コウモリ通信

龍馬・鞆の浦ミステリー探検 正解発表!!

 1017日より福山市鞆町で開催した「龍馬・鞆の浦ミステリー探検」が1124日で終了いたしました。鞆の浦歴史民俗資料館での特別展「坂本龍馬といろは丸事件」と同時開催ということもあり、全国からたくさんの龍馬ファンの方にご参加いただきました。また開催期間中に、2010年の大河ドラマ「龍馬伝」の主役が福山雅治さんに決定したという報道もあり、多くの方に関心を持っていただけました。

 

 

 10問のクイズは島田荘司先生に作成していただきました。「難しい」というご意見もありましたが、「わからない所は地元の方に尋ねた」という方も多くいらっしゃったようです。

 

 

応募総数は1,330通で全問正解者は1,136名(正解率85.4%)でした。北は青森から南は沖縄まで、たくさんのご応募をいただき、本当にありがとうございました。正解者の中から抽選で50名様に「直筆サイン入り島田荘司展図録」「保命酒」「ちくわ詰め合わせ」「下駄」「ばらグッズ」「備後絣グッズ」をお送りします。なお、当選者の発表は発送をもって代えさせていただきます(12月上旬を予定しています)。

 

 

 

問題1 龍馬サポーターの謎  【正解 ③

173

 

 看板の隣に立っていた石柱に「桝屋」の文字があります。坂本龍馬はじめ海援隊隊士たちは、この桝屋に宿泊し紀州藩との交渉に挑みました。当時そのままに残る「龍馬の隠し部屋」は一般に公開されていませんが、今年4月に島田先生は現当主のご配慮により特別にご覧になられています。

 

問題2 対潮楼の謎  【正解 ①】

 

 

 右から「日東第一形勝」と読むと意味が通じます。ここからの眺めはすばらしく、正徳元年(1711)李邦彦が書いた「日東第一形勝」の大毫が今も残っています。この対潮楼は「朝鮮通信使関連遺跡 鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定されており、朝鮮通信使は11回鞆に寄航したことが確認されています。

 

 

 

 

 

問題3 紀州藩の謎  【正解③

174

 

 いろは丸事件の折、紀州藩が宿舎として利用したのがこの円福寺です。現在は鞆の町と陸続きになっていますが、南北朝時代は島であり、大可島城として合戦の舞台ともなりました。ちなみに境内の墓地には全国的に有名な「仁丹」の創始者の墓所があります。

 

問題4 談判会場の謎  【正解 ①】

 

 

 鞆でのいろは丸事件の談判は、魚屋萬蔵宅で行われました。鞆の浦での談判は4日間行われ、その後舞台を長崎へと移します。この建物には談判跡が復元され、今では宿泊施設として利用されています。また、通りから見える2階のステンドグラスは、2ヶ月余り鞆に滞在して「崖の上のポニョ」の構想を練ったといわれる宮崎駿監督がデザインしたものです。

 

 

 

 

 

問題5 鞆港の謎  【正解 ①】

175

 

 

 常夜燈付近で今も見ることの出来る雁木は、潮の干満に関係なく荷の積み下ろしができるようにする階段状の施設です。潮の引いたときにここに座って眺める港の景色も素晴らしく、ミステリーマップに載せた島田先生のスケッチも、この雁木に腰掛けて描かれたものです。

 

問題6 保命酒の謎  【正解 ③】

 

 

 杉玉は造り酒屋の軒先に吊るすもので、その年の新酒の仕込みとともに制作し、葉の色の変化が熟成の度合いを表すと言われています。出題ポイントとなった太田家住宅には、保命酒を造っていた江戸時代の商家や、醸造・貯蔵のための建物群が残されており、国の重要文化財に指定されています。また、幕末には京を追われた三条実美らが立ち寄っており、「鞆七卿落遺跡」として広島県史跡にも指定されています。

 

 

 

 

 

問題7 いろは丸積荷の謎  【正解 ②】

176

 

 

 龍馬は、いろは丸に最新式の銃が400丁積んであったと主張し、紀州藩から多額の賠償金を獲得します。しかし4回にわたって実施された推定いろは丸の水中考古学調査では、銃はおろか銃の部品すら見つからず、銃を運んでいた証拠は見つかっていません。実際に海底から回収された船体や積荷の一部は、「いろは丸展示館」に展示されています。

 

問題8 常夜燈の謎  【正解 ②】

 

 

 常夜灯の側面に「安政六年」(1859年)の年号が刻まれています。ということは、龍馬も全く同じものを見ていたことになります。海援隊での初航海でいろは丸を失ってしまった龍馬は、いったいどんな思いでこの常夜燈を眺めたのでしょうか。現在は鞆のシンボルとして多くの観光客で賑わい、地元では「とうろどう」とも呼ばれています。

 

 

 

 

 

問題9 鞆の浦をめざした謎  【正解②】

177

 

 

 これは出題ポイントが離れており、現地に何もないため、少し不親切な問題だったかもしれません。焚場(たでば)とは、船底をあぶってフナムシなどを取り除き、船底を乾燥させて船を長持ちさせたり、船の補修をしたりするため施設です。焚場跡は部分的に試掘調査が行われ、砂浜の下に石敷きの焚場跡と見られる遺構が確認されています。この周辺は今も「焚場町内会」といわれています。

 

問題10 いろは丸沈没現場の謎  【正解②】

 

 

 鞆の浦歴史民俗資料館の展望台前にヒントの地図がありました。空気の澄んだ日には、ここから瀬戸の島々と四国山脈が望めます。いろは丸は岡山県の六島沖で紀州藩の明光丸と衝突し、鞆への曳航される途中に宇治島の南方、北緯341646秒、東経1332840秒の地点で沈没してしまいます。島田先生はこれらの地点も船でめぐりました。

 

 

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