこにも現れてはいなかった。
ゆえに,これらがいるものとして始まる以降は,説明の文体が毅然とせず,ごまかしが意識されて輪郭がぼやけ,読み手に焦点を結ばさせぬその絶えざる配慮は,冒頭の堂々ぶりとはかけ離れた線の細さであった。解明が語られる結部にいたれば,悪魔も魔法も消えうせて,ささやかな謎の残滓が残った。
とはいえ,これは批判の一方ではない。これは本格のゲーム性,人工主義に視線を偏らせた際の感想で,視点を変えれば別の評価もあり得る。また人工主義観点から見ても,冒頭に示された宣言文のセンスはきわだって一級のものであり,この作者のゲーム型構造発想が,非凡なものであることを示している。
後はこの宣言の示す語義に,内容を真に近づける努力が求められている。人工主義に自然主義の混合は,できないわけではないが,きわめてむずかしい。そのためには,事態をごまかす自己暗示発想は捨て,徹底した客観発想に身を晒すことである。
読んでいる間中,何故これが「本格寄りのミステリーを求める」と明言している福ミスに投稿され,しかも候補作にまであがってきているのかと首をかしげ続けた。現れている事件は,計画犯罪でもなければ格別込み入ったものでもなく,標準的とさえ言いがたい簡単なものである。進行のスタイルにも本格の気配は皆無で,どう見ても失敗したハードボイルドだ。
主人公にさほどの知性は感じられず,その周辺にはさらに感じられず,よって事件は低脳が起こす即物的なものばかりで,頭脳プレイの片鱗もない。単純きわまる暴力シーンが延々と続くだけであるから,物語に推理の論理も現れない。よって作者が読んで欲しいものは,どうやら主人公の気の利いた言い廻しのみであるらしい。
ところがこの言い廻しがまた,どうにも気が利いてみえない。思いついた言い方をすべて書いているというふうだが,その大半はすべっている。のちに再読,取捨選択した痕跡がない。そもそもハードボイルドのこうした台詞は,主人公の知性と経験の量が周囲と際立って差があり,ゆえに事態把握の手際に差が生じ,その余裕がハードボイルドの台詞になるのであって,いわば主人公の小利口さの宣言である。知性に差がなければ皮肉も警句も,うんざりしたふうの余裕態度も無理やりのものになって,マーロー気取りは一幅の戯画に堕す。これはそうした実験でも読ませる気かと疑った。
後半にいたれば持ち弾を撃ち尽くしたか,格好いいらしい表現も繰り返しが多くなって,ジョークのすべりはさらに派手派手しいものとなり,それでもものかわ,同じことを書き続けるさまはほとんど異様で,あっけにとられた読み手からは,もはや失笑も出ないように思われた。
「うじうじした男って,駄目なのよね」の,離婚調停中の妻に言われたらしい言葉が執拗に繰り返されるのだが,この意味も解らず,「おしゃべりな男って駄目なのよね」か,「思いつきの格好よさをすぐに書いて,後で点検しない男って駄目なのよね」の間違いではあるまいかと思った。彼は軽薄なおしゃべりは目立つものの,うじうじはして見えなかったからである。
地方警察が土地の巨悪と癒着しており,街を牛耳るこの巨悪の為した犯罪が,したがって放置されており,そこに州警察から,英雄気取りの落ちこぼれが派遣されて捜査を始める──,これはこの手のドラマの常道である。地方警察としては本気で捜査してもらっては困るし,まして解決などまっぴらである。
しかしそう思うなら,裏から手を廻すなりいくらも方法はあろうに,落ちこぼれ当人に面と向かって警部がデンとの癒着を告白し,であるから新聞でも読んで時間をつぶし,捜査なんかするなの単刀直入ぶりは,いったいどうした趣向かと思った。これではまるであらすじ文で,読むところがなくなってしまうと思っていたら,最後の最後のエピローグですべてをひっくり返して見せたから,いろいろな意味で唸らされた。
主人公の無能ぶりをこれでもかと見せつけ,計画性や知性皆無のB級劇画的な内容を,本気で格好よいハードボイルドに仕立てようと,乏しいボキャブラリィを駆使して四苦八苦しているのかと思っていたものだから,うまくだまされた。
確かにこれなら本格である。意表を衝いた悪くない構造で,主人公の能天気な善人ぶり,知性とまるで縁遠い馬鹿な格好つけに苦笑させられ続けた読み手なら,この真相を先廻りして見抜ける者はないであろう。
しかし,とは言うものの,やはりこれは二百五十枚くらいの中篇のアイデアであって,この書き方の前段で,八百枚はいささかきついと感じる。八百枚なら,前段ももっと本物にしなくてはもたない。
中篇ならば,感覚シャープな,なかなかの佳作ともなり得たろう。悪くはないのだが,やはり前半のたっぷりしたもたつきの印象が強すぎるので,本賞受賞作に推す決心はつかなかった。